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6話

 鏡の前で丁寧に髪を結い上げていく。ふわふわとした癖のある栗色の髪を生かすため普段は緩くまとめるところを今日ばかりは後れ毛もないようにきっちりとまとめていく。今日一日、わたしは「マルガレーテ」の売り子として働くことになったのだから髪型にも気合が入るというものだ。


 きっかけは朝食の席で父さんが「皆に心配をかけてしまったことだし、お前も店に顔を出してほしい」と言ったことだった。


 何でも、昨日はわたしが階段から落ちた知らせを受けた途端、屋敷に走り出す勢いのままにお店を閉めてしまったらしいのだ。まだお茶の時間を過ぎたばかりでお店がにぎわう時間にもかかわらず、突然の休業である。お客様にも従業員にも迷惑をかけてしまったのだと悟って、わたしは朝食後の果物をいただけないほどに気落ちした。それならお詫びもかねて、今日はお店に売り子として出たいと言った途端、飛び上がって喜んだのはエリーゼだった。


『久々に一緒に働けるなんて、こんなにうれしいことはないわ、クラリッサ! ええ、皆もきっととても喜んでよ!』


 もちろん、父さんも賛成してくれたことは言うまでもない。


「もう、支度はできて? クラリッサ」


 ノックの音もそこそこに、「マルガレーテ」の制服を身にまとったエリーゼが部屋の中に飛び込んできた。


「ええ。エリーゼ」

 わたしは鏡の前から立ち上がると、二人で大きな姿見の前に向かった。

「やっぱり、その制服、あなたによく似合ってよ。ああ、二人でお店に出られるなんて、本当に久しぶりね。クラリッサ」

 弾んだ声で言って、エリーゼは微笑んだ。鏡の向こうの彼女の姿にわたしは内心ため息をつく。


 エリーゼこそ、なんて、似合っているのだろう。


「マルガレーテ」の制服は「美しく、動きやすく」を基本として作られている。


 お店の売り子の制服を一新することになったとき、わたしが父さんとヨーゼフに「制服はこだわった方がいい」と訴えたのだ。誰だって、着るのならかわいい制服がいい、お客様だって売り子がかわいい制服を着ていた方がお店に来るのが楽しくなると思う、そんな風に断固として主張したことを覚えている。ただし、本音は「わたしも着るのだから、かわいい制服がいい」だったことは内緒である。


 ちょうど喫茶室も始めることだし、見栄えがいい方がいいだろう、と父さんもヨーゼフも賛成してくれて、ベルヴァルト卿にも助力をお願いし、お菓子屋の制服でありながら、わざわざ一流の仕立て屋に頼んで作ったのである。


 だが、結果的にそれが当たった。庶民向けのお店でありながら貴族が立ち寄っても不思議ではない、高級感あふれる雰囲気を味わえる菓子屋として、見事バシュタの名店の仲間入りを果たしたのである。


 エリーゼの制服姿を見るにつけても、あのとき、主張してよかったと心から思う。


 襟元と袖口に白いレースをあしらった明るい紺色のドレスは、エリーゼが着るととてもお菓子屋の制服には思えない。わたしと同じ制服を着ているはずなのに、どこか優雅で気品があるのである。このままの格好でどこぞの昼食会に招待されたって、何の問題もないくらいだ。


 お店に入れば、さらにドレスの上からたっぷりとフリルのあるエプロンを身に着ける。エプロンには好きな刺繍飾りを入れることになっているので、器用なエリーゼは勿忘草の模様を刺繍をした。「クラリッサの分もわたしがするわ」と快く言ってくれたので、わたしのエプロンにもお揃いの刺繍が入っている。


「もっとわたしもお店に出られればいいのだけれど」

 まだ「マルガレーテ」が路地裏にあったパン屋兼お菓子屋だった頃はわたしもよく店に出ていた。これでも「かわいい売り子さん」とお客様からも評判だったのだ。それが、お店が街中の大通りに移転した頃からは、売り子として働くこともだんだんと少なくなってきていた。


「それは仕方がないわ。もちろん、クラリッサがもっとお店に出てくれれば私もうれしいけれど、あなたにしかできないお仕事があるんですもの」


 エリーゼの言うとおりわたしは店主の娘にしかできない仕事――お茶会や夜会に参加して、顔を売る仕事――ばかりしてきたのである。以前はエリーゼも同席してくれていたが、わたし一人で大丈夫なのを見て取ると、彼女はお店を優先するようになった。


「誰にだってその人にしかできないことがあるんだから、できることを精一杯がんばることが大切だっておじさまもおっしゃっていたわ。とりあえず、今日は二人で売り子をがんばりましょうよ。クラリッサ。さあ、そろそろ行きましょうか。早くお店に行きたいわ」


 エリーゼに腕を取られて、わたしは歩き出す。

「ええ。エリーゼ。ところで、今日はスケッチブックを持って行かないの?」

「スケッチブック!?」

 エリーゼははっとしたようにわたしを見ると、「ありがとう! クラリッサ!」と感謝するように腕をぎゅっと抱え込んだ。


「ごめんなさい。先に行っていてくれる? 急いで探してくるわ!」

「ええ。気をつけてね。エリーゼ」

 エリーゼはまた勢いよく部屋を出て行った。


 わたしはなんとなく、部屋を出る前に鏡を振り返ってみる。


 見返す顔は「クラリッサ・グライナー」のはずだった。それなのに、ゲームでよく見た顔とは違う気がする。もちろん、倉田理沙だった頃のごく平凡な顔とはぜんぜん違う。自分で言うのもなんだが、今のこの顔はゲーム通り美少女であるはずなのに、まったく違った印象を受ける。


 ゲームではクラリッサは「はかなげでたおやかな美少女」だと何度も称されていた。


 ――はかなげでたおやか。


 それはわたしが倉田理沙だった頃、もっとも程遠い表現だった。


 クラリッサの立ち絵を見たときは、まさに「はかなげでたおやかな」少女を形にしたような、女のわたしから見ても守ってあげたくなるような、かよわそうな女の子だな、と思った。


 ゲームではそんなクラリッサをエリーゼがかばったり、守ったりする場面が何度もあった。それをきっかけに、クラリッサはエリーゼに憧れるようになり、それによって、自分自身も強くなりたいと願い、ベストエンドではしっかりとした意志を持つ一人の女性となって、凜として強く生きていくことになるのだが――。


 部屋を出てからも考え込む。


 クラリッサとなったわたしからは、どうも「はかなげでたおやか」なところが消えている気がする。それとも、自分でそう思っているだけで、もしかして、他からはそう見られているのだろうか。


「クラリッサ」


 突然かけられた声に、わたしは心底驚いた。


「アルフレート! そんなところにいるなんて、驚いたわ。まさか、壁の一部になりたい気分だったの?」

 クリーム色の壁に寄り掛かって、まさに壁の一部となっていたアルフレートは何やら考え込むような顔つきになっている。


「そんなところかな。人生とは意味のわからないことの繰り返しに思えて、実はすべてに意味があるのかもしれないよ。クラリッサ。それよりきみ、ここで僕が見る限り、歩きながら何度かつまづきそうになっていたね。考え事をするのはいいけれど、足元がおろそかになるのはいけないよ」

「あら、転びそうになっても転んではいないのだから、大丈夫よ」


 アルフレートはなぜかため息をついて、わたしに手を差し出す。


「それなら、せめて、階段はエスコートさせてくれ。これ以上、見ているのが怖い」

「平気よ。アルフレートは心配しすぎだわ。さすがにもう転がり落ちたりしないわよ」

「クラリッサ。僕はきみのことが心配で、昨日、よく眠れなかったんだよね。きみは当然、しっかり寝たんだろう?」

「ええ。よく寝たとは思うわ。寝すぎて、早く目は覚めたけれど」

「さっき朝食もたっぷり取っていたね」

「だって、とてもおなかがすいていたんだもの。けれど、食後の果物は入らなかったわ。そういえば、アルフレートは果物しか食べていなかったでしょう? 朝はもっとしっかり食べた方がいいと思うわ」


「――僕は時々、きみが心底うらやましくなるよ。クラリッサ」


 アルフレートは手を差し出したまま、にっこり笑う。


「考えてみてくれ。クラリッサ。もしも、もしもだよ。僕が手を貸さないままで、きみが一人で階段を降りていくとする。僕はじっとそれを見ているわけだ。そこで、また、きみがうっかりそのまま階段を転がり落ちてしまったら、僕はきっと立ち直れない。今夜どころか、明日もあさっても、その次の日だって、永遠に眠れなくなるだろう。さあ、もしも、そうなってしまった場合、きみはどう責任を取ってくれるのかな?」

「そうね。毎晩子守唄を歌えばいいのかしら」

 言いながらも、わたしは観念してアルフレートの手を取った。彼にここまで言わせるくらい、昨日は心配をかけてしまったのだろう。わたしにだって罪悪感がないわけではないのだ。


「きみの小鳥のような歌声は僕に安らぎを与えてくれるだろうけれど、それだけでは僕の絶望は癒されない。そうだな。せめて添い寝もつけてもらわないと」

「あら、それは、淑女に言うにはふさわしくない願い事ではないかしら」


 取られた手を彼の腕にかけさせられて、そのまま階段をゆっくりと降りていく。

「では、僕がそれを正当な権利としてきみに要求できる立場になればいいんだろうか」

「そんな立場があるかしら」

「さあ、どうだろう。きみの傍に居られるのなら、何でもいいんだけどね」

 アルフレートは楽しげに笑う。

「アルフレート。優しいのはいいけれど、あまり人のことばかり気にしすぎていると、足元どころか、自分のことがおろそかになるわよ」

「いいや。きみを気にすることは、僕自身のことを気にするのと同じことなんだよ。クラリッサ」

「そうね。わたしが転がり落ちてしまったら、今度はあなたまで巻き込んでしまうもの」


 そう思ったら、ますます慎重な歩き方になる。どこからか抑えたメイドのイーナの悲鳴が聞こえた気がしたが、気を取られるわけにはいかない。


 結局、何事もなく玄関ホールに降り立ち、ようやく手が離される。わたしはふと思いついて、傍らのアルフレートを見上げた。


 ただ階段を降りるだけなのに、思わず手を貸さずにはいられない。


 それは、まさに彼にとってわたしが「はかなげでたおやかな」存在だと言えるのではないだろうか。


「ねえ、アルフレート。わたしって、はかなげでたおやかだと思う?」

 アルフレートは微笑んだまま首を傾ける。


「きみが、はかなげで、たおやか?」


「ええ。そうよ。わたしに似合う表現だと思わない? わたしに似合うと言うよりも、その言葉がわたしそのものというか、わたしを表現するためにある言葉だと思えないかしら」


 ゲームでは「はかなげこそ、あなたにぴったりな表現ね。クラリッサ」とエリーゼも言っていた。もちろん、こちらでは一度だって誰にも言われたことがないけれど。


 考え込むように何度か瞬きして、アルフレートは言う。


「……そうだね。きみが言っている『はかなげでたおやか』はきっと、僕の知っている言葉とは違う意味なんだと思うよ。クラリッサ」

「アルフレート。それは、つまり、わたしが『はかなげでたおやか』ではないと、そう考えていいのかしら」


「どうだろう。僕が間違っているかもしれないし、後で辞書を引いてみるよ」


 アルフレートはそれとなく目をそらす。


 そらした目を無理やり合わせて、さらに追及しようとしたとき、エリーゼが「クラリッサ!」と駆け寄ってきた。


「ねえ、見て、クラリッサ! ちゃんとスケッチブックがあったわ! これで今日から『スチル』ケーキの試作を始めることができるのよ!」

「ええ。よかったわね。エリーゼ。ところで、『スチル』はケーキの名前にふさわしくないと思うのだけれど、変えた方がいいのではないかしら」

「どうしてだい? 僕はとてもいいと思うよ。変わった響きで、覚えやすいし」

 余計なことを言うな、とばかりにアルフレートを見やると、彼は不思議そうに見返してくる。


「そうですよね。アルフレート様。クラリッサったら、謙遜ばかりするんだから。寝ぼけて言ったとはいえ、とっても素敵な言葉なのだから、もっと自信を持っていいと思うわ。ああ、おじさまがいらっしゃったわ!」


 父さんが軽く手を振って、エリーゼに答える。


「さて、皆、支度ができたようだな。さあ、今日は自慢のかわいい娘二人が売り子になってくれるんだから、マルガレーテはさぞかし繁盛するだろう。これは気合を入れて働かないといけないなあ」

「あら、おじさま。それなら、開店前にクラリッサに景気づけをしてもらいましょうよ。ね、クラリッサ。久しぶりにあれもやりましょう! みんな、きっと待っているはずよ!」

「え、ええ。それは構わないけれど――」


 エリーゼの言う「景気づけ」とは何かと考えて、思い至り、わたしはひきつった笑みを浮かべる。


 記憶がないままに、わたしはなんてことをしていたのだろうか。


「ああ、アルフレート君も心配をかけてしまってすまなかったね。本当に送らなくていいのかい?」

「ええ。もう家から迎えが来ましたから。それに、同じ馬車に乗ってしまうと別れがたくなってしまいますし、だからといって、そのまま連れて行くわけにもいかないでしょう?」

 アルフレートの視線が父さんから私に移る。


 わたしに手伝ってほしい仕事でもあるのだろうか。だが、あいにくと、今日のわたしはマルガレーテの売り子という大切な仕事がある。


「もちろんだともアルフレート君!」

「そうですよ! アルフレート様!」

「貴重な売り子を誰が渡すか!」と言いたげに父さんがわたしの両肩に手を置き、エリーゼがわたしの腕を取る。


「アルフレート君、ベルヴァルト卿にどうかよろしく伝えてくれ」

「ええ。もちろんです。モラン殿もどうぞうちの店にもいらしてください。いつでも大歓迎ですよ」

 それからアルフレートはエリーゼに向きなおる。


「僕も午後には店に顔を出すよ。そそっかしいクラリッサをよろしく頼むよ、エリーゼ」

「ええ。ご来店お待ちしております。どーんと任されましたわ。アルフレート様」

 エリーゼがぽんと自分の胸をたたいて見せる。

「じゃあ、クラリッサ。足元に気をつけて」

「だから、大丈夫よ。アルフレート。人の心配ばかりではなくて、あなたも気をつけて。あなたに寝不足で倒れられたら、わたしだって困るわ」

「そのときは、きみに看病してもらうよ、クラリッサ。では、みなさま、ごきげんよう」


 アルフレートは従僕から帽子を受け取ると背を向ける。彼が帽子を振って、ベルヴァルト家の紋章入りの馬車に乗り込むのを見送ってから、わたしたちも馬車に乗り込んだ。


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