4話
目を開いても、かすんで何も見えなかった。何度も瞬きをして、ようやく目の前が見えるようになる。
「目が覚めた?」
静かな声。わたしを見下ろす優しい青の瞳。――勿忘草の色。
ゲーム画面で見ていたときから、なんてきれいな子なのだろうと思っていた。その微笑みだけで誰をも魅了する美しいヒロイン、エリーゼ。
「あなた、ずっと泣いてたわ。起こした方がいいか迷っていたの。悲しい夢を見ていたの?」
ランプの光に蜂蜜色の巻き毛がきらきらと光って、とてもきれい。
「ええ。悲しかったわ。エリーゼ」
言葉にすると、胸が詰まった。苦しくて、悲しくて、また、涙があふれる。
「とても悲しかったの。エリーゼ」
泣きながら、幼い子どものように繰り返す。
とてもとても悲しかった。わたし――倉田理沙が死んでしまう夢だったのだから。それなら、今、ここにいるのはだれだろう。こうして泣いているのは、ここにいるわたしは――。
「クラリッサ」
ああ、そうだ。
――クラリッサ。
優しく呼ばれたその名前がすとんと胸の中に落ちてくる。
今のわたしの名前。クラリッサ・グライナー。倉田理沙だったわたしはいま、クラリッサとして涙を流している。
ただ、わたしが倉田理沙ではなくなったこと、倉田理沙だった頃に大好きだった人たちに会えなくなったことが悲しい。
悲しくて寂しい。
「クラリッサ。どうか泣き止んで。クラリッサ」
しばらく泣き続けていると、エリーゼは悲しそうに言った。
「ええ。ごめんなさい。エリーゼ」
これ以上エリーゼに甘えるわけにはいかない。
わたしはようやく、そう思いいたって、涙をこらえる。
エリーゼは立ち上がると、机の上の盥に布を浸して、きつく絞った。
「はい。冷やしておかないと、腫れてしまうわ」
そっと目の上に乗せられて、わたしは目を閉じる。ひんやりとして心地いい。
「とても静かに話すのね。エリーゼ」
新作ケーキについて叫んでいた彼女とは別人のようだ。
「だって、もう夜も遅いのだもの。今はひそやかにおしゃべりするのを楽しむ時間だわ」
「ずっとついていてくれたの?」
「ええ。お医者様は心配ないと言っていたけれど、あなたが目が覚めるまで、とても眠れそうになかったもの。けれど、ぜんぜん退屈ではなかったわ。ずっと勿忘草のケーキについて考えながらスケッチしていたの。ヨーゼフさんもすばらしいケーキになりそうだと確信していたわ。名前が『スチル』で勿忘草を主題にしてって考えるだけでいろいろなデザインが浮かんできて、とても楽しいのよ」
「あの、エリーゼ。スチルというのは何かしら。わたし、ぜんぜんわからないわ」
わたしは目が隠れているのをいいことに、しらばっくれることにした。
「あら、覚えていないの。あなたが一度目を覚ましたときに言ったのよ。スチルって。そうしたら、アルフレート様があなたが考えた新しいケーキの名前ではないかって。それなのに、覚えていないの?」
「きっと寝ぼけていたのではないかしら。だから、新しいケーキの名前にはふさわしくないと思――」
わたしの抗議はエリーゼの歓声に遮られる。
「まあ、クラリッサ! あなたったら、意識がないままに、そんなにもすばらしい詩的な言葉を口にするなんて!」
感極まったように、エリーゼはわたしの両手を取る。
「ああ、あなた、詩人になれるわ。クラリッサ! もちろん、『スチル』は新しいケーキの名前にしなければならないわ! あなたが無事でよかったお祝いのケーキにもふさわしいもの! ああ、どんなケーキにしようかしら!」
わたしはエリーゼに抗議をしようとして、やがて何度も両手を振り回されるうちに諦めた。泣き疲れた今は言い争っても負けてしまいそうだ。明日元気になってからもう一度話すことにしよう。
両手が離されるのを待って、目の上に置かれた布を取ってみる。
見上げたエリーゼの青の瞳は潤んでいた。
「あなたが無事で、本当によかったわ。階段から落ちて意識がないと聞いたとき、私、どうしたらいいのかわからなくなったもの」
「心配をかけてしまって、ごめんなさい。エリーゼ。父さんやアルフレートはどうしているの?」
「もちろん、早々に退出を願ったわ。私がお店から帰ってきてもまだお二人がいたけれど、殿方が淑女の寝室にいてもいい刻限はとっくに過ぎてしまっていたもの。ああ、けれど、アルフレート様は今夜はこちらに泊まることになったわ。だから、客室にいらっしゃるけれど、すぐに会いたい?」
「いいえ。もう遅いのでしょう? きっと、寝ているでしょうし、明日でいいわ」
「そうね。何もこんな夜中に呼び出すことはないわ。寝た子を起こすなと言うものね」
エリーゼはくすりと笑い、水差しを手に取った。
「のどが渇いたでしょう?」
カップを差し出されて、おとなしく冷たい水を飲む。
「おなかはすいていない? 何か食べられそうかしら?」
