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7話

 

 「マルガレーテ」までは道が混まなければ馬車で二十分あまりの距離である。わたしは馬車の窓から見慣れた街並を眺めながら、この風景にも違いがあるのだろうか、と考えていた。ゲームでは街の風景までは見られなかった。だから、たとえ違いがあったとしても、わたしには見つけることができない。わからない。


 この世界がすべて、わたしにとっては間違い探しのようだと思う。


 ゲームで見た世界とわたしがいま生きているこの世界。その違いを一つ一つ見つけていって、それが良い方向に違うのか、悪い方向なのか、わたしの目で確かめていく。わたしにできるのはそれくらいのことだが、それすらも本当にできるかどうかわからない。もしかしたら、見過ごしてはいけない何かがあっても、この風景のようにただ目の前を通り過ぎていくだけかもしれない。


 けれど、それでも、間違いを見つけることができたとして、それが悪い方向に違っていたり、そのせいでバッドエンドに向かったりするのなら、エリーゼが決して不幸にならないようにできる限りのことをする。


 ただし、忘れてはいけないことがある。


 これはすべてわたしの自己満足でしかないことだ。たとえどんなに悲惨なバッドエンドを迎えても、エリーゼにとってはすべて幸せな結末なのだから。


「勿忘草のエチュード」において、エリーゼは傍目から見てどんなに不幸に見えても、最後まで自分を幸せだと思っている。たとえ命を落としても、誰かを精一杯愛した結果なのだから悔いはないと。彼女は一度誰かを好きになったら、他の誰かに言い寄られても決して気持ちが揺らぐことはない。最後までただ一人だけを思い続け、その人の幸せのために行動し続ける。一途でけなげなヒロインなのだ。


 ゲームでは迷わず身を捨てるほどの情熱が危うくて魅力的に思えたが、実際に目にしてしまったら、きっと心配でたまらなくなるだろう。


 たとえば、これから開かれる王城の舞踏会で、エリーゼが攻略対象の誰かと踊って、その誰かと恋に落ちたなら――。


 わたしは思わずため息をつく。それは、もちろん、アルフレートと恋に落ちてくれたら安心だけれど、それこそ、わたしにはどうにもできないことだ。恋をするのはエリーゼなのだから。


「あら、ため息をつくなんて、どうかして? クラリッサ」

 隣り合って座っていたエリーゼがスケッチブックから顔を上げる。

「ちょっと、考え事をしていたの」

「まあ、どんなこと?」

「エリーゼのことよ」

「ええっ!? わ、私のこと!?」

 突然エリーゼが大声を上げたので、向かいの席で新聞を広げていた父さんが「どうした? 何があった!?」とうろたえた声を上げた。

「いいえ! いいえ! おじさま、何でもないんです! もう、クラリッサが急に変なことを言うから!」

 エリーゼは両手で頬を押さえて、顔をうつむける。


「驚かせたならごめんなさい。わたしがエリーゼのことを考えていたら、そんなに変かしら」

「い、いいえ? そんなことはないけれど」

「わたし、ただ、エリーゼが王城の舞踏会で誰と踊るのかしらって考えていたの」

「王城の、舞踏会?」

 エリーゼは不思議そうに顔を上げる。


「おお、そうだ。舞踏会!」

 父さんがぽんと手を打ち、新聞を押しやる。

「そういえば、一昨日、王城の舞踏会の招待状が届いたんだよ。何でも今年は第二王子レオン殿下の生誕と成人を祝うための舞踏会だから、それは盛大に行われるそうなんだ。本当は昨日話すつもりだったんだが、あの騒ぎだったからなあ。すっかり忘れていたよ」

「お父様。その舞踏会はいつあるの?」

 勢い込んで尋ねると父さんは目を見開く。

「クラリッサ。お前が舞踏会に興味を持つとは珍しいこともあるもんだな。開催は五月十日だよ。それで、エリーゼ。この前、カイル殿から言われたんだが」

「――カイル、お兄様が?」


 エリーゼが戸惑ったように瞬きする。

「ああ。先日たまたまお会いしたときに言われたんだ。王城の舞踏会でのエリーゼのエスコート役はぜひ自分に務めさせてほしいと。縁あって一度はきょうだいとなった仲なのだから、せめて、こういうときくらいは自分を頼ってほしいのだと、そうおっしゃってな。まずは私に話を通してから、と言われていたが、もちろん、私に異存があろうはずもない。エリーゼも喜ぶでしょう、と答えておいたよ」

「ま、まあ、カイルお兄様が、そんなにお優しいことを言ってくださるなんて……」

 エリーゼはたちまち目を潤ませる。


 そういえば、エリーゼの基本的な設定が変わったのは何もグライナー家で一緒に暮らしていることだけではなかった。


 エリーゼの父親とエリーゼをメイドとしてこき使っていた継母はすでに離縁している。それもあって、彼女もすんなりこの家で一緒に暮らすことができたのだ。だが、義理の兄だったカイルはたとえ両親が別れても一度はきょうだいになったのだからと、今でも自分を兄と呼ぶように言い、何かと彼女を気にかけている。


