1話
空を見上げながらくるくると真っ白な日傘を回す。わたしが考え事をしているときの癖だと知っているせいか、隣を歩くアルフレートは何も話しかけてこない。
クリームがいっぱいのふわふわのケーキと香りのよいお茶を楽しんだ後に緑豊かな公園を散歩する。おなかもほどよく満たされて、多少眠気を覚えるようなうららかな春の午後。見上げる空はどこまでも青く、時折吹く風も柔らかで心地よい。
何よりも傍らには気が置けない友、アルフレートがいる。ああ、わたしはなんて幸せなのだろう、と思っていいはずなのに、なぜか不安になってしまう。
心のどこかにぽっかりと小さな穴が開いているような不安があった。
幼い頃からそうだった。とても幸せだと思うたびに、なぜかひやりとした気分になるのだ。
何か忘れているような、大切な何かがここにはないような、喪失感が消えてなくならない。
思わずため息をつくと「クラリッサ。もしかして、おなかがすいているのかい?」とアルフレートがのんきに問いかけてくる。
「アルフレート」
年頃の少女として――わたしはもうすぐ16歳になるのだから――こればかりは聞き流すわけにはいかない。
わたしは真顔を作って、アルフレートを見上げる。
「わたしはさっきあなたと一緒にお茶をいただいたばかりなのよ。それなのに、もうおなかがすいているなんてありえないでしょう。アルフレート」
「それはすまなかった。クラリッサ。元気がなさそうだったから、てっきりそうだと思ったんだ。それなら、このキャンディーはいらないね?」
からかうような笑みが浮かび、彼の手の中に水玉模様の包み紙のキャンディーが現れる。大好きなベネケンのキャンディーだ。
しばらく葛藤したのち、わたしは微笑んだ。
「あら、キャンディーはおなかがすいていないときこそ味わうものだわ」
包み紙を丁寧にとって――ベネケンのキャンディーは包み紙もかわいいから捨ててしまうのはもったいない――空色のキャンディーを口の中に放りこむ。甘酸っぱさを楽しみながらくるくると日傘を回す。
「それなら、難しい顔をして、きみは何を悩んでいるんだい?」
「何か、忘れているような気がするの」
「何かって忘れものでもしたのかい? 心配しなくても、屋敷に忘れ物でもしたのなら後で届けさせるよ」
「そうではないの。大切なのだけれど、何か忘れてしまっていることがあって、それなのに思い出せない気がするの。子どもの頃から、時々、そんな気分になるのよ」
たとえばこんな美しい青空を見上げるとき。アルフレートや親しいほかの誰かといるとき。なぜか妙な胸騒ぎがする。
特にこんな晴れた日の空を見上げていると、あの空の青さが決して忘れてはいけないと、思い出さなくてはならないと訴えかけてくるような気がするのだ。
「クラリッサ。それはきっと、きみがすばらしい新作のケーキを思いついたのに、忘れてしまったのではないかな」
「そうだったら大変だわ。春に売り出す新しいケーキを作りたいとヨーゼフやエリーゼから何度も言われているのだけれど、あまり良いものが思いつかないのよ。木苺のケーキは去年作ってしまったもの」
わたしは立ち止まって、空を見上げ続ける。
「ああ、去年の木苺のケーキはおいしかったな。木苺の甘酸っぱさと上品なクリームの甘さがよく合っていて、さすが『マルガレーテ』のケーキだと父が絶賛していたよ。ケーキに合わせてうちで作った苺の香り付けをした茶葉の売れ行きもよかったし、今年はもっとすばらしいケーキができるのだと親子そろって期待しているんだ」
「それなら、張り切って期待に応えなければならないわね。そうね。目新しいけれど、親しみやすくて、優しい味のケーキが作りたいわ」
「それはいいね。きっと食べた人みんなが幸せな気分になれるケーキだ。――そうだ。クラリッサ。そんなに空が気になるのなら、地上に咲く空をきみに進呈しよう」
『地上に咲く空を、きみにあげる』
幼い声が、頭の中で響く。起きているはずなのに、まるで夢を見ているよう。
その光景さえも見えるような気がして、わたしは目を細めてみる。
『これはきみだけの空だよ。――』
ひっそりと優しく名前を呼ぶ声。
『――。きみにあげるよ。いくらでも』
けれど、それはわたしの名前ではない。それだけはわかっているのに、呼ばれた名前はわからない。もう一度思い出そうとすると、ずきりと頭が痛んだ。
片手でこめかみを押さえる間にもアルフレートはついてくるように促して、公園を流れる小川の川辺に向かった。彼の髪は陽光のような濃い金の髪だ。日の光を受けて流れる小川とどちらがきらきらしているか見比べながら歩いていると、彼が「ここだよ」と軽く手を振った。
「おいで。クラリッサ。ほら、空と同じ色だろう?」
駆け寄ると、川辺には空の青がこぼれたように、小さな青い花が咲き乱れていた。
「ああ、本当ね。とてもきれいだわ。花の名前はなんだったかしら」
「勿忘草だよ」
「勿忘草」
『いとしい人。どうか、私を忘れないで――』
悲しげな優しい少女の声。これはどこで聞いた声だっただろう。