「いいえ。もう寝ることにするわ。付き添ってくれてありがとう。エリーゼも早く休んで。疲れたのではない?」
「疲れてはいないけれど、そうね。あなたと話せて安心できたし、そろそろ部屋に戻るわ」
「ねえ、エリーゼ」
立ち上がりかけたエリーゼの腕を思わずつかむ。
「あのね。エリーゼ。ここに来てよかったと思ってる? 今、幸せだと思ってくれているかしら」
「――クラリッサ」
エリーゼが身をかがめる。柔らかな手が頬に触れる。
「私はここに来るまで、幸せが何なのか知らなかった。生きる情熱も、楽しみも、すべてはあなたに教わったのよ。私の幸福はあなたと共にあるの」
誓いのような真摯な声。
「クラリッサ。私、あなたと出会えてよかったわ」
「わたしもよ。エリーゼ」
「ありがとう。とてもうれしいわ」
エリーゼは微笑むと、その白い手でわたしの目を閉じさせて、「おやすみなさい」とささやいた。
やがて暗闇となった部屋の中で、わたしは思い出していた。
乙女ゲーム「勿忘草のエチュード」のヒロインであるエリーゼとクラリッサが初めて出会うのはバシュタの王城で開かれる舞踏会だ。この舞踏会はバシュタ王国の第二王子レオンの成人を祝うために開かれたもので、そこで他の攻略対象たちもまた、エリーゼに出会い、一目で魅せられるのである。
つまり、ゲームが始まるのも春の舞踏会なのだ。
――春の舞踏会。
わたしは寝台から勢いよく起き上がる。確か、エリーゼが十六歳の誕生日――エリーゼの誕生日は四月二十六日だ――を迎えてすぐにある舞踏会なのだから、ゲーム内でははっきりと明記されていなかったものの四月下旬から五月上旬あたりに開かれるはずだ。招待状は来ていただろうか。いままでお店のお菓子を広めるための社交以外興味がなかったから、聞き逃していたかもしれない。
今は三月十日。舞踏会まで、時間はあまり残されていない。残り二ヶ月もないのだ。
――ああ、どうしよう! どうしたらいいのだろう!
寝台の上でしばらくパニックに陥り、頭をぐしゃぐしゃとかき回しながら飛び下りる。カーテンを開けて月の光を部屋に入れてから、ぐるぐると意味もなく室内を歩き回った。「どうしよう。どうしたらいいの」と言い続けていると、途端におなかがぐうっと鳴った。
「おなかが、すいた……」
夕食は取っていないし、今は夜中を過ぎている。何か食べ物はないかと水差しの隣の皿の覆いを取ってみると、りんごのコンポートが入っていた。きっとエリーゼが作ってくれたのだろう。
椅子を引き寄せて座り、銀のスプーンを手に取る。りんごを口にして、わたしは思わず目を閉じる。
「――おいしい」
このりんごの優しい甘さ。一口サイズに切ってあるりんごの大きさはちょうどよく、煮加減も絶妙でしゃりしゃりと食べやすい。
「おいしい。おいしい」と勢いよく口に運び、あっという間に皿を空にする。少し物足りないくらいの量も夜中に食べるにはふさわしかった。
明日、エリーゼによくお礼を言っておこう。
空腹が落ち着けば、自然と気持ちも落ち着いてきた。
――さて、これからどうするのか考えなければ。
わたしは椅子に座ったまま腕組をする。
まず、この世界が乙女ゲーム「勿忘草のエチュード」の世界であることに間違いはないだろう。現にわたしはヒロインの攻略対象の一人でもあるクラリッサ・グライナーなのだし、ゲーム画面で繰り返し見たヒロインのエリーゼが目の前に存在しているのだから。しかも、アルフレートを始めとした攻略対象の彼ら――カイル、レオン、ヴィクトール、マルク――もすでにエリーゼの友人だったり、知り合いだったりするのである。
本来なら、舞踏会で出会うはずの彼らがすでに出会っている。これは一体、どういうことなのか。
それに、わたしは舞踏会までぎりぎりとはいえ、このゲームのプレイヤーである倉田理沙だったことを思い出した。わたしはこれから先、エリーゼが誰かに恋をしたとき、この世界で起こるかもしれないことを――最悪の結果でさえも――知っている。もしも、彼女が誰かと恋に落ちた結果、破滅でしかない最悪のバッドエンドに向かってしまったら――。
わたしは首を振る。考えるだけでも恐ろしい。エリーゼはわたしの大切な友達だ。彼女には必ず幸せになってもらいたい。そのためにもバッドエンドだけは回避しなければ。
けれど、まだ、エリーゼは彼らのだれにも恋をしていないはずである。
――それならば。
ゲームの始まりがあの舞踏会だとして、それからエリーゼの恋が始まるならば、わたしが恋の行方を見守って、バッドエンドに向かわないようにすればいいだけの話ではないか。
何しろ、この世界のバッドエンドはこれ以上なく悲惨だが、ハッピーエンドはそれはそれは幸せな結末なのだ。最後のエピローグを思い出すだけでにやにやできるのだから、エリーゼが誰と恋に落ちても問題はない。
