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12話

「月餅……」

 わたしはヴィクトールの口にした言葉を呆然と繰り返す。


――ああ、月餅!


 わたしはぐっと拳を握りしめる。


 あの丸く愛らしい形。


 表面はつやつやと栗色に輝き、さっくりと割った中にはくるみや松の実を混ぜた餡、蓮の餡がたっぷりと詰まっている。ただし、ラード入りのこってりとした餡だから、普通のお饅頭と違って一度に何個も食べられない。むしろ一個で満足する。それなのに、翌日にはそのこってりとした甘さが恋しくなる。


 思い出すと無性に食べたくなる恐ろしいお菓子。それが、月餅。


 わたしが倉田理沙だった頃、デパートの中華街展が始まるたびに仕事のスピードは格段に上がった。業務終了前に誰も面倒な仕事を持って来ないように、厄介な電話もかかって来ないようにと半ば呪うように祈り、走るようにして退社してはデパートに向かった。


 閉店間際の少ない時間でさんざん迷った挙句、十個入りは諦めて、五個入りの袋を買って、一つずつ、大切に食べようと思っていたのに、結局二、三日で食べきってしまうのもいつものことだった。


「そうだ。ゲッペイだ。東洋のキーナという国で作られている菓子なんだが、こんなに大きくて丸いんだ」

 ヴィクトールは両手で顔くらいの大きさを形作って見せる。そんなにも大きな月餅はわたしも食べたことはなかった。それくらいの大きさなら手で割って食べるわけにはいかないだろう。ケーキのように切り分けて食べるのだろうか。


「何でも月を見立てた縁起の良い菓子らしい。本来は月を見ながら食べるそうだ。しっとりとした生地にこってりとしたアンというクリームのようなものが中に詰まっていてな」


――ええ、よく知っているわ、ヴィクトール!


 食べるたびに背徳感が増すほどのこってりとしたあの甘さ。


「以前商談に行ったときに茶菓子として出されたんだが、なかなかにうまかったぞ。普通の焼菓子よりは濃厚な甘さだがアンには木の実も混ぜてあって香ばしさもある。お前も興味があるのなら――」


 ヴィクトールの話の途中でわたしのおなかがぐうっと鳴った。


 何の音だと言いたげに、彼の眉が寄せられる。


「そ、そうね。もちろん、わたしも興味があるわ。ゲッペイというお菓子はどこかで聞いたことがあるし、前から一度いただいてみたいと思っていたのよ」

 わたしがごまかすために慌てて言い募ると、ヴィクトールは突然「そうか!」と大きくうなずいた。

「そうか! そうだったのか! ああ、ようやく納得できた! つまり、お前は、お前がずっと元気がなかったのは――」


――言うな、ヴィクトール!


「腹が減っていたからなんだな!」

 わたしの願いもむなしく、ヴィクトールはようやく謎を解き明かした、と言いたげな晴れやかな顔になった。

「……実は、そうなの。まだお昼をいただいていなくて、とてもおなかがすいているの」

 わたしは目を伏せてため息をつく。

 いかに気安いヴィクトールだとはいえ、客は客。今のわたしは接客中の売り子である。


 仕事中におなかが鳴るなんて、気が抜けている証拠だ。


「仕事中にごめんなさい。ヴィクトール」

「お、おい、わざわざ謝らなくてもいいだろう! 何を謝る必要がある! お前のことだからとっくに昼飯はすませているだろうと思い込んでいた俺が悪いんだ!」

 ヴィクトールは慌てたように立ち上がる。

「ああ、そうだ! よかったら、このクッキーを――」

 言いかけて、とっくに空になっていた皿を見下ろす。

「……すまん。一枚でもやりたかったが、いつのまにか消え失せていた。ここのクッキーは、うますぎる」

「ありがとう。最高の褒め言葉よ。ヴィクトール。ヨーゼフが聞いたら喜ぶわ。どちらにしろ仕事中に、しかもお客様のクッキーをいただくわけにはいかないもの。気持ちだけ受け取っておくわ。いいから、もう座って、ヴィクトール」

 ヴィクトールは腰を下ろして、両腕を組む。

「ま、まあ、そう、気に病むな。クラリッサ。腹が鳴って何も悪いことはない。誰だって腹が減れば自然と腹が鳴るんだ。だから、どれだけ豪快な音で腹が鳴ったからといって失礼なことはない。いっそすがすがしいじゃないか、クラリッサ」