ぼんやり見ていると、アルフレートは何本か花を摘み取っていた。どこからか白いリボンを取り出して器用にまとめると、わたしに差し出す。
「きみにあげるよ。クラリッサ。これを身に着けていればきみが忘れている大切な何かを思い出せるかもしれない」
「ありがとう。アルフレート。それなら、そうね。髪につけてくださる?」
結い上げた栗色の髪に差してもらって、わたしはそっと触れてみる。花びらの優しい手触りが心地よかった。
「わたし、決めたわ。『マルガレーテ』の新作は勿忘草のようなケーキにするわ」
それから、散歩を終えて、馬車で屋敷へと送ってもらう間もアルフレートと勿忘草のケーキについて夢中で話し続けた。
帰ってからもわたしはうろうろと屋敷を歩き回った。鏡で見た勿忘草の髪飾りはわたしに似合っていたが、それでも何か思い出せるわけでもない。考え事をしているときに歩き回るのはいつものことだったので、執事も使用人たちも放っておいてくれるのはありがたかった。
『地上の空を、きみにあげる』
『いとしい人、どうか、私を忘れないで――』
聞こえた声は誰の声だったか。頭に響いた声を頭痛をこらえながら思い出していると、「お嬢様!」と明るい声がした。
「お帰りなさいませ、クラリッサお嬢様。髪に素敵なコサージュをつけていらっしゃいますね」
メイドのイーナが箒を片手に駆け寄ってくる。
「ありがとう。アルフレートが作ってくれたのよ」
「まあ、さすがはアルフレート様だわ! いつだって、とってもロマンチックなことばかりなさるんだから!」
箒を握りしめて、イーナがぱっと目を輝かせる。アルフレートはいつも店の売上がどうとか、これからの経営はどうあるべきか、などと現実的なことしか言わないが、真実を教えてイーナの夢を壊さない方がいいだろう。
「ねえ、クラリッサお嬢様。お嬢様とアルフレート様との正式なご婚約はいつ頃なんですか? もうみんな、気になって、気になって! あ、まさか今日、ご婚約されたのではないですよね?」
「もちろん違うわ。だって、アルフレートはわたしのお友達なんですもの。婚約なんて、とうさ――」
わたしは軽く咳払いをする。
「お父様やおじさまが冗談でおっしゃっているだけの話だわ」
「もう、そう思っていらっしゃるのはお嬢様だけだと思いますわ。ああ、けれど、恋多きお嬢様なら仕方ありませんものね。アルフレート様も恋敵が多くて、とても大変だとは思いますけれど、私は断然、アルフレート様を応援していますから! あら、では、私、掃除に戻らせていただきます! まじめにしっかり掃除をしますよ!」
廊下の端にメイド頭を見つけたのだろう。イーナは慌てたように箒をつかんで走っていく。
――アルフレートと婚約。
確かに出会った当初、ほんの子どもの頃から二人を結婚させよう、という話はあった。父さん(人前ではお父様と呼ばなければならないのに、気が緩むとつい昔のように父さんと呼んでしまう)とアルフレートのお父様は「いつか二人を結婚させて、グライナー家とベルヴァルト家のつながりをより強化して、店を発展させたいものだ」と冗談まじりに話していることも多かったのだ。
だが、ベルヴァルト家の次期当主たるアルフレートはもちろん、グライナー家の一人娘であるわたしにもまったくその気はなかった。仲の良い友人ではあるけれど、お互いに恋愛感情は一切ない。ただ、結婚すれば店の発展につながる、というのは大変に魅力的だったので、彼との結婚自体、わたしはどうしても嫌だというわけではない。それに、恋をしていなくてもアルフレートなら、きっと一緒に暮らしても楽しいと思う。(もちろん、アルフレートはどう思っているのか知らないけれど)
ただし、この結婚が本当に釣り合いのとれた縁組だとは言い難いのも事実である。わたしの父であるモラン・グライナーが経営する「マルガレーテ」は元々街の小さなお菓子屋さんだった。それが街中に大きなお店を構えるようになり、地方にさえいくつかの支店も出せるようになったのも、ここ数年の話だ。よって、社交界に顔を出すたびに「成り上がり」呼ばわりされるのも当然の話だった。
一方、アルフレートはこのバシュタの古くからある名家の一つであり、何代も続く老舗の紅茶のお店「ベルヴァルト」の御曹司なのだから「成り上がりの品のない小娘」なんて到底結婚相手にふさわしくないと陰口をたたかれているのも知っている。もちろん、彼の優しい物腰や整った容姿も妬みを引き寄せる要因なのだろうけれど――。
さらに屋敷をうろつきまわっていたら、なんだかおなかがすいてきた。夕食にはまだ早いし、お店に顔を出して、新作のケーキについてヨーゼフやエリーゼと話し合ってみるのもいいかもしれない。そのついでに焼き立てのお菓子ももらうことにしよう。
わたしは通り過ぎようとした階段にまた足を向けた。急に体を傾けたせいか、髪から勿忘草のコサージュが転がり落ちる。
落ちていく――勿忘草。
手を伸ばした瞬間、バランスを崩した体が変に傾いた。
手すりをつかもうとした手がむなしく空を切る。
――落ちる。
衝撃に備えて目を閉じる。体が落ちていく。転がっていく。
「お嬢様!」
イーナの悲鳴が聞こえて、目の前が真っ暗になった。