――ただし。
わたしこと、クラリッサだけは断じてだめだ。二次元で楽しむだけならいいが、現実のわたしは女性に対して恋愛感情を抱けない。しかもクラリッサルートのベストエンドは駆け落ちエンドか、お互いが気持ちを告げないままに離れていき、幸せを祈る切ないエンドなのだ。物語としては美しい終わり方だったが、すべてを捨てて逃げる駆け落ちなんて論外だし、エリーゼに会えなくなるなんてわたしが寂しくて耐えられない。
だが、果たして普通にハッピーエンドになってくれるのだろうか。
舞踏会前にエリーゼが攻略対象全員と知り合っていることも疑問だが、まず、物語の大前提が違っている。このグライナー家に来てしまったことで、ヒロインとしてのエリーゼの設定が大きく変わってしまっているのだ。
本来、ゲームの設定のままならエリーゼは自分の屋敷の屋根裏部屋でメイドのような暮らしをしているはずだった。
幼い頃に母親を亡くし、やがて子持ちの美しい女性と再婚した父親は仕事で外国に行ったきり。時折手紙とお金が届くものの、めったに帰ってくることはない。一方、エリーゼの継母は湯水のように金を使う贅沢好きの女だった。父親の仕送りだけではすぐに足りなくなり、せめて、メイドの費用を浮かせようと、エリーゼをこき使うことを思いつくのだ。
けなげにもエリーゼは、これも継母や義理の兄のためだと張りきって働き続ける。彼女は「あなたの父親が送ってくるお金がとても少ないの」という継母の言葉を信じていたのだ。実際にはじゅうぶんすぎるほどにあったというのに。
それにエリーゼには時々贈り物が届いた。「きみの幸せを願っている」とだけ書かれた勿忘草のカードが添えられた、季節ごとに届く青いリボンをかけた箱。それは美しい装丁の本やかわいらしい髪飾り、部屋を飾る小物が入っていたり、色とりどりのお菓子が箱いっぱいに詰めてある、素敵な贈り物だった。
いつしかエリーゼは贈り物を心待ちにするようになり、「勿忘草の君」と呼んで、人知れず、その人を慕うようになる。
やがて、エリーゼは美しく成長し、十六歳となった春、「勿忘草の君」から勿忘草色のドレスが届く。
「きみの幸せを願っている。どうか役立ててほしい」
そのカードを見て、エリーゼはどういう意味なのかと首をかしげる。とても美しいドレスだけれど、こんなすばらしいドレス、着ていくところなんてどこにもない。
「あら、お城の舞踏会に行けばいいわ。エリーゼ。せっかく、素敵なドレスをいただいたのだもの。そこであなたが裕福な旦那様を見つけてくれれば、みんなが幸せになれるのよ」
継母は上機嫌で、困惑するエリーゼに舞踏会に行くことを勧めてくる。また、いつもならエリーゼに無関心な義理の兄のカイルまで、「行った方がいい」と言い出すのだ。
「けれど、私が舞踏会に行くなんて、あまり気が進まないわ。お兄様」
「何を馬鹿なことを言っている。この酔狂な贈り主も舞踏会に来ているかもしれない。お前、一度でいいから会ってみたいと言っていただろう」
それを聞いて、エリーゼの頬は薔薇色に染まる。そうだ。このドレスを着ていれば「勿忘草の君」に会うことができるかもしれない。エリーゼは勿忘草色のドレスを身にまとうと、カイルにエスコートされて、舞踏会に向かうことになる。もちろん、そこで、攻略対象たちにも出会うのだ。
しかし、現実にはエリーゼは縁あって、十三歳の頃からこのグライナー家で暮らしている。クラリッサの話し相手として一緒に社交の場に出かけたり、家庭教師に勉強を教わったりして仲良く暮らしているのだ。また、「マルガレーテ」に菓子職人として弟子入りもしている彼女は売り子として活躍しながらも、立派な菓子職人になるべく修行中なのである。今ではかわいい看板娘、エリーゼ目当てのお客までいるほど、「マルガレーテ」に欠かせない存在となっている。
そして、アルフレート以外の攻略対象たちもまた、彼女目当ての「マルガレーテ」の常連のお客なのである。だが、もちろん、「マルガレーテ」のお菓子にも惚れ込んでいることにも間違いない。だって、エリーゼが売り子をしない日だとわかっていても、どうしても食べたくなったからわざわざ買いに来たのだとよく言っているのだから。
彼らもまた、多少癖があるとはいえ普通に良い人たちなのだし(「マルガレーテ」のお菓子を好きだと言ってくれる人を悪くは思えない)、あの衝撃的なバッドエンドに向かうような激情的な(あるいは変態的な)人たちにも見えないが、エリーゼと激しい恋に落ちてしまえばそれも変わってしまうのかもしれない。知り合いが破滅するのを見るのは後味が悪いし、彼らのためにも、エリーゼとの恋を見守ることにしよう。
そう結論づけると、わたしはあくびを一つして、寝台にもぐりこんだ。
――そういえば。
エリーゼの好みのタイプは、どんな男性なんだろう――。