14話
「マルガレーテ」の喫茶室からはシュヴェーン川がよく見える。窓は全面ガラス張りになっているため、窓際の席だけではなく離れた席からでもじゅうぶんに眺めが良い。
バシュタを祝福する光の帯と称されるシュヴェーン川。陽光を映しながらゆったりと流れる川を見渡せば、バシュタの三大名所として知られるヴェスターント橋も見ることができる。
王都に観光に来たばかりなのだと気さくに話してくださる親子連れのお客様を窓際の席に案内しながら、わたしはその見慣れたはずの川を目の前にお客様と一緒に「わあっ」と声を上げたくなる。
――ああ、わたしは、今、あの有名な愛の分岐川を目にしているのだ!
「勿忘草のエチュード」において、大きな事件の起こるイベントといえばシュヴェーン川を舞台にしたものが多かった。
もちろん、乙女ゲームらしく「エリーゼと攻略対象が川で仲良く戯れる」というごく普通のときめきイベントもあるにはあったのだが、それよりも印象深いのが彼らとの恋も盛り上がり、個別ルートに入ることが確定したときに必ず起こるエリーゼ川落ちイベント、通称「フォーリンバーイベント」である。
通称の由来は、ファンブックの分岐イベントのスチルにこんな煽り文句があったからだ。
――どうしても抗えない必然的な運命! 川に落ちたと思ったら、あなたとの運命の恋にも落ちてしまったの! フォール・イン・ラヴ&リバー! 行く川の流れは絶えず止めることはできないように、二人の恋はもう誰にも止められない!
エリーゼが川に落ちる理由はさまざまで、勿忘草の花言葉のエピソードにもあるように美しい花を摘もうとして浅瀬の川に落ちてしまったり、走っていて足を滑らせてしまったりと、どれも他愛もないものだった。当然、すぐに攻略対象に助け出されるのだが、そのときのエピソードはそれこそ床を転がっても転がりたりないほどに萌えて、燃えて、萌えたあげく「デスティニーフォーリンバー!」と奇声を上げたくなるようなエピソードなのだから――特にヴィクトールの絶叫は絶叫告白の次に聞きごたえがあった――結局はときめきイベントだと言えるのかもしれない。
ゲームも後半になれば、エリーゼや攻略対象を追いつめる悪人から逃れようとして川に飛び込んだり、追いつめて川に落ちたり、落とされたりするような危険なイベントも増えてくる。当然のごとく、バッドエンドも身投げエンドが多かった。
エリーゼ一人が身投げをしたり、攻略対象だけが身投げをしたり、二人で心中をするために身投げをしたり、すべて川に流せばそれでいいのか、とばかりに川に落ちて、流されて終わるのだ。中には自暴自棄になった攻略対象がその無駄に大きい権力を生かして川の水門をすべて開け放ち、バシュタを水没させてしまうとんでもないエンドまであった。
さて、わたしこと、クラリッサのバッドエンドもエリーゼと二人で身を投げる心中エンドだった。
『私たち、ずっと一緒にいましょうね』
エリーゼの優しくもはかない声が耳に蘇る。
『ええ。ずっとずっと一緒にいましょう』
答えるのはわたしこと、クラリッサの声。
だが、このエンドがこのゲームの中で最も美しいエンドだった。男女カップルにしか興味のなかったわたしに百合エンドもありだと言わしめた珠玉のエンドだったのである。
お互いの気持ちがわかっていても、どんなに思いあっていても、二人の仲は決して祝福されることはない。クラリッサとアルフレートの婚約はベルヴァルト家の没落によって立ち消えてしまい、エリーゼにも縁談が持ち込まれる。
年の離れた裕福な男性の下に嫁がなければならなくなったエリーゼ。
クラリッサにも間もなく次の縁談が持ち込まれることだろう。
これが最後だからと、こっそり家を抜け出した二人は思い出の場所を巡り始める。
緑多き公園。一緒にボートに乗った鏡のような池。街中のカフェ。かわいい雑貨屋さん。
そこで、最後の思い出に二人でおそろいのリボン――勿忘草色のリボンを買い求める。
語らいも尽きないうちに日は落ちはじめ、やがて、二人は人気のない川沿いに立つ。
目を合わせ、微笑みを交わし、どちらからともなく互いの手首にしっかりとリボンを巻き付けて、最後に川に身を投げるのだ。
絶望と悲しみを隠しながらも美しい笑顔を浮かべる二人の台詞、スチルと音楽が調和した、切ないながらもすばらしいエンドだった。
乙女ゲームにおいて、バッドエンドは好きだ。むしろハッピーエンドよりも萌えることもある。正直クラリッサルートでは、このエンドがいちばん萌えた。
――だが。
ケーキを乗せたワゴンを押すエリーゼと目が合った途端、怪訝な顔になる。
もしかして涙目になったことを気づかれたのかもしれない。
微笑んで軽くうなずくと、エリーゼも微笑んでくれる。
今のわたしの守るべきはエリーゼのこの幸せそうな笑顔だ。切ない笑顔ではない。断じてない。
真紅のびろうどに金色で書かれた表紙のメニューを見ながらあれこれと楽しそうに悩んでいたお客様からの注文を受けて、わたしは厨房に向かう。
職人に木苺のケーキと雲のロールケーキを頼んでから、わたしは紅茶の棚の前に立つ。
温めたポットやカップ、熱い湯は厨房で用意してくれるのだが、実際に紅茶を入れるのは給仕係の仕事である。