 その姿に「なんていいお兄様なのだろう」とエリーゼと一緒にわたしも感動していたのだが、記憶を取り戻した今ならわかる。


 さすが「ストーカー眼鏡」の異名を持つ、義理の兄カイル・クレヴィング。「勿忘草のエチュード」が誇る最高のストーカー「シスコン眼鏡」(ただしひたすら見るだけで手は出さない)と言われるだけのことはある。もっとも彼自身はエリーゼを一人の女性として思っているという意識はない。あくまで、兄としてかわいい妹を見守っているのだと信じているからこそ、余計に厄介なのだ。あれだけ自分は愛を捧げまくっておきながら、断固としてエリーゼの思いを拒絶する彼の攻略にどれだけ苦労をさせられたことか。最後の最後まで落ちないのかと思って、ゲーム機を必死で見続けたことをよく覚えている。


 それにしても、まさか、舞踏会の招待状が届く前に先手を打って、父さんにまで根回しをしておくとは思わなかった。よほど、エリーゼのエスコート役になりたかったのだろう。


「カイルお兄様のお気遣いはとてもうれしいけれど、私、王城の舞踏会には行かないつもりなの」

「どうして? わたしも参加するつもりだし、あなたもぜひ行くべきだと思うわ。エリーゼ」

 わたしが言うと、父さんもエリーゼも目を丸くする。

「どうしたんだい、クラリッサ。小さな集まりならともかく、お城の舞踏会なんて本当にお店のためになるかどうかわからないし、気疲れしそうだから行きたくないと去年はさんざん言っていたじゃないか」

「そうよ。クラリッサ。だから、去年は舞踏会に行く代わりにお店を特別に夜まで開けて、月明かりでダンスパーティーをしたでしょう。お客様もいっぱい来てくださって、みんなで踊ってとても楽しかったわ。できれば今年もそうしたいと思っていたのよ。ねえ、クラリッサ」

 エリーゼは潤んだ青い瞳でわたしを見る。


「私、舞踏会なんて行きたくないわ。だって、私、あなたと一緒にいたいんですもの」


 ――この台詞。


 これはカイル・クレヴィングとの序章の会話の中で選択肢の一つにあった台詞ではなかったか。確か、この選択肢を選ばなければ、カイルルートに入ることはできなかったはずだ。もちろん、それ以降の選択肢次第で他ルートに行くこともできるけれど、カイルは「だって、私、お兄様と一緒にいたいんですもの」で落ちるのである。落ちやすく、落としがたい、と彼が言われる所以である。


 それはともかく、そんな重要な台詞をなぜエリーゼはわたしに言うのだろう。義理の兄としてカイルが傍にいないから、彼の代わりに傍にいるわたしがその役目を負うことになったのだろうか。


 それとも、ありえないことだが、まさか、わたしは――攻略対象の一人として、今、まさに攻略されようとしているのか。


「ねえ、だめかしら。月の下で今年も一緒に踊りましょうよ。クラリッサ」


 その微笑みだけで、すべてを魅了するヒロイン、エリーゼ。 


 わたしは吸い込まれそうなほど美しい青の瞳に見入っている自分に気づいて、思わず目を閉じる。


 ――だめ! だめよ! 何を考えているの! わたしったら!


 愛らしい言葉に萌えている場合ではない。これはゲームではない。現実なのだ。


 ――しっかりしなさい、クラリッサ・グライナー!


 わたしはぐっと拳を握る。


 エリーゼがどんなにかわいらしくとも、愛らしくとも、わたしたちは女同士! わたしとエリーゼはお友達! こんなたった一言で、この一瞬で、エリーゼとの大切な友情の歴史を壊されてたまるものか!

 

 わたしはたった一言で落ちたストーカー眼鏡とは違うのだ。


――そうだ。


 わたしはあの眼鏡とは違う。断じて違う。


 ようやく落ち着きを取り戻したわたしは、笑みを浮かべる。 


「ええ。わたしだって、あなたと一緒にいたいわ。だから、今年は一緒に王城の舞踏会に行きましょうよ。エリーゼ」

 わたしはエリーゼから目をそらして、向かいの父さんを見た。これ以上はいけない。あの潤んだ青い瞳を見てはいけない。

「だって、今年は盛大に行われる舞踏会なのよ。エリーゼ。それなら、きっと、いつもよりもたくさんの方が舞踏会に参加されるでしょうし、いろいろな方と知り合いになれるのはお店にとって良いことだと思うわ。外国の方だっていらっしゃるかもしれないし、一人でも多くの方に、『マルガレーテ』のケーキを知っていただきたいもの」


「クラリッサ。お前は、そんなにも店のことを考えてくれているのか」

 父さんにしみじみと言われて、わたしは少しだけ、罪悪感を覚える。まったく嘘ではないが、本当でもない。どうしても、エリーゼにはあの舞踏会に参加してもらわなければならない。そうしないと何もかも、始まらない気がするのだ。


