3話
そのゲームの存在を知ったのは偶然だった。たまたま訪れた乙女ゲームのレビューブログで「今度発売の乙女ゲー『勿忘草のエチュード』の公式サイトがまるでホラーゲーにしか思えない件について」というタイトルの記事に公式サイトのリンクが貼ってあったのである。
「ホラーゲーにしか見えない乙女ゲーの公式サイトがこちら。怖がりの方は要注意! マジで怖いから、夜中に見たらだめだよ!」という注意書きにびくびくしながら公式サイトを開いたのを覚えている。
公式ホームページを開くと、静かなピアノ曲が流れて、真っ暗な画面に血のように赤い文字が浮かぶ。
「恋に落ちること。それは狂気の始まりである」
赤い文字がだらだらと溶けてなくなり、暗いままの画面に蜂蜜色の巻き毛の少女の後姿が浮かぶ。
青いドレスを身にまとい、静かに立つ少女の姿。
「目の前に現れたのは勿忘草のような可憐な少女」
やがて、少女がゆっくりと振り返る。
「彼らはただ純粋に彼女に恋をした」
少女が青い瞳で優しく微笑みかけてくる。
「それは夢のような幸福へといたる道なのか」
『ケーキを焼いたわ。お兄様。お疲れになったでしょう。そろそろ休憩をなさったらいかが?』
『ああ、まるで夢を見ているみたい。こうして、あなたと二人きりで踊っているなんて。こんな日が本当に来るなんて』
『まあ、こんな大きな花束をくださるなんて! 私くらいあるのではないかしら。あら、私を花束ごと抱えてしまうとおっしゃるの?』
『あら、川遊びくらいしてもいいじゃない? だって、まだ、私たち、子どもだと言い張っても良い年頃なのだから』
『ええ。忘れてはいませんわ。あなたがくださった勿忘草はいつも心の中にありますもの』
『私たち、ずっと一緒にいましょうね。約束よ』
少女の台詞(声つき)と共に、どこかおとぎ話めいた雰囲気のスチル絵が美しい夢のように浮かんでは、また消えていく。
「もしくは悪夢のような破滅へといたる道だったのか」
『私、舞踏会には行きたくないわ。だって、お兄様と一緒にいたいのですもの』
『まあ、私をその程度のお金で買うとおっしゃるの? お金なんかで私の心が買えると思って?』
『あなたにはわからないわ。あまりにも高みにいらっしゃる方に地の底を這うようなわたしの気持ちがわかるわけがないもの』
『おかしなことをおっしゃらないで。あなたには婚約者がいらっしゃるでしょう? あのはかなげな、美しい方が』
『いつまでも川遊びを続けましょうよ。ええ。この息が絶えてしまうまで』
『一緒にいられないのなら、一緒にいられるところに行きましょう?』
やはり、おとぎ話のような、悪夢めいたスチル絵も浮かんでは消えていく。
「――破滅さえも甘美に感じるのならば、恋とは狂気に違いない。
ああ。どうか、約束してね。いとしいあなた、どうかわたしを忘れないで――」
ここまですべて赤い文字で書かれてあり、ようやくゲームのタイトルが現れる。
「勿忘草のエチュード」
さすがにタイトルまで赤文字ではなかった。サイトのストーリーやキャラ紹介画面はやや暗くはあるものの、キャラデザインもとてもかわいかったし、サンプルのスチルも美しい。これなら、乙女ゲーの公式サイトと言っても差し支えはないだろう。
だからこその違和感である。せっかくのきらきらしい乙女ゲーなのに、もっと明るく夢いっぱいのサイトにできなかったのだろうか。
興味を持って検索したところ、発売前にも関わらず、似たような感想は多くあった。「赤い字が血文字にしか見えない」、「むしろ血文字だ」、「ホラーゲーではないのに、血文字にする意味がわからない」、「消える直前に血のように落ちる演出はさすがにやりすぎだと思う」などという「とにかく血文字が怖い。意味がわからない」という叫びはやがて「制作陣は何を狙っているのか」、「ホラーゲームではないのに、ここまでおどろおどろしくしなくてもいいだろう」という「どうしてこうなった」という茶化したような軽い批判。
だが、さらに検索してわかったことは、どうやらこのゲームの制作会社はいままでホラーゲームばかり作ってきたようなのだ。そんな会社が初めて乙女ゲー世界に参入したのだから、むしろこれが精一杯だったのかもしれない。
余談になるが、携帯機専用ゲームとして発売された「勿忘草のエチュード」はそのおどろおどろしい宣伝にもかかわらず、ほぼ健全だと言ってもいいR12指定ゲームだった。だが、実際にプレイしてみると、エンディングはバッドエンドが豊富にありすぎ、直接的な描写はないものの、深読みすればかなりえぐいものも多くあった。R17とは言わないが、せめてR15にしておけよ、と後日レビューに書いてあったが、フルコンプしたわたしも同意見である。
