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13話

 食堂の扉を開けるとスープの良い匂いがした。反射的にわたしのおなかがぐうっと鳴る。にぎやかな食堂だから、きっとだれにも聞こえなかったことだろう。


「クラリッサ! ほら! 早く料理を取りに行きましょう!」

 エリーゼがわたしの腕を強く引っ張るのは、とてもおなかがすいているからに違いない。彼女には珍しいことだが無理もない。午前中は息つく暇もないほどに忙しかったのだ。


 先にテーブルについている従業員たちの陽気に飛び交う挨拶に答えながら、わたしたちは大皿の並ぶテーブルに向かう。

 「しっかり食べてこそ、よく働ける!」との経営方針の元、「マルガレーテ」の昼食はビッフェスタイルになっている。大皿の料理からそれぞれ好きなものを好きなだけ取って食べていいのだ。


 作り立てのサンドイッチや焼き立てのマフィン、ポテトパンケーキ、ソーセージ、野菜のピクルスなどを適当に取って座れば昼食当番の職人がその日のスープを熱々のまま持ってきてくれる。


 今日のサンドイッチはわたしの大好物のチキンのサンドイッチだった。二つ取って、迷ったあげくもう一つだけ追加して、くるみのマフィンとポテトパンケーキも二つずつ、熱々のソーセージもやはり二本だけにしておく。ピクルスは体にもいいことだし、にんじんときゅうりを五本ずつ取っておいた。その横に並ぶクッキーやマドレーヌ、パウンドケーキは横目で見ただけで我慢する。


「あら、それだけしか取らないなんて、クラリッサ。まさか、まだ体調が悪いの?」

 いつもの半分も取らなかったせいか、エリーゼが心配そうに問いかけてくる。

「いいえ。元気だけれど、今日はデザートのために控えめにしておいたの」

「ああ、そうだったのね。今日はヨーゼフさんがクラリッサのために素敵なデザートを考えてくださっているもの。それに、そう! クラリッサには『スチル』も食べてもらわないといけないわ!」

「――ええ。エリーゼ」

 新作ケーキである「スチル」を食べるのはとても楽しみではあるが、元の言葉の意味を知っていると微妙な気分になる。


 最後にカップに熱い紅茶を注いでから席につく。特に決まった席があるわけではないが、空いていればなんとなく座ってしまう席というのはある。今日も運良く空いていたので、テーブルの右端にわたしが座り、その隣にエリーゼ、エリーゼの向かいにコリンナが座る。


「ねえ、今日はアルフレート様は来られないのかしら」

 コリンナが隣の空席を見る。コリンナの隣であり、わたしの向かいの席は大抵空いたままになっている。わたしが売り子を務めるときは、アルフレートも仕事上の打合せと称して、昼食にやってくることが多いからだ。


「そうね。今日は顔を出すと言っていたけれど今の時間まで来ないのなら、お茶の時間に来るのかもしれないわ。それより、コリンナ。たったそれだけで足りるの? サンドイッチ一つだけっていくら何でも少なすぎない?」

「……言わないで、クラリッサ。私はこれでいいの。これで足りるようにするの。スープでおなかを太らせればいいの」

「クラリッサさんの言う通りですよ! 正気じゃないですよ、コリンナさん! たったそれだけで足りるわけがないじゃないですか!」

 スープを持ってきてくれたルーカスの叫びが響き、「うるさいわよ! ルーカス!」とコリンナは顔をそむける。

「このやり取りを聞くのも久々だわ。ルーカスって、本当にコリンナのことが好きよね」

「よくぞ言ってくれました、クラリッサさん! 俺、コリンナさんが大好きなんです! それなのに、コリンナさんはこの気持ちをぜんぜんわかってくれないんですよ!」

「あら、ルーカス。これだけ毎日言っているのだもの。コリンナはあなたの気持ちをとてもよくわかっていると思うわ。ただ、その気持ちに答えられないというだけではないかしら」

