2話
「クラリッサ! 目を覚ましてくれ、クラリッサ!」
この声は、父さん――だろうか。果たしてわたしの父さんはこんなオペラ歌手のような深いバリトンの声だったろうか。
そもそもクラリッサとは誰だろう。わたしの名前はそんな外国の女の子のようなものではない。
わたしの名前は理沙だ。ハイカラな名前ではあるけれどじゅうぶんに日本人として通じる名前である。ついでに名字もつけると倉田理沙になる。似ているけれど、ぜんぜん違う。
――いいえ。違わない。
クラリッサはわたしの名前。クラリッサ・グライナーもわたし自身だ。
つまり、わたしは倉田理沙であり、クラリッサ・グライナーでもある。
その事実をわたしは理解しながらも、どうしても受け入れることができなかった。
ショックのせいだろうか。体がしびれたように動かないままに、耳だけが会話を聞き続ける。
「落ち着いてください。モラン殿。階段から転落したものの、お嬢様にはどこにもお怪我はありません。ただ、頭を打ってしまったので、その衝撃で気を失っていらっしゃるだけです」
「ですが先生! もう一時間以上経っているのですよ! それなのに、どうして、どうして、娘は目を覚まさないんですか!」
「まだたった一時間です。モラン殿。いいから、落ち着いてください。どうやらお嬢様は眠ってしまわれているようなのです。きっと、寝不足だったのではないでしょうか」
「ありえない! ありえないことですよ、先生! 娘はあの年で健康のためだと言って、早寝早起きを心掛けているんです! 昨日だって、夕食を取ったら眠くなったからもう寝ると言って、せっかく私がカードに誘ったのにそれさえも断ってさっさと寝てしまったんですよ!」
「おじさまの言っていることに間違いありませんわ。先生。私だっておしゃべりしたくて寝室まで押しかけたのに、眠いから寝かせてほしいってクラリッサったら、そのまま本当に眠ってしまったんです。今朝だって私が起こしに行くまでしっかり寝ていたんですから、これ以上なく、十分に寝ているはずです! むしろ寝すぎです! そうよ! 寝すぎでおかしくなってしまったんだわ! クラリッサ! あなた寝すぎなのよ! 寝すぎて病気になってしまったんだわ!」
「いや、あの、寝すぎたせいで、病気にはなりませんよ」
この冷静な声は医師だろうか。的確な発言はそのまま黙殺される。
「そうなのか!? 寝すぎて病気になったのか、クラリッサ! だから、私とカードで遊ぼうとあれほど言ったじゃないか!」
「まあ、カードよりも私とおしゃべりする方が楽しいわよ、クラリッサ! ああ、クラリッサ! 聞こえていて!? 私、エリーゼよ! エリーゼ! わかる?」
耳をつんざくような大声に、わたしは思わず眉を寄せる。とてもかわいい声だけれど、そこまで大声を出されると耳が痛い。
「ああ、やっぱり聞こえているのね! 表情が少し動いたもの。クラリッサ! エリーゼよ! あなたのエリーゼ! ねえ、わかるでしょう!?」
「クラリッサ! 私の声も聞こえているか、クラリッサ!」
「だから、お二人とも病人の耳元で叫ばないでください。意識がないだけで、お嬢様の耳はきちんと周りの音を聞いているのです。具合の悪い方を驚かせてどうするのですか」
「驚いてもいいんです! そうしたら起きてくれるかもしれないでしょう!? クラリッサ。聞こえる!? もうすぐアルフレート様が来てくださるわ! そうだわ! おじさま! いっそ、アルフレート様に口づけをしていただいたらどうかしら! 物語にもあるでしょう!? 口づけして目覚めるお姫様の話が!」
「だめだ! それはいかん! 結婚前のかわいい娘がその辺の男と口づけなどと、そんなふしだらなことは私が許さん! 断じて許さん!」
「じゃあ、私がします! おじさま、私ならいいでしょう! いいわよね、クラリッサ!」
「それもいかん! エリーゼ! 落ち着きなさい! それなら、いっそ私がしよう!」
――それは嫌だ! 断じて嫌だ!
まるで動かない体を必死で動かそうと努力していると、医者の疲れたような声が聞こえた。
「ですから、お二人とも落ち着いてください。お嬢様は眠っているだけですから、明日の朝には目覚めるはずです。それに、眠っているだけの方に勝手なことをなさるのはよろしくありません。ほら、かわいそうに、こんなに苦しそうな顔をしている。きっと聞こえているんですよ」
「そ、そんなにいやなの!? 意識がないのに拒絶するほどいやなの、クラリッサ!」
「そんなにも、いやなのか!」
がっくりとした声にほっとしていると、また勢いよく扉を開く音が聞こえた。
「遅くなって申し訳ありません。クラリッサ。階段から落ちたんだってね。心配したよ。大丈夫かい?」
穏やかな声の後、派手に転ぶ音が聞こえた。
「アルフレート様。大丈夫じゃありません。クラリッサが大変なときに、何を勝手に椅子につまづいて転んでいるんですか。そんな場合じゃないでしょう」
「あ、ああ、すまない。エリーゼ。多少、動揺していたようだ」
椅子を起こした音の後に、心配そうな声が聞こえる。
「それで、クラリッサの具合はどうなんですか。先生」
医師が疲れたような声で「階段から落ちたときに頭を打って気を失ったが、今は眠り込んでいるだけだ。明日の朝には目覚めるだろう」というようなことをざっくりと説明をする。
「ああ、クラリッサらしいね。でも、早く起きてくれないかな。心配で今夜はとても眠れそうにないよ」
「ええ。私もです。アルフレート様。だから、さっきまでクラリッサに口づけしたら目が覚めないかっておじさまと話していたんです」
「あれ? いいのかい? でも、僕が勝手に口づけたって、クラリッサが烈火のごとく怒る姿が目に浮かぶなあ。でも、きちんと目が覚めるのなら許してくれるよね」
「ずうずうしいな、アルフレート君。何を勝手に自分こそがクラリッサに口づけるつもりでいるのかね?」
「え? だって、この中で僕くらいしかいないでしょう?」
「私がいます!」
「私もだ!」
同時に答える声にため息をついたのは医者だろうか。
「いや、それはさすがにクラリッサがかわいそうじゃないかな。僕みたいな王子様の口づけならともかく、父親や女の子の口づけは、ちょっと」
「まあ、ひどい! おじさま! 私、このアルフレート様の根拠のない自信にとっても苛々するんですけど! 自分で王子様とかふつう言いますか? それに、クラリッサだって、私が口づけた方が喜ぶかもしれないじゃないですか!」
「いいや。もちろん全員お断りだ」という抗議の意味をこめて、どうにか、目を開けてみる。
「クラリッサ! ああ、目が覚めたのね!?」
くるくると豊かに波打つはちみつ色の巻き毛。涙の浮かぶ瞳の色は勿忘草の色。
ゲームで見たどのスチルよりも美しいヒロイン、エリーゼ。
「クラリッサ。目が覚めて本当によかった。気分はどうだい?」
さらさらの濃い金の髪。安堵に微笑む瞳は淡い水色。
やはりどのスチルよりも美しい、整った優しい容貌の夢の王子様のようなアルフレート。
ああ、その二人がわたしをのぞきこんでいる。さらに隣にいるのは、心配そうにわたしを見る頭の薄くなった父さんだ。多少光っているせいか、余計に二人がきらきらして見える。
「……ス……チル」
こんなスチル、ゲームにはなかった。フルコンプの特典スチル、なのだろうか。混乱した頭でそんなことを思う。
「スチル!? スチルって何、クラリッサ! 何なの、クラリッサ!」
「どうやら寝ぼけていらっしゃるようです。たいした意味はないでしょう」
医者のひどく疲れたような声はやはり黙殺され、「スチル!?」「スチルとはなんだ!?」と父さんとエリーゼが絶叫している。
「ああ、もしかしたら新作のケーキの名前かもしれない。さっきまで公園で二人で話し合っていたんだ。春の新作のケーキは勿忘草を主題にしたケーキにしようと」
「そうだったんですか。アルフレート様。……スチル。スチル。なんて音楽的で美しい響きなのかしら。きっと、クラリッサが考えたのね。ああ、私、きっと、素敵なケーキが作れるような気がします。勿忘草を思わせるようなケーキ。それはきっと、可憐な野の花のように親しみやすくて、春の空のような優しい味のケーキになるでしょう。そして、そのケーキの名前はスチル。ああ、なんて素敵な名前なのかしら!」
うっとりとしたようなエリーゼの声が聞こえる。
――違う。
スチルは違う。ぜんぜん音楽的でもなければ、詩的でもない。お願い。エリーゼ。ケーキの名前にするのだけはやめて。お願いだから。
だが、声は出なかった。目は閉じたまま、ピクリとも動かない。
「さすがクラリッサの親友だ。エリーゼ。勿忘草のケーキはクラリッサも親しみやすく、優しい味のものにしたいと言っていたんだよ」
「まあ、クラリッサ! 私たちはやはり、通じ合っているのよ! 言葉にしなくてもわかり合えるのよ、クラリッサ!」
「それに、勿忘草のケーキを作ればきみをずっと見守ってくださっている、勿忘草の君も喜ぶことだろう。自らお店に買いに来てくださるかもしれないね」
「まあ、なんてこと! なんてすばらしいのかしら。勿忘草の君が、私の作ったケーキを買いに来てくださったら、私――。ああ、こうしてはいられないわ。勿忘草のケーキを考えないと! おじさま、私、今からお店に帰ります! ヨーゼフさんはまだお店にいらっしゃると思いますもの。それでは、失礼しますわ、アルフレート様」
「ああ。エリーゼ」
「さて、それなら、アルフレート君もすまなかったね。もういいから、今日は帰りなさい」
「いいえ。せっかく来たのだし、クラリッサの目が覚めるまで一晩中付き添っていますよ。何なら添い寝してもいいと思っています」
「おもしろい冗談を言うんだね。それに、まさか、添い寝どころか、娘に勝手に口づけをしようとしているのではあるまいね」
「そんな邪なことは少しも考えていませんよ。ところで、モラン殿こそお疲れでしょう。お部屋で休まれたらいかがですか?」
二人のやり取りがえんえんと続く中、「あの、そろそろ失礼しますね」という医者の疲れ切った声が聞こえた。