「もういいわよ! さっきのことは忘れてちょうだい、ヴィクトール!」

 わたしは耐え切れずに手を出して、押しとどめた。

 殿方が淑女に言う言葉ではない。

 ヴィクトールは忘れているのだろうが、わたしだってこれでも一応、年頃の淑女なのである。

「とにかく、ヴィクトール。わたしだって、あんなにおいしそうなお菓子の話を聞かなければ、おなかなんて鳴らなかったわ」

「ああ、そんなに興味を持ったか」

 ヴィクトールは身を乗り出して、わたしを見上げる。

「それで、どうする? 明後日、お前も来ればゲッペイが食えるぞ」

「そうね。とても興味はあるけれど、いままでうちの売り子がお客様のお宅へ伺ってケーキを振る舞うことはなかったの。たぶん、問題はないとは思うけれど、念のために店主に確認してお返事させていただくわ」

「お前個人の意見としてはどうなんだ?」

「お店にとっても良いお話だと思うし、ぜひ伺いたいわ」

 ヴィクトールの申し出は「マルガレーテ」にとって損はない。ヴィクトールの取引する商人なら手広く商売をしているだろうし、「マルガレーテ」のお菓子が好印象で伝わってくれるのならこれほどうれしいことはない。


 月餅も、もちろん食べたい。昔食べた月餅と同じものとは限らないかもしれないが、あのこってりとした甘さを思い出したら、これが食べずにはいられようか。

 

「そうか! それはよかった!」

 ヴィクトールはぱっと笑顔になり、わたしは目を見張る。わたしの知っている彼はこんな風によく笑う。決して笑顔を見せることを怖がらない。


 ゲームでのヴィクトールはエンディングまでめったに心からの笑顔を見せることはなく、皮肉な笑みを浮かべては気持ちを隠すばかりだった。彼は誰かに本心をさらすことは弱みを見せることになると恐れていたため、わざとエリーゼを突き放すような言動ばかり取っていた。その抑えに抑えた反動がラストの絶叫告白につながるのである。


『ああ、エリーゼ。これで、もう、俺は誰にもお前への気持ちを隠さなくてすむんだ。俺はもう、お前のことを好きなだけ好きだと言っていいんだ。ああ、俺はこれから毎日、お前を愛していると全世界に叫びたいくらいだ!』


 ベストエンディング「明日への絶叫」で、ヴィクトールはエリーゼへ愛を語った後、突然窓を開けて「愛している、エリーゼ!」と叫ぶ。何かが吹っ切れたエリーゼも隣で「わたしも愛しているわ、ヴィクトール!」と叫び、二人は競争のように愛を叫び続ける。やがて、それは夫婦の毎朝の習慣となったらしい。ファンブックの煽り文句は「今日もお前を愛している! 明日もあなたを愛している! 二人の愛の絶叫は永遠に! 二人の愛はもう誰にも止められない! 最強の絶叫カップル!」になっていた。まさに絶叫バカップルである。


 エリーゼとヴィクトールが「最強の絶叫カップル」になるかどうかわからなくとも、今のヴィクトールがエリーゼの相手として問題がないかどうかじっくり見極めるには良い機会かもしれない。


 決して月餅だけが目当てではない。断じてない。


「モラン殿の許可が下りれば、当日、迎えの馬車を屋敷に行かせよう。そうだな。俺が――」

「お待たせして申し訳ありません、イェルク様!」

 エリーゼの澄んだ声と共に軽やかな足音がする。

「ずいぶんとお待たせいたしました。本当に申し訳ありません」

 深々と頭を下げるエリーゼにヴィクトールは立ち上がる。

「そんなに頭を下げる必要はない。どうか、気にしないでくれ。コンラート嬢」

「ありがとうございます。イェルク様。クラリッサもずっと一人にしてしまってごめんなさいね」

 エリーゼが申し訳なさそうな顔でわたしを見る。

「それは大丈夫だったけれど、何かあったの?」

「実はケーキを仕上げていたの。つい夢中になってしまって」

 エリーゼはカウンターの向こうにいるコリンナとヨーゼフを振り返る。

「いらっしゃいませ。ヴィクトール様。ずいぶんとお待たせしたようで、申し訳ありません」

「ああ、いや、ヨーゼフ殿。急な注文で無理を言ってすまなかったな」

「とんでもありません。ご注文していただきましたケーキは、すべてこちらでご用意させていただきます。それで、明後日のケーキですが、当店より、もう一台新作のケーキをご用意させていただけたらと思いまして。もちろん、こちらの代金はいただきません」