 エリーゼがあっさり言うと、ルーカスは衝撃を受けたようによろめいた。

「え、エリーゼさんって、笑顔で結構きついこと言いますよね」

「だって、本当のことなんだもの。けれど、ルーカス。それでめげるあなたではないでしょう? あなたのコリンナへの熱い思いは私が何か言ったくらいで砕け散るものではないはずよ」

「は、はいっ! エリーゼさん! 俺の愛は強いです! そうなんです! 信じてください、コリンナさん! コリンナさん! コリンナさん!?」

 無視して紅茶を飲み続けるコリンナの名をルーカスは呼び続ける。

「――わかった。よくわかったから、もう黙って、ルーカス」

「わかってもらえてうれしいです、コリンナさん! あ、どうぞ、皆さん、食べてください! ほら、クラリッサさんも早く食べないと死んだ魚になっちゃいますよ! って、大変だ! もう死にかけてるじゃないですか!」


 ルーカスは機嫌よくわたしの前にスープを置いて、立ち去っていく。


――死んだ魚!?


 湯気の立ち上るスープを見下ろしながら――残念ながら本日は魚のスープではない――わたしはルーカスの発言について考える。


「あんまりルーカスをたきつけないでよ、エリーゼ。これ以上うるさくなったらどうしてくれるのよ」

 コリンナが恨みがましく言うと、エリーゼは微笑みながら紅茶を口にする。

「あら、コリンナ。私は思ったことを口にしているだけだわ」

「……ねえ、わたしって、アルフレートだけではなくて、皆から死んだ魚みたいだって思われてたの? もしかして、わたし、陰で皆から『死んだ魚』って呼ばれていたりするのかしら」

「ああ、さすがにそれはないけれど、『あー、また、死んだ魚になってる』くらいは言われているかしら。この間、アルフレート様が皆に話していたのよ。何でも市場で魚を見るたびにクラリッサを思い出すんですって。『あの濁った目がクラリッサによく似てるよね。とても愛らしく思えてしまって、つい買い込んでしまったよ』って言われるのを聞いて、皆、納得していたわ」


 だから、アルフレートは近ごろお土産にさまざまな種類の魚を買ってきてくれるのだろうか。おかげで、厨房の料理長は大喜びで凝った魚料理を出してくれるし、おいしくてうれしくてわたしも喜んでいたが、アルフレートにそんな意図があったのなら、どう考えてもわたしに対する嫌がらせにしか思えない。


 当然、お土産を持ってきてくれたのだから彼を夕食にも誘っていたし、おいしく調理された魚料理を笑顔で食べていたアルフレートは、時折わたしを見て笑っていたような気もする。


 つまり、「死んだ魚」が「死んだ魚」を食べていると笑っていたのだ!


「――ひどいわ。アルフレート」

 耐え難い衝撃の事実に呆然としながらも、わたしは力なくサンドイッチを手に取る。


「仕方ないわよ。アルフレート様のあれは、相当重症だもの。でも、エリーゼだって似たようなものよね」

「わ、私?」

「だって、エリーゼ、この間一緒に市場に行ったとき、『ほら、クラリッサがいるわ』ってその辺の魚を指さして言ってなかった?」

「まあ、違うわ! コリンナ! その辺の魚ではなくて、いちばんかわいかった魚よ! 本当にかわいい魚だったのよ、クラリッサ。それより、ねえ、早くいただきましょう! とってもおなかがすいたわよね、クラリッサ!」

「……エリーゼ。わたし、これからはおなかがすいても、生き生きと輝く希望に満ちた瞳の淑女になれるように努力するわ」

「そ、そうね。今のままもとっても素敵だと思うけれど、それも素敵だと思うわ! クラリッサ!」


 エリーゼにまでそんなことを言われていたのなら、わたしはもう立ち直れないかもしれない。そう思っていたが、チキンのサンドイッチを頬張った途端に、わたしは元気になった。