棚にずらりと並ぶ空色の缶は二十種類余り。すべてベルヴァルトの紅茶だが、季節によって銘柄も変えている。棚の左側には標準的な紅茶が並んでおり、右に行くにつれて香りの強い、多少癖のある紅茶へと変わっていく。
最も有名な茶葉は店の名前にもなっている「ベルヴァルト」である。何でもベルヴァルト家の紅茶好きのご先祖様がある日すばらしいブレンドを作り上げ、あまりのおいしさに紅茶の店を開く決意をさせたほどの茶葉らしい。万人向けのおいしいお茶なので、選んで間違いはないが、少し面白みに欠ける。
さて、どれにしようかと棚に手を伸ばしかけたとき、「クラリッサ」と柔らかな声がする。
「ねえ、変なことを聞くようだけれど、さっき、クラリッサ、泣き出しそうな顔をしていなかった?」
わたしは微笑みながら振り返る。
「きっと給仕係が楽しすぎたからだわ。エリーゼ。売り子も楽しいけれど、おいしそうにケーキを召し上がってくださるお客様を間近で見られるのもいいものね」
「ええ。そうね」
エリーゼはほっとしたような笑顔になる。
「喫茶室は眺めも良いから、とても気持ちよく働けるわ。それに今日はクラリッサもいてくれるから、いつもより、もっとずっと楽しいの。あんまり楽しいから、お仕事だということを忘れてしまいそうになるわ。でも、そろそろ喫茶室も込み合う時間になるから、気を引き締めないと」
エリーゼは職人に木の実のチョコレートケーキを注文する。
「そうね。もうすぐお茶の時間だもの。忙しいと手元がおろそかになってしまうから、エリーゼを見習わないといけないわ。なんたって、わたしのお手本なんだもの」
「まあ、私なんて! お手本なんて、とんでもない話だわ!」
エリーゼは慌てたように両手を振ると、紅茶の缶を手にする。
「ねえ、クラリッサのお客様への紅茶はもう決まって? お客様からお任せだと言われたのでしょう?」
「ええ。そうなの。ケーキに合わせた紅茶でいいと言われたのだけれど、どれがいいかしら。ケーキは親御さんの方が雲のロールケーキで、娘さんの方は木苺のケーキよ」
「そう。優しそうなお母様とかわいらしい娘さんだったわね。お二人は観光でいらしたの?」
「ええ。『マルガレーテ』に来るのが楽しみだったとおっしゃっていたわ」
エリーゼは自分の手にした紅茶の缶を置いて、棚の上に白い手を滑らせる。
「それなら、思い出に残るような名前の紅茶がいいのではないかしら。『ベルヴァルト』も良いけれど、『光の帯』か『祝福』ならシュヴェーン川にちなんだ名前だし、あまり癖もなくて、飲みやすいお茶だと思うわ」
「そうね。それなら、親御さんには『光の帯』にするわ。娘さんの方は――」
わたしは迷ったあげく、真ん中辺りの缶を取り上げる。
「『花かんむり』はどうかしら」
エリーゼはにっこり笑う。
「とてもいいと思うわ。名前もかわいらしいし、春にふさわしいさわやかな香りのお茶だもの」
「これにするわ。ありがとう。エリーゼ」
温かなポットに紅茶の缶から金のスプーンで図った茶葉を丁寧に入れて、熱い湯を勢いよく注ぐ。選んだ紅茶を蒸らすため、砂時計を倒してから銀のワゴンを確認する。
ワゴンにはすでに丁寧に盛り付けされたケーキが並んでいる。紅茶を入れれば、あとは温めたカップを並べるだけだ。
エリーゼの用意する紅茶とケーキの組み合わせを見て、わたしは「もしかして、ルーマン様がいらしたの?」と問いかける。
「ええ。そうなの。よくわかったわね」
「だって、木の実のチョコレートケーキに『ベルヴァルト』でしょう?」
「ええ。いつもの席に座っていらっしゃるわ」
エリーゼは口元をほころばせる。決してお客様を区別することはせず、平等に扱うと宣言している彼女には珍しく、ルーマンだけは特別なのである。彼女自身、無意識なのかもしれない。
だが、その気持ちはよくわかる。ルーマンを前にすると誰もが礼儀正しい淑女になり、優雅に振る舞うことだろう。
彼は絵に描いたような老紳士なのである。品よく整えられた白髪と口ひげ、穏やかな青い瞳、姿勢良い姿でお気に入りの木の実のチョコレートケーキと「ベルヴァルト」の紅茶を微笑みを浮かべながらゆったりと召し上がり、込み合う時間には帰っていく。どこかの貴族のご隠居なのだろう、というのが
店内の予想なのだが、何分無口な方なので真相はわからない。
ただ、エリーゼには時々話しかけることがあり、彼女も快く話し相手になっている。
「ねえ、クラリッサ。実はルーマン様も昨日お店が閉まってから一度来られたらしいの。クラリッサのことをとても心配されていたようだから、あとでご挨拶だけでもしてもらっていいかしら」
「ええ。もちろんよ。エリーゼ」
最後の砂が落ちるのを見て、熱い紅茶を新しいポットに移し替えてワゴンに並べる。
エリーゼに「行ってらっしゃい」と見送られて、ワゴンを押して喫茶室の五番テーブルに向かう。
奥の十番テーブル、窓際から離れた喫茶室とお店をつなぐ入り口側の席を見やる。肘掛け椅子にくつろぐようにして座っているルーマン様を見て、わたしは思わず立ち止まる。
彼の名前はルーマンではない。彼の本当の名前はオリヴァー・レーヴェンタール卿。
微笑んで軽く会釈する老紳士にわたしも頭を下げる。
カイルルート、レオン王子ルートでしか正体が明かされない彼は、エリーゼの実の祖父なのである