11話
「ヴィクトール様」
先ほどはつい呼び捨てで呼んでしまったが他のお客様もいる以上、いつものような気安い呼び方は控えるべきだろう。わたしはにやけそうになるのをどうにかこらえて申し訳なさそうな顔を作ると、真っ赤な顔のままのヴィクトールを見上げた。
「昨日はせっかくご来店いただいたのに、急なお休みでご迷惑をおかけしてしまって申し訳ありません」
ゆっくりと頭を下げると「――いや、それはいい」といぶかしげな声がする。
「それより、クラリッサ。お前、本当に大丈夫なのか?」
「ええ。もちろん、このとおり元気ですわ。心配してくださってどうもありがとうございます」
「クラリッサ!」
なぜか彼は驚愕したような顔で詰め寄ってくる。
「一体、どうしたんだ! お前がそんなおとなしげな態度を取るなんて、ありえないだろう、クラリッサ! さあ、正直に言え! 本当は具合が悪いんじゃないか!?」
「まあ、そんなことありませんわ」
「ああ、なんてことだ!」
彼はなぜか大きくため息をつく。
「ここまでひどい状態だとは思ってもみなかった。良い医師を紹介してやるから、今日は帰らせてもらったらどうだ」
「ご親切にありがとうございます、ヴィクトール様。ですが、何度も申し上げていますように、わたしはどこも何ともありませんわ。医師なんて必要ありません」
「何を言うんだ、クラリッサ! どこも何ともないのなら、どうしてこんなに元気がないんだ! 俺がここまで言ったら、いつもならもっと言い返して来るだろう! ああ、まさか、階段から落ちたせいで、お前のふてぶてしさが消えてしまったとでも言うのか!」
「どうか、落ち着いてください、ヴィクトール様。ふてぶてしいだなんて、ずいぶんとひどいことをおっしゃいますのね。わたし、いままであなたに失礼な態度を取ったことなんてありましたかしら。それに、他のお客様のご迷惑になりますので、少しお声を落としていただけるとありがたいですわ」
できるだけ丁寧に言いながらも目で「いいから黙れ」と威嚇すると、ヴィクトールはようやく安心したようにうなずいた。
「ああ、そういうことか。よくわかった。今日のお前は売り子として自らを律しているんだな。お前の自制心もなかなかのものだ。えらいぞ。クラリッサ」
――おい、ヴィクトール。
褒められているのかけなされているのかわからない。しかも、やけに上から目線だ。
わたしは言い返したくなるのをぐっとこらえた。今のわたしは「マルガレーテ」の売り子である。鉄の自制心を持った売り子である。
わたしが引きつった笑顔を浮かべると、ヴィクトールは満足げに微笑んだ。そのまま長椅子に座っている灰色のドレスの婦人に近づいたかと思うと、丁寧に礼を取った。
「失礼いたしました。奥様。お騒がせしてしまって、申し訳ありません」
「いえいえ、いいのよ。気にしないで。こんなにかわいい売り子さんがいたら無理はないもの。若いっていいわねえ」
婦人はころころ笑ってお茶を飲む。途端、ヴィクトールはまた真っ赤になった。
「イェルク様」
エリーゼの澄んだ声に、ヴィクトールは振り返る。
「あ、ああ。な、なんだ、コンラート嬢」
裏返った声で答えるヴィクトールを見て、内心ぐっと拳を握る。エリーゼに話しかけられるだけで声が裏返るなんて、彼はどれだけ動揺しやすいのだろう。
「これからご注文の件について、職人頭に確認してまいりますわ。どうぞ、おかけになってお待ちくださいませ」
「ああ、すまないな。よろしく頼む」
エリーゼは優雅に礼を取り、わたしをちらりと見て身を翻す。その視線が気づかわしげに思えたが、何か気になることでもあるのだろうか。
ヴィクトールに出すお茶を取りに行くのだろう。エリーゼに続いて、コリンナが合図して裏手に姿を消すと、わたしはヴィクトールに長椅子を勧めた。
ヴィクトールとエリーゼのやり取りに萌えたおかげで、怒りも消えて、売り子としての自制心も取り戻せた。あとは接客に集中するだけである。
「ご旅行ですか。奥様」
婦人の隣に腰かけたヴィクトールはゆったりと長い脚を組む。
「ええ。そうなの。こちらで働いている息子を訪ねて観光がてら来たのだけれど、『マルガレーテ』にはぜひ来てみたかったのよ。とてもおいしいケーキって有名だし、甘いものは大好きなの」
「よくわかります。私も甘いものには目がありませんから。いろいろ試してみましたが、こちらのケーキは最高ですよ」
「褒めていただいてうれしいですわ。ヴィクトール様。奥様のお気に召したケーキはありましたかしら」
「そうね。とっても迷うけれど、やっぱり、雲のロールケーキにしようかしら。一度はいただいてみたかったのよね。それから、あのきらきらした木苺のタルトもいただける? 二つずつ、お願いね」
「わかりましたわ。少々お待ちくださいませ」
コリンナがお茶を用意して戻ってきたので、接客を交代してわたしはガラスケースの裏に周る。
「どうぞ。ヴィクトール様。今日のクッキーはヴィクトール様お気に入りの干しぶどうのクッキーですわ」
「ああ、ありがとう。バーレ嬢」
二人のやり取りを聞きながら、頼まれたケーキをガラスケースから丁寧に取り出して箱に詰めようとしたその瞬間、わたしは気づいてしまった。
コリンナや他の売り子たちは常連客であるヴィクトールのことを「ヴィクトール様」と名前で呼ぶ。もちろん、彼がそうしてほしいと言ったからだ。
だが、エリーゼはヴィクトールのことを名字で呼ぶ。これは何もヴィクトールだけに限った話ではない。エリーゼは売り子としてお客様に対してはどんな方であろうと平等に接したいという思いから、すべての客を名字で呼ぶようにしているのである。アルフレートのことだって、客として来るときは名字で呼んでいるのだ。
そして、ヴィクトールもまた、エリーゼのことは名字で呼ぶ。
『コンラート嬢』
どんなにその愛らしい名前を口にしたくとも、「マルガレーテ」の中で彼は決してエリーゼのことを名前では呼べない。なぜなら彼女はこの店の売り子であり、ヴィクトールは常連客とはいえ、彼女にとっては単なる客の一人にすぎないからだ。
周囲にはあくまで客と売り子の関係だと思わせながらも、その実、美しい売り子エリーゼにひそかに思いを寄せ続けるヴィクトール。それに気づかないエリーゼ。
ケーキを買いに来るたびにひとめだけでも会えることを願い、会えたときには万感の思いをこめて「コンラート嬢」と呼んでいるのに、互いが名字で呼ぶ関係を崩せない。
それでも、ヴィクトールは、ただ、彼女の名字を口にする。いつか、必ず、その思いが伝わることを信じて。「エリーゼ」のその愛らしい名前を堂々と呼べる日が来ることを信じて。
――ああ、ぎこちなく、名字同士で呼び合うだけの、このもどかしさ! その切なさ!
その距離感や――よし!
わたしは一度ぐっとこぶしを握って気持ちを落ち着けてから、ケーキを詰める。
ああ、いつか、きっと、ヴィクトールにもエリーゼの名前を絶叫しながら呼ぶ日が来るだろう。
ゲームのファンサイトで彼は「成金馬鹿」以外にも「絶叫ロマンス野郎」と呼ばれていた。彼はロマンス小説によく出てくるヒーローのように、愛の告白は基本的に公衆の面前で絶叫しながら行うからだ。
その場面の声優さんの熱演もすばらしかった。突然絶叫が始まるので、攻略サイトには「音量注意」の表記まであり、ヘッドホンで聞いたわたしは喜びのあまり声を殺して笑い続けたものだった。夜中にあまり人を笑わせないでほしい――ゲームプレイの時間はテンションのおかしな深夜が基本だからだ――近所迷惑になるではないか。
わたしは真っ白な箱に紺色のリボンをかけながら、ゲームのさまざまな絶叫告白場面を思い出す。ヴィクトールが絶叫するのは何も公衆の面前ばかりではない。エリーゼと二人きりのときまで絶叫していた。
『愛している! エリーゼ! 愛している! 愛しているんだ!』
バッドエンドの一つ『愛している』ではエリーゼを監禁した豪華な部屋で「愛している」と叫び続けるヤンデレエンドがあったが、声優さんののどが心配になるほどに彼は絶叫し続けていた。
ファンブックでは『どんなに絶叫してもし足りない! 俺はお前を愛している! 絶叫しながら愛している!』とスチルのあおり文句に書いてあって、やはり声を殺して笑い続けたことも思い出した。
「クラリッサ。ねえ、クラリッサってば」
「――え?」
リボンをかけ終わったところで、コリンナが軽く肩を叩かれる。
「ねえ、本当に大丈夫なの? やけににやにやしているけれど、そんなにおなかがすいているの? そりゃ死んだ目よりはましだけど」
「き、気をