5話
花の似合う男性ならば「王子様」を名乗っても許されるだろう。昨日自分で自分のことを「王子様」と言っていたアルフレートは春の花が咲き乱れる庭の散歩道をゆったりと歩いている。
彼にいちばん似合う花は薔薇だと思うが、あいにくと今の時期には咲いていない。もっとも、庭に咲くマーガレットやチューリップ、そのほか名前の知らない可憐な花々、わたしが隠れているこの生垣の椿の花だって彼にはとても似合っている。
あまりにも早く目が覚めてしまったので――正確に言えば、おなかがすきすぎて目が覚めてしまったのだが――わたしは適当に身支度をして庭に出ることにした。朝食まで散歩でもしていれば、空腹を紛らわすこともできるだろうと思ったのだ。そうしたら、庭の散歩道でわたしより早起きだったらしいアルフレートを見つけたのだった。見つけた瞬間、わたしは彼に声をかける代わりに生垣に隠れるようにしゃがみこんだ。
そうして、そのまま、生垣の隙間から彼を見ている。朝日に輝く濃い金の髪、時折花々を見やる優しげな水色の瞳はやはり夢の王子様のようで、どこか現実離れしている。
アルフレート・ベルヴァルト。ゲームではエリーゼの幼い頃に出会った「王子様」として登場する。
屋敷をこっそり抜け出した十二歳のアルフレートは気晴らしのつもりで遠く離れた公園へ向かう。そこで彼は転んで泣いていた蜂蜜色の巻き毛の青い瞳の少女を助けるのだ。キャンディーを差し出して「どうか泣かないで。かわいいお姫様」と微笑むと、少女はすぐに泣き止んだ。
『助けてくださって、ありがとう。王子様』
『王子様?』
『だって、私をお姫様と言ってくださったもの。それに、困ったときに助けてくださるのが王子様でしょう?』
エリーゼと名乗った少女は小さな姫君のように可憐に微笑み、それからアルフレートは彼女の王子様となった。
厳格な父。窮屈な屋敷。いままで誰も自分を必要としてくれないと思っていたけれど、彼女だけは必要としてくれる。
だって、彼は彼女だけの王子様なのだから。颯爽として、格好良くて、何でもできる王子様。
『地上に咲く空を、きみにあげる。これはきみだけの空だよ』
何度か一緒に遊んだ頃、アルフレートはエリーゼに勿忘草のコサージュを作って差し出した。彼女と同じ瞳の色をした美しい野の花を差し出すことが、彼にとっての精一杯の告白だったのだ。
『ありがとう。私の王子様』
はにかんだエリーゼの笑顔を見て、彼は大人になっても彼女だけの王子様でいようと決めるのだ。
やがて、幼い恋は終わりを告げる。ある日、突然、エリーゼは公園に来なくなり、彼もまたベルヴァルトの次期当主としてやるべきことが多くあり、屋敷を抜け出すことが容易にはできなくなった。それでも、彼は毎年勿忘草の咲く頃、公園に向かう。いつか、必ずエリーゼに会えるのだと信じて。
ようやくエリーゼとのことが切ない思い出に変わり、自分が王子様だったことを忘れかけた頃、アルフレートはお城の舞踏会でエリーゼと再会するのだ。しかし、彼にはすでに婚約者がいた。成金の娘クラリッサ・グライナー。もちろん、言わずと知れたわたしのことである。
彼はそれでも再び、エリーゼの王子様になろうとする。そこで、選択肢によっては悲劇が始まるのだが――。
――悲劇なんて、始まらない。
わたしは確信を持ってうなずく。仮にアルフレートとエリーゼが恋に落ちたとして、今の彼らなら何の障害もないのだ。
まず、ゲームと違ってわたしとアルフレートは家のために結婚をする必要はない。
ゲームでは名家ながら内実は火の車だったベルヴァルト家だったが、今のベルヴァルト家は莫大な財産を築いている。数代前のベルヴァルト家の当主が趣味で始めた紅茶の店「ベルヴァルト」をアルフレートの父親、ドミニク・ベルヴァルト卿が本腰を入れて経営に乗り出したからだ。
貴族相手に老舗ながらの商売を続けながらも、中流家庭でも買えるような手頃な値段の茶葉も取り扱うことで、傾きかけた店は見事に建て直された。年々新製品も出すことで売り上げはさらに伸びており、経営はますます順調である。
「結局貴族のお客様といっても、どんなに買ってくれたってなかなか支払ってくれないことが多いからね。身分が高いお客様ほど失礼になるからって支払の催促だってできないし、あげく踏み倒されて終わりだよ。その点、現金ですぐに支払ってくれるんだから庶民のお客様はとてもありがたいんだ。こうしてやっていけるのも、貴族以外のお客様のおかげだろうね」とはアルフレートの言ったことである。
実際、「ベルヴァルト」の紅茶は大変に人気があり、「マルガレーテ」の喫茶室でも「ベルヴァルト」の協力の元、お手頃価格で提供してみたところ、「あのベルヴァルトのお茶が飲めるなんて!」と一時はお菓子以上にお茶目当てのお客が増えてしまった。うれしい反面、「マルガレーテのお菓子だって絶対においしいのに!」と悔しかったことを覚えている。
当然、今のベルヴァルト家は政略結婚によるグライナー家の金銭面の援助は一切必要としていない。アルフレートとわたしの婚約話は親同士の「互いの店のためにそうなったらいいな」という願望でしかないのである。
そのことに、わたしは心底安堵する。ゲームのアルフレートルートで最もえげつないのが政略結婚を受け入れたエンドなのである。
あのエンドは全員が笑顔のスチルなのにいちばん怖かった、というもっぱらの評判だった。
『エリーゼ。僕はきみだけの王子様でいるためにクラリッサとの結婚を決めたんだ。彼女もそれは承知している。もちろん、これは形だけの結婚なんだ。だから、きみは何の心配もしなくていいんだよ』
微笑みながらアルフレートは言い、寄り添うクラリッサもまた微笑んでいる。
『大丈夫よ。エリーゼ。私たちはあなたのことが大好きなんだから、何も心配いらないわ』
『え、ええ。わかったわ』
理由のわからない不安を感じながらも、エリーゼは微笑むことしかできない。スチルのあったのはこの場面だ。三人が笑いあっているのに、ぜんぜん楽しそうに見えない絵。やがて、アルフレートとクラリッサは結婚し、エリーゼは新婚家庭に彼らの友人として住まうことになるのだ。
このエンドはクラリッサルートにもあるが、どちらにしてもえげつないことに変わりはない。結論だけ言えば寝室は三人同じ部屋。
――これ以上はとても言えない。
これで、R12! 直接的な描写はないとはいえ、これでR12なのだ! わたしはゲームの審査基準について断固抗議したい。ゲームなら萌えたが、むろん現実では到底受け入れられるはずもない。
そして、わたしは心の中で土下座しながら、両手に顔をうずめる。
――ああああ、ごめんなさい! ごめんなさい、エリーゼ! あんなひどいエンドなのに、わたし、萌えてしまった、エリーゼ!
しかも、萌えて感想を書き殴っただけではなく、罪深いわたしは三人で暮らす二次創作まで書いてしまった。だって、書かずにはいられなかったのだ。暗い情熱が抑えられなかったのだ。
それはともかく、アルフレートルートのバッドエンドは「政略結婚エンド」以外にも五つある。「僕だけのお姫様」(政略結婚を回避したもののアルフレートがエリーゼに
自分だけのお姫様になることを強要し、互いに病んでいくヤンデレエンド)、「死が二人を分かつまで」(駆け落ちエンド)、「永遠に二人きりで」(心中エンド)、「制裁」(エリーゼが川に身を投げた後にアルフレートが殺されるエンド)、「勿忘草」(アルフレートだけが川に身を投げるエンド)である。
そういえば、クラリッサルートの「政略結婚エンド」で明かされた彼の変態的な嗜好についてはR15どころかR18にも耐性があるはずのわたしもショックを受けた。だが、萌えた。
そんなことをアルフレートを眺めながら考えていると、なんだか、ゲームで見た彼の方が夢のように思えてきた。
わたしの知っているアルフレート・ベルヴァルトはごく常識的であり、現実的な人物だ。ゲームのアルフレートは夢の王子様のような外見の通り、夢のようなことばかり語っていた。
――きみを守りたい。
家のために政略結婚はしたくない。きみと一緒にいたい。家なんてどうでもいい。きみだけが大切で、いつだってきみだけを愛している。いとしいきみを僕の手で幸せにしたい――。
具体的にエリーゼを幸せにするための行動は何一つ起こさず、どうするかは語らず、ただ、『私の王子様』だと言ってくれるエリーゼに愛を語り続ける。
特に「死が二人を分かつまで」(駆け落ちエンド)は夢の王子様であり続けるアルフレートを皮肉った秀逸なエンドだった。アルフレートは名家の跡取りとして、いままで生活の苦労をしたことがない。駆け落ち先の宿も高級な宿を取り、高級なレストランで食事を取ろうとする。不安がるエリーゼを彼は微笑んで抱きしめるのだ。
『心配ないよ。お金のことなんて、そんなくだらないこと、きみは考えなくていいんだ。それより、今を楽しもうよ。エリーゼ。愛があれば何でも乗り越えられるよ』
『ええ。そうね。私の王子様』
――何も不安に思うことはない。何も心配いらないのだ。だって、彼は私の王子様なんだもの。きっと彼が助けてくれる。彼が何とかしてくれる。
エリーゼは微笑んで、彼と口づけを交わす。
そうして、王子様とお姫様は結婚して、幸せになりました。だって二人の間には愛があるのですから、もうお金なんていらないのです。愛さえあれば、幸せになれるのでしょう?
めでたし。めでたし。
その「めでたし。めでたし」が血文字だったことが大変に怖かった。
真のハッピーエンドはアルフレートがエリーゼを「お姫様」ではなく、エリーゼとして心の底から愛することで覚醒し、政略結婚も回避して、見事ベルヴァルト家を建て直してから彼女を迎えに来るのだ。そのときのアルフレートの堂々とした笑顔はとてもかっこよくて本当の王子様のようだった。
思い出すゲームの最後のスチルの笑顔はわたしがよく知っているアルフレートの笑顔によく似ていた。
わたしにベルヴァルトの新製品の紅茶を語るときの笑顔。きっと、「マルガレーテ」のケーキに合うはずだと話してくれる、そのときの生き生きとして、輝いている水色の瞳。
なぜ、彼はゲームとは違ってしまっているのだろう。出会ったときはどうだったろうか。
最初に出会ったのは、二人が子どもだった頃、確か、どこかのお茶会で――。
「うわあっ! クラリッサ!」
悲鳴のような声に思考が遮られた。
「なんで、どうして、そんなところにいるんだ! い、生垣に目が見えたから、僕は、見間違いか、まさか、亡霊でもいるのかと――」
「あら、亡霊なんて失礼だわ。せめて、椿の妖精だと言ってちょうだい。そうね。ちょっとばかり生垣の一部になりたい気分だったの」
「意味がわからない! ぜんぜん意味がわからないよ! どうしてそんな気分になれるんだ! クラリッサ!」
「どうか、落ち着いて。アルフレート。人生とは意味のわからないことの繰り返しなのよ」
とりあえず、生垣の隙間から抜けて立ち上がろうとすると適当にリボンで結っただけの髪が葉っぱの棘に絡みついた。
「どうしたんだい、クラリッサ」
生垣の前に立ったアルフレートが心配そうに言う。
「それが、髪が葉っぱに引っかかってしまったの。しかも、足がしびれてしまって、しばらく動けそうにないわ」
「まったく、きみっていう人は――」
大きくため息をつくと「すぐに行くからそのままで」とアルフレートは身を翻す。
「ほら、じっとして。取ってあげるから」
「ありがとう。アルフレート」
葉っぱに絡みついた髪をアルフレートが丁寧に取っていく。
「ここにいたんなら、声をかけてくれたらよかったのに。僕がいること、気づいていたんだろう?」
「ええ。だから、ずっと見ていたの」
アルフレートの手が止まる。
「もう取れたの?」
「いいや、まだだよ。それで、きみが、僕を見ていたって、その、どうしてなんだい?」
「あなたと初めて出会ったときのことを思い出していたの」
正確に言えば、ゲームで初めて出会ったときだけれど。
「ああ。あのときの、お茶会のことだね。さあ、全部取れたよ。立てるかい?」
差し出された大きな手を取る。力強く手を引かれて、立ち上がると足がじんじんとまだしびれている。
「しばらく歩けそうもないから、このままでもいいかしら」
「おや、それは大変だ。立ち話も何だし、そこのベンチまでよろしければ抱えて行きましょうか? お姫様」
「あら結構よ。だって」
わたしはあなたのお姫様ではないわ。だって、あなたのお姫様は他にいるんだもの。
そう続ける代わりに「すぐに歩けるようになるもの」とごまかしておく。
「アルフレート。わたしと初めて会ったときのことを覚えているの?」
「当然じゃないか。忘れることなんてできないよ。あのとき、誰かのお茶会に招待されて、振る舞われたのが『マルガレーテ』のケーキだった。僕はあんなにおいしいものはいままで食べたことがなかった。柔らかいスポンジにくるまれたたっぷりとしたクリームがそれはふんわりとしていて、まるで雲を食べているようだった。厚く切られたケーキを、それこそあっという間に食べ終わってしまったんだ。僕が『すごくおいしかった』と思わず言ったら、きみが『ありがとう』と笑いかけてくれたんだ」
「そうだったわね」
あの頃、まだクラリッサはほんの子どもだった。父に連れられて行ったお茶会で「マルガレーテ」のケーキが出されたことがとてもうれしかった。
だって、とってもおいしい自慢のケーキなのだ。みんなにもおいしいと言ってもらいたい。食べて笑顔になってもらいたい。幸せになってもらいたい。
そんなとき、「すごくおいしかった」と言ってくれた男の子がいたのだ。当時のわたしは彼が名家の息子であることも、皆が気後れして話しかけられないことにも気づかなかった。ただ、うれしくて、そのまま声をかけたのだ。
それからは、ケーキの話ばかりした。アルフレートはケーキに合う紅茶の話をしてくれて、今度店に買いに行くから、そのときに自分の家の店の紅茶を贈ろう、と約束してくれた。彼が父親のベルヴァルト卿と一緒にケーキを買いに来てくれて、そのケーキに感動したベルヴァルト卿がその感動を父に伝えて、父がさらに感動したのが両家の付き合いの始まりだ。
「紅茶にはケーキ! ケーキには紅茶!」
まとめれば、両家の付き合いはこんな感じで今も仲良く続いている。わたしとアルフレートの仲もそうだ。ケーキと紅茶について語り合える仲の良い友達。
ただ、彼と仲良くしていると、とても居心地がいいのに本当は一緒にいてはいけないような、そんな違和感があった。
わたしが倉田理沙だったことを思い出した今ならわかる。
たぶん、わたしは記憶がなくとも、彼には他に大切なお姫様がいることを心のどこかでわかっていたのだ。
「きみが無事でよかった。昨日は本当に心配したんだよ」
「心配をかけてしまってごめんなさい。この通り、足はまだしびれているけれど、どこも痛くないし、とっても元気よ」
「そうかな? 少し元気がないように見えるけれど」
こちらのアルフレートは勘がいい。ゲームでの彼は鈍いくらいだったのに。
「理由を当ててみせようか」
彼はいたずらっぽく笑う。
「な、何かしら?」
「きみ、おなかがすいているね」
「違うわよっ!」
大声を出した瞬間、ぐうっとおなかがなった。
「もちろん、おなかはすいているわ。けれど、仕方ないでしょう。だって、昨日夕食を取っていなかったんだもの」
わたしは頬が熱くなるのを感じながら言い訳がましく言う。
「うん。よくわかっているよ。クラリッサ。それで、ちょうどいいことに、僕はベネケンのヌガーを持っている」
また、どこからかヌガーを取り出して、クラリッサに差し出した。
「キャンディがおなかがいっぱいのときこそ楽しむものなら、ヌガーは朝食前にもってこいだとは思わないかい、クラリッサ」
「ええ、その通りだわ。アルフレート」
わたしは金色の包み紙を丁寧にはがして、口の中に放り込む。ナッツの味が口いっぱいに広がっておいしい。
「あの、アルフレート。昨日、あなたにもらった勿忘草、階段から落ちたときにどこかに行ってしまったの。せっかくきれいに作ってくれたのに、ごめんなさい」
「そんなこと謝らなくてもいいよ、クラリッサ。また欲しいならいくらでも作ってあげるから」
「ご親切にありがとう。ねえ、花のコサージュはよく作るの? とても上手だったけれど」
「いいや。そういえば、初めてだったかな。適当に作ったんだけど我ながらうまくできたと思うよ」
「そうなの。それなら、アルフレート」
「どうしたんだい。なんだか、本当に顔色が悪いよ。やっぱり、まだ具合がよくないんじゃないかい?」
「大丈夫よ。それより、エリーゼとあなたが初めて会ったときのことを、覚えてる?」
「エリーゼと?」
アルフレートは戸惑ったように瞬きをした。
「覚えてるも何も、クラリッサ。きみが僕の家に連れてきてくれたんじゃないか。今度一緒に暮らすことになったエリーゼだって」
「それまでに会ったことはない?」
「なかったと思うよ。もしも会ったことがあったら、その場でそう言っているよ。突然、どうしたんだい?」
「昔のことをいろいろ思い出していたら、少し気になってしまって」
わたしはエリーゼとアルフレートの出会いを――彼が彼女の王子様になったエピソードを――変えてしまったのだろうか。けれど、エリーゼがこのグライナー家に来たのは三年前だ。本来、彼らはそれより何年も前に出会っているはずなのだから、やはり、わたしが関わっているとも思えない。
それなら、なぜ、二人は出会わなかったのだろう。二人の過去にすれ違ってしまうような、何かがあったのだろうか。
「クラリッサ。そろそろ歩けるかい? 戻ろうか」
アルフレートの声に我に返る。いくら考えてもすぐにわかることではない。わかっていることは、この世界がゲームとはまったく違う展開で進んでいるということだけだ。
だが、今のところ、良い意味で変化しているとも言える。夢の王子様ではない今のアルフレートならエリーゼと恋に落ちても安心だ。彼はこの通り外見も性格も良いし、財力だってある。エリーゼの相手として申し分ないし、バッドエンドに向かうこともないだろう。
わたしは花嫁の父のような心持で、アルフレートは問題ない、と太鼓判を押すことにした。
それは、もちろん、二人が本当に恋人同士になってしまったら、少しだけ、寂しいだろうけれど――。
「あ、そういえば、アルフレート!」
まだしびれる足を引きずるようにして歩きながら、わたしはわざと怒った声を出す。
「昨日、わたし、声は出せなかったけれど聞こえていたのよ。口づけなんて、そう簡単にするものではないわ」
「ああ。僕も簡単にするつもりはないよ」
「じゃあ、やっぱり、父さんやエリーゼのように冗談で言っていたのね。あんなこと、殿方ならなおさら、冗談でも口にするものではないわ」
まして、これから恋人になるかもしれないエリーゼだって聞いていたのだ。いくら冗談だとわかっていても、他の女性に口づけするなどと、聞いていてあまり気分が良いことではないだろう。
「いいや、本気だよ」
「本気ならなおさらだめでしょう。口づけは、その、愛する人のためにとっておくものよ。わたしはそうしているわ」
「そうだね。僕も同意見だ。いままでもこれからだって、ずっとそうするつもりだよ。ところで、クラリッサ」
アルフレートが手を差し出してくる。
「まだ足がしびれているんだろう。手を貸すよ。それとも、抱えて歩いた方がいいのかな?」
「――手をお借りするわ。アルフレート」
しびれて歩きにくいことは確かだったので、わたしはおとなしく、アルフレートの手を取った。
「きみが無事で、本当に良かった」
軽く乗せた手がぎゅっと握りこまれる。
「あんな思い、二度とごめんだ」
その鋭い口調は、アルフレートらしくなくて、わたしは思わず足を止める。
「ごめんなさい。アルフレート」
「いいや。ごめん。きみに怒っているわけじゃないんだ。ただ、とても怖かっただけだよ。そうだ。ヌガー、もう一つ食べるかい?」