「それなら、お前のエスコートはアルフレート君に頼もうか」

「いいえ。わたし、エスコートはお父様にしていただきたいわ。構わないでしょう?」

 思わず強く言うと、父さんはうれしそうに笑った。

「せっかくの機会だし、アルフレート君の方がいいような気がするが、お前が言うんなら仕方がないな」

「あの、おじさま。私はやっぱり、舞踏会はやめておきますわ」

「けれど、わたしもエリーゼがいないと寂しいわ。カイルさんだって、あなたをエスコートできなかったらきっとがっかりされるでしょうに」

「ええ。でも」

 エリーゼは珍しくためらっている。

「エリーゼ。もしかして、カイルさんではなくて、他にエスコートしてほしい方がいるの?」

 エリーゼは目を伏せて、「いいえ。そうではないの」とつぶやくように言う。

「そうね。私、もう少し考えてみるわ。本当にお店のためになるのなら、行った方がいいでしょうし。おじさま、お返事は待っていただいてもかまわないかしら」

「ああ。構わんよ。それに、もし、ドレスのことを気にしているのなら、心配はいらない。最高の仕立て屋に二人のドレスを頼むとしよう。かわいい娘たちの晴れ姿を私も見たいんだよ」

「ええ。ありがとうございます。おじさま」

 明るく言うエリーゼの笑顔はどこか無理をしているようにも見える。


 エリーゼが舞踏会に積極的ではないのは、もしかしたら、「勿忘草の君」の仕事が遅いせいかもしれない。エスコート役を名乗り出るよりも、まず、ドレスの手配が先だろうに、あのストーカー眼鏡は何をやっているのだろう。


 エリーゼに贈り物を贈り続ける「勿忘草の君」の正体は、ゲーム最大の謎でもあり、核心であるともされていた。だが、推理するまでもない。あの思わせぶりな序章を見れば誰だって見抜けたとは思うが、「勿忘草の君」の正体は彼女をひたすら見守り続ける、執念深いストーカー眼鏡、義理の兄のカイルなのである。


 あのストーカー眼鏡からゲームの通りに舞踏会用の美しいドレスが届いたら、もっと説得しやすくなるだろうに。だが、一緒に住んでいた頃ならともかく、今の彼がまるであつらえたようなドレスを作って届けてきたら、それはそれで恐ろしい。見ただけでエリーゼのドレスの寸法を測ることができるなんて、彼の変態度が上がってしまうではないか。


 わたしがストーカー眼鏡はそこまで変態なのか考えているうちにも、馬車が緩やかに止まり、扉が開かれる。


 扉の前にいたのは御者ではなく、銀髪を短く刈り込んだ大柄な男性だった。


「おはようございます」


 彼は褐色の目で車内を見回し、わたしを認めて微笑んだ。その微笑みに、わたしは息を飲む。


 ――違う。


 間違いが、一つ。


「おはよう。ヨーゼフ。昨日は心配をかけたな」

 父さんがまず馬車を降りる。

「いいえ。親方。お嬢さんがご無事で何よりでした」

 ヨーゼフはわたしに向かって手を差し出す。

「おはよう。ヨーゼフ」

 ぎこちなく、わたしは微笑む。

「お嬢さん。ご気分はどうですか?」

「ありがとう。今日は、とても元気よ」

 ヨーゼフの差し出した大きな手を取って、道に降り立つ。

「制服を着ていらっしゃるということは、今日はお嬢さんも店に出てくださるんですね。皆、喜びますよ」

「おはようございます、ヨーゼフさん! そうなんですよ! クラリッサも今日一日、一緒に働くんです。もう、私、うれしくて、うれしくて!」

 エリーゼもまた、ヨーゼフの手を借りて、馬車から降りる。

「エリーゼさんも、ほら、はしゃぎすぎて転ばないように。あなたまで怪我をしたら、どうするんですか。お嬢さんも病み上がりでしんどくなったら、すぐに裏に来てください。お嬢さんには試作品を召し上がっていただくという、大切な仕事もあるんですから」

「ヨーゼフ」

 呆然としながら見上げていると、彼は戸惑ったように瞬きをする。


「どうしました、お嬢さん」

 少しかすれた渋みのある声。


 真っ白な菓子職人の制服を着た彼は頬に古傷があるものの、穏やかな壮年の男性にしか思えない。同じ顔のはずなのに、真っ黒な上下を着こんで、鋭い目をしていたゲームの彼とは別人だ。


 わたしは改めて「マルガレーテ」を見上げる。


 街の大通りの端にあるお菓子屋「マルガレーテ」。磨きこまれたガラス扉が自慢の、紅い煉瓦作りの大きなお店。


 ――間違い探し。


 大きな違いが、もう一つ。


 そもそも、「勿忘草のエチュード」に「マルガレーテ」は存在していないのだ。


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