「ヴィクトール様。春の新作ケーキの試作品です。試作品ではありますが、東洋からのお客様にバシュタの春を楽しんでいただけるようなケーキに仕上がっていると思いますわ」


 コリンナは大皿に乗せたケーキをヴィクトールに示して見せる。


「試作品ですが、もう名前は決まっております。このケーキの名前は」

 コリンナがエリーゼを見る。

「スチルです!」

 満面の笑みでエリーゼが答える。

「これは、すばらしい」


 ヴィクトールは感嘆の声をもらし、わたしも「うわあ、きれい」とため息をつく。


 淡い金色のクリームが広がる土台のケーキにはブルーベリーと苺が色とりどりに飾り付けられ、ブルーベリーのジャムとクリームを使って、勿忘草が描かれている。


「いかがでしょうか。イェルク様。試作品ではありますが、よろしければ大切なお客様へのケーキとして加えていただけたらと思うのですが」

「ありがとう。ヨーゼフ殿。ぜひお願いしたい。客人方もこの華やかなケーキをさぞや喜ばれることだろう。だが、こんなにもすばらしいケーキを無料でいただくわけにはいかない。ぜひ、代金を支払わせてほしい」

「昨日のお詫びとお礼を兼ねていますから、このケーキのことはどうかお気になさらないでください。昨日はお嬢さんをとても心配してくださったでしょう。あんなに心配してくださって、俺もうれしかったんですよ」

「あ、ああ。まあ、昨日は、その、昨日のことは、まあ、いいんだ。おかげでゆっくり話ができたしな。ええと、コンラート嬢、この飾りつけはあなたがすべて行ったのか。見事なものだな」

「ありがとうございます。イェルク様。けれど、それもすべてクラリッサのおかげですわ。このケーキの名前、スチルを名付けたのはクラリッサなんです。それからいろいろなイメージが浮かんで、飾りつけをすることができたんですもの」

「クラリッサが!?」

 ヴィクトールはすごい勢いでわたしを見る。

「しかも、クラリッサったらすごいんです。スチルはクラリッサが眠っていて、意識のないときにつぶやいた言葉なんですよ。そんなときに、こんなにも詩的で音楽的な言葉をつぶやけるなんて、すばらしいと思いませんか、イェルク様」

「ああ、確かに、すばらしい。クラリッサにそんな才能があるとは気づかなかった」


 エリーゼは目を輝かせてヴィクトールを見上げ、彼もまた、重々しくうなずいている。


 ヴィクトールのことだから、エリーゼが言うことなら何だってすばらしいと思っているのだろう。これでもうケーキの名前は「スチル」に決定したようなものである。


「しかし、寝ているとき、というのはつまり、その、寝言、ということだな」

「ええ。もちろん、殿方に聞いていただくわけにはいきませんから、これからもきっと私が聞くことになると思いますわ。イェルク様」

「そ、そうだな! それがいいだろう! コンラート嬢!」

 なぜかヴィクトールは赤くなって口元を隠している。きっと、エリーゼが寝言を言う場面を想像して赤くなったのだろう。想像、いや、妄想だけでここまで赤くなるなんて、さすが純情馬鹿である。


「イェルク様。よろしければ、喫茶室でスチルの試食もされて行かれますか?」

「それはとても心躍る誘いだが、申し訳ない。午後から商談が入っている。だから、このケーキはクラリッサ」

 ヴィクトールはわたしを見る。

「お前がきっちり味わって、感想を手紙に書いてよこしてくれ。明後日の返事もな」

「ええ。わかったわ」

「明後日?」

 不思議そうにエリーゼが問いかけたところで、交代の売り子たちが戻ってきた。


 ヨーゼフ特製クッキーの詰め合わせをもらって機嫌よく帰るヴィクトールを全員で送り出してから、わたしはエリーゼとコリンナの腕を取る。


 さあ、いよいよ待ちに待ったお昼の時間だ!




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