「おいしい! すっごくおいしい!」

「ええ。とってもおいしいわね。クラリッサ」

 エリーゼもサンドイッチを口にして、幸せそうに微笑んでいる。


 珍しく食べることに夢中になっているエリーゼを横目に、わたしも思う存分サンドイッチを楽しんだ。空腹を満たすための一つ目はあっという間に食べ終わり、今度は落ち着いて味を楽しむための二つ目である。皮がぱりぱりになるほど焼いたチキンのサンドイッチはわたしの大好物だ。特製のソースと肉汁が黒パンによく合っていて、ピクルスと一緒に食べるとさっぱりして、いっそうおいしく感じられる。


 スープもあっという間に空にして――よく煮込んだ野菜の旨みとソーセージの味わいと軽くこしょうの効いたスープが五臓六腑に染み渡る――ルーカスがスープのお代わりを持ってきてくれる間、明後日食べられるであろう月餅に思いをはせていた。


 わたしが倉田理沙だった頃の記憶の中にある月餅の味とは多少違うかもしれないが、甘いものに目がない、あのヴィクトールが味を保障してくれたのだ。おいしいことに間違いはないだろう。


 そこまで考えて、わたしはポテトパンケーキを切り分ける手を止める。


 月餅はともかく、なぜ、わたしがヴィクトールの邸に行くことになっているのだろう。


 月餅はともかく、いくら仕事だとはいえ自邸に来るように誘うのなら、ただの友人のわたしよりも思いを寄せるエリーゼに声をかけるべきではないのか。


 月餅はともかく、客にケーキを振る舞うという正当な理由がありながら、どうでもいいわたしを誘うなんて、きっと譲れない理由があったに違いない。


 わたしは冷静に考えようと、ポテトパンケーキを丁寧に一口大に切り始める。


――もしも、ヴィクトールが愛するエリーゼに声をかけて自邸に招くことになっていたら。

 

 仕事という口実があるとはいえ、エリーゼをヴィクトールの自邸に招くのだ。


 しかも、「マルガレーテ」のかわいい制服姿のエリーゼを!


 いくら他に客がいるとはいえ、時にはエリーゼと二人きりになることもあるだろう。


 彼のためだけに優雅に微笑み、彼のためだけにおいしいケーキを切り分け、「いかがですか? イェルク様。今度はどのケーキにいたしましょう」とゆったり問いかけるエリーゼ。


 赤くなった顔を隠そうとあらぬ方向を見て、「そうだな。このケーキもうまいが、きみの笑顔の方がもっとうまいな。エリーゼ」といった寒い台詞を脳内で叫びつつも、謎の咳払いを繰り返したあげく「きみに任せる」と適当に言いながらケーキを食べて、味が何だかわからないほど動揺しながら「悪くない」と仏頂面で言うヴィクトール。


 しかも、ベストエンディング後のヴィクトールなら、どれだけうすら寒い台詞だろうと真顔でそれを口にするようになる。結婚後は彼の口にする言葉すべてが口説き文句になるのだから、先ほどの台詞だって「きみの笑顔が」の「笑顔」が消えて、「きみの方がうまいな」というさらに砂を吐くような台詞に変化することだろう。


 わたしはナイフを握りこんで、目を閉じる。


――いい! すごくいい! 見たい! 目の前で見たい! エリーゼの笑顔と照れるヴィクトール!


 ああ、けれど、忘れてはいけない。これはゲームではなく現実である。二人きりの甘い時間を覗き見するなんて、そんな無粋なことが許されるはずもない。見られる方だって、非常に嫌だろう。(エリーゼしか目に入っていないヴィクトールは気にしないかもしれないが)


 まして、こちらの彼はゲームにさらに輪をかけた純情馬鹿野郎だ。未だにエリーゼを「コンラート嬢」とよそよそしく名字で呼んでいるような間柄なのだから、突然彼女を招くような暴挙に及ぶわけにはいかないのだ。


 きっと、エリーゼの友人でもあり、店主の娘でもあるわたしを呼んで、彼の家に行くのは問題ないと安心させておいてから、エリーゼを招くことにしたに違いない。自分で言うのも何だか、わたしはかなりエリーゼに信頼されているし、わたしが安心だと言えば、エリーゼも信じることだろう。


「ね、ねえ、クラリッサ。どうかして? 」

「えっ!? 何かしら、エリーゼ!」

「なんだか、とても悩んでいるみたいだけれど、やっぱりサンドイッチが足りなかったのではないの?三つでは少ないと思っていたのよ。もう一ついただくかどうか考えているのなら、大丈夫よ、クラリッサ。あなたならデザートもいただけると思うわ。コリンナもスープばかり飲んでいないで、我慢しないでサンドイッチをいただいたら?」

「そうね。クラリッサの分も取ってきましょうか」

 コリンナは諦めたように立ち上がる。

「ええ。お願いするわ。ありがとう。コリンナ」

 スープのお代わりを持ってきてくれたルーカスが「さすがです! エリーゼさん!」と言う。


「ルーカス。あんた、一言でも余計なこと言ったら、このサンドイッチ、全部クラリッサに渡すわよ」

 ルーカスは慌てたように首を振り、うれしそうに笑って厨房に戻っていく。

「どうせ午後からも忙しいでしょうし、しっかり食べて、その分いっぱい働くわ。ねえ、クラリッサ。あんたが悩んでるのって、サンドイッチじゃなくて、ヴィクトール様のことではないの? まさか、ヴィクトール様にどこぞの舞踏会でエスコートしたいとでも言われたの?」

 コリンナがからかうような笑みを浮かべると、「そうなの!?」とエリーゼが目を見開く。


「――ひどい! 私がいない間にそんなことになっていたなんて、ひどいわ! イェルク様! 『マルガレーテ』のお菓子をとても好いてくださるお客様だと思っていたのに、クラリッサの仕事中に図々しくも言い寄るだなんて、そんな最低な方だとは思わなかったわ! クラリッサを、売り子の仕事を何だと思っていらっしゃるのかしら!」

 突然怒り始めたエリーゼに驚いて、わたしはポテトパンケーキをのどに詰まらせそうになる。

「ま、待ってちょうだい。エリーゼ」

「だって、クラリッサは仕事中なのよ! クラリッサが売り子である以上、何を言われても拒絶しにくい状況につけこんで、そんな誘いをかけるような方だったなんて、イェルク様を見損なったわ!」


 エリーゼは売り子の仕事に対して非常に誇りを持っている。以前、ケーキを買うことを口実に他の売り子にしつこく言い寄っていたお客を見て――すぐにヨーゼフが笑顔で送り出していたが――わたしに話してくれたことを思い出す。


『クラリッサ、私はね。売り子というのはお客様に『マルガレーテ』のケーキをおいしく食べていただくためのいわば添え物だと思っているの。ケーキを買いに来るのって、とても特別で、楽しみで、わくわくするようなことでしょう。だから、その楽しい気分を壊さないように、できる限り快く買っていただけるように務めているのよ。それなのに、せっかくのケーキを楽しみにしないで、売り子ばかり気にするお客様がいらっしゃると、とても悲しい気分になるわ。本当に、とてもおいしいケーキばかりなのに』


 やはり、ヴィクトールの行動は正しかった。もしも仕事にかこつけて、エリーゼを自邸に招いていたら、エリーゼのヴィクトールへの好意は完全になくなっていたかもしれない。


 わたしは落ち着くために紅茶を飲んで、怒りのせいか頬を染めているエリーゼを見る。


「エリーゼ。ヴィクトールがわたしに言い寄るだなんて、とんでもない勘違いだわ。ヴィクトールはわたしに仕事の話をしていたのよ」

「お仕事の――話?」

「ええ。わたしが制服を着ていたから思いついたらしいのだけれど、明後日ヴィクトールのところに東洋からのお客様が来るのですって。そのお客様相手にわたしに制服姿でケーキを給仕してほしいってそう言うのよ。わたしが店主の娘ということも、お客様にとっても良い印象になるだろうし、うちの店の宣伝にもなるだろうからどうかって」

「ま、まあ、そうだったの」

 エリーゼは赤く染まったままの頬に両手をあてる。

「私ったら、早合点をしてしまって、恥ずかしいわ。でも、それだけなのかしら。仕事にかけつけて制服を着たかわいいクラリッサを自宅に招きたかっただとか、そういうことはないのかしら」

「ええ。もちろんよ。わたしの制服姿なんて、ヴィクトールにとってはおもしろくもなんともないはずだわ。だって、これは内緒なのだけど、彼には他に思っている方がいるんだから」

「――そ、そうなの? そうだったの!?」

「ええ、そうよ」

 わたしは安心させるように微笑む。

「まあ、私ったら、イェルク様はクラリッサのことを好きだと思い込んでしまっていたわ。私、どうしてそんな勘違いをしていしまったのかしら」

 恥ずかしそうに微笑むエリーゼに「何言ってんの、エリーゼ! クラリッサも!」とコリンナが身を乗り出す。


「二人とも、なんで、変に納得しているのよ。違うでしょう。よく考えなさいよ、クラリッサ。昨日だって、ヴィクトール様はあんたのことを心配して、この店まで駆けつけて来られたのよ。あんたに気がないわけがないじゃない!」

「あら、コリンナこそ、よく考えてみて。だって、もしも、万が一にもヴィクトールがわたしに好意を持ってくれていたとしても、わたし、いままでヴィクトールに好意を伝えられたこともなければ、舞踏会のエスコートを申し込まれたことも、個人的にお茶会に呼ばれたことも、どこかに誘われたことだってないのよ。せいぜい、舞踏会で付き合い程度に踊るくらいよ。それなのに、突然、仕事以外でわたしを誘うなんておかしくない?」

「それは、まあ、おかしいような気がしないでもないけど」

 コリンナは考え込むような顔になる。

「それに、イェルク様はお店にほぼ毎日いらしていたわ。たとえクラリッサがいなくても、お店に贈り物やお手紙を言づけることもできたのに、そんなことはいままで一度もされなかったもの。それなのに、突然、個人的な感情でクラリッサを自宅に招くだなんて、いくら何でもおかしいわ。純粋に仕事のためなのではないかしら」

「――そうね。二人が言うのなら、そんな気がしてきたわ」

 コリンナは何度もうなずいている。

「って、なんで、コリンナさんまであっさり納得してるんですか! いやいや、おかしいでしょう! 

ヴィクトール様、昨日は殺気立って俺につかみかかってきたんですよ! 俺、本当に殺されるかと思ったんですよ! あれはどう考えてもクラリッサさんに気がありますって!」

 スープのお代わりを持ってきてくれたルーカスに、わたしは「勘違いよ」と断言する。

「ヴィクトールが必死になったのは、きっと、マルガレーテのケーキが好きだから、いいえ、愛しているからよ。どうしても食べたい時に食べられないって、それほどつらいことがあるかしら」

「うーん。そっかあ。確かにヴィクトール様って、異常なくらいにうちのケーキやクッキーが好きだし、それに、俺がコリンナさんに言うみたいに、クラリッサさんに好きだって言ったりしてませんよね。好きだったらどうしても言いたくなっちゃうし、俺の勘違いだったかあ。あ、クラリッサさん、スープはもういいですか? そろそろデザートの準備してきますね」

「ええ、お願いね。ルーカス」

「いやー、俺もまだまだだなあ」

 ルーカスは空になったスープ皿を器用に積み重ねて立ち去っていく。


「ただ、わたし、ヴィクトールの家に行くとはっきり決めたわけではないのよ。個人的な招待ならともかく、『マルガレーテ』を代表して行くのだもの。店主に相談してから返事をすると言ったのだけれど、二人はどう思う?」