こうしてひと通り検索した頃にはわたしは購入することを決めていた。
ダークなおとぎ話風のストーリーも好みだったし(ホラーもヤンデレも抵抗はなかった)、ヒロインがすばらしくかわいかったからである。声付きのヒロインは珍しかったし、その姿もまるで、おとぎ話のお姫様のようだった。蜂蜜色の巻き毛に、勿忘草色の瞳を持つ愛らしい少女。
それならば、と発売前の楽しみはプレイ前の最萌え予想である。
イケメンキャラを一人一人じっくり見て行って、最後に現れたのが少女「クラリッサ」だった。
クラリッサ。倉田理沙であるわたしとなんだか名前が似ている。それだけで親近感がわきながら、キャラ紹介をじっくり読んでいった。
ふんわりと結い上げられた栗色の髪。緑の瞳の清楚な少女。キャラ紹介には「おとなしく、内気な少女。人前で意見を言うのが苦手。アルフレートの婚約者」と書かれているが、なぜか攻略対象の中に含まれている。もちろん、ヒロインは女の子であり、クラリッサも女の子である。乙女ゲーに堂々と女の子の攻略対象がいるのは珍しかったが、さらに俗な言い方をするのならクラリッサはガチ百合ルートなのである。純粋無垢な子どもがプレイすれば、首をかしげながらも濃い友情に思えないこともないだろうが、汚れきった大人が読めばすぐにわかる。これは完全に百合ルートだ。制作会社は思いきった決断をしたと思う。
久々に予約までして、手元に届いた日からのめりこんだようにプレイした。二週間かけてフルコンプし、その世界に浸りきった。しかも、その情熱を押さえきれず、二次創作まで行い、こっそりブログを作って公開した。予想の最萌えは義理の兄である眼鏡をかけたカイルだったが、予想を裏切り萌えて、萌えて、萌えたのは、意外にも成金馬鹿のヴィクトールだった。
ゲームをフルコンプして数ヶ月。その日わたしはスキップしたいほどにご機嫌だった。だって、金曜日にも関わらず、思いのほか早く仕事が終わったのだから。
残業を覚悟していたのに、時計を見てもまだ19時半。会社から一番近いデパートへ行き、地下で値引きされたお惣菜とワインを買い込んだ。それから自分へのご褒美ももちろん買った。そう、わたしはスイーツ大好きなスイーツ女子(ついでに乙女ゲーも大好き26歳)なのだ。きらきら輝く宝石のようなケーキを二つ、ブルーベリーチーズケーキと苺のタルトを買った。もちろん、誰かと食べるためではなく、全部自分で食べるためである。本当は三つ買いたかったところを二つで我慢したのだから褒めていただきたい。
ああ、待ち焦がれた週末! 金曜日のわたしは無敵だった。両手に提げた袋の中にはおいしいお惣菜とワイン、甘いケーキがあり、家に帰れば積みゲーが待っている。さあ、土日はゲーム三昧だ! 積みゲーを崩すのもいいけれど、久々に「勿忘草のエチュード」をプレイするのもいいかもしれない。
頭の中には何度も繰り返し聞きすぎたせいで、勝手に口ずさんでしまうオープニングが流れ始める。
そうだ。そうしよう。
――ああ、待っていて!
わたしの最愛の成金馬鹿! ヴィクトール!
思わずにやけながら小声で歌っていると、誰もいないと信じていた道を白いシャツの学生男子が早足で追い越して行く。通り過ぎるときに不審げに見られたのに気づいて、思わず赤くなった。
さすがに「最愛の成金馬鹿」までは口に出してなかったと思う。
けれど、26歳の大人の女性として、もう少し落ち着いた振る舞いを心がけよう。そうだ。スイーツと乙女ゲームを愛しているからと言って、現実では子どもではない。もちろん、乙女ゲーをプレイするときはいつだって、可憐な10代の乙女になりきるけれど、現実を生きるのならそれ相応の振る舞いをしなければ。
そう思って、何気なく横を見たとき、ありえないものに気づいた。どうして、あの車はこちらに突っ込んでくるのだろう。
運転手が突っ伏している。たぶん、意識がないのだ。
両手の荷物を取り落した。白いシャツの学生が凍り付いたように立ちすくんでいる。このままだと二人とも危ない。
さあ、動け! いいから動け! 疲れきったこの体! 運動神経がないのはわかってるけれど、今だけでいいから、とにかく動け!
勢いをつけて、必死で学生を突き飛ばす。瞬間、わたしを振り返った彼の蒼白な顔。突っ込んでくる車。
――ああ、ごめんね。
お父さん。お母さん。お兄ちゃん。
就職氷河期を乗り越えて、どうにか就職できて、なんとか一人暮らししてたのに。
わたし、まだ26歳で、こんなところで死ぬなんて、ありえないよね。
本当にごめんね。あと、痛かったらやだなあ。
そう思ったのが最後だった。