 途端にエリーゼもコリンナも真剣な顔になる。


「そうね。『マルガレーテ』から売り子としてのクラリッサがイェルク様のお宅へ伺う、というのは難しいかもしれないけれど、イェルク様のお茶会に個人的にクラリッサが招待されたという形ならおじ様も賛成してくださるのではないかしら」

「それがいいでしょうね。ケーキではなくて、売り子目当てで来るお客様も時々いらっしゃるもの。お金さえ払えば売り子を自宅に招けるってことが噂にでもなってしまえば、困ったことになるかもしれないわ。クラリッサの友人からの招待だということならぎりぎり問題ないと思うわ。ただし、『マルガレーテ』の名前を背負って行くことに変わりはないわね。クラリッサ」


 コリンナの目が鋭くなる。

「クラリッサ。あんた、午後からお店ではなくて、喫茶室に行きなさい。給仕なんて久しくやっていないでしょう? しっかり練習しておいた方がいいわ」

「そうね。言われてみればその通りだわ」

 売り子はともかく、最後に喫茶室で給仕を務めたのはいつだったろうか。半年前、いや、それ以上前かもしれない。

「東洋からのお客様のおもてなしなのでしょう? 貴重な機会だもの。がんばってね、クラリッサ。一緒に働けないのは残念だけれど」


 いくらか寂しげな笑みを浮かべるエリーゼに「何言ってんの」とコリンナが呆れたような目を向ける。


「クラリッサのお手本が一緒に行かなくてどうするの。午後からの給仕係の誰かと代わってもらえばいいじゃない」

「まあ、そんな、勝手なことできないわ」

「たまにはいいじゃない。あんたいっつも代わってあげてるでしょう」

「で、でも」


「話はすべて聞かせてもらったわ」

「すばらしい提案ね」


 突然、ぽんと肩に手が乗せられる。


「フローラ! アデーレも! 今日は二人とも喫茶室だったわよね?」

「その通りよ、クラリッサ。午後から絶対に喫茶室の方が忙しくなると思うの。あなたが入ってくれればアルフレート様だって二つ返事で窓際の席に座ってくださるだろうし、運が良ければレオン様やカイル様だって、一緒に座ってくださるかもしれないわ。そうなれば、常連のお客様だけではないわ。ご婦人方がたくさんいらっしゃるわよ」

 アデーレが目を輝かせれば、フローラがエリーゼにうなずいて見せる。

「私がエリーゼの代わりにお店の売り子に入るわ。この間もダニエルが来るからって、当番を代わってもらったばかりでしょう。それに、あなたが喫茶室にいた方がカイル様もおとなしく言うことを聞いてくださるかもしれないもの」

「え、ええ。お兄様は来てくださらないかもしれないけれど、もしもいらしたら、窓際に座っていただくようにお願いしてみるわ」

「その意気よ。エリーゼ。というわけで、コリンナ。この二人は喫茶室にもらっていくわ。ああ、そうそう。私たちの休憩はあと五分で終わりなの。これから控室で支度するわよ」

「ええっ!? で、でも、まだデザートが!」


 わたしが思わず厨房を見ると、「クラリッサ!」とアデーレはわたしをのぞきこむ。


「仮にも店主の娘が何を甘えたことを言っているの! 稼ぎ時は逃がしてはだめ! 喫茶室があなたを待っているのよ!」

「それもそうね! わかったわ! アデーレ! わたし、精一杯、がんばるわ!」

 わたしは力強くうなずいて、コリンナを見る。


「あとは頼んだわ。コリンナ。わたしのデザート、あなたが全部食べて」

「私のデザートも頼んだわ、コリンナ」

「ちょっと待って! 二人して残酷なことを言わないでちょうだい! デザートなんて、あとで食べたらいいでしょう! それから二人とも!」


 コリンナが花の形の手鏡を開く。


「クラリッサは口の周りにソースがついてる! エリーゼは顔が緩みっぱなし!」


 わたしたちは慌てて顔を整えると、アデーレたちと共に、身支度を整えるために控室に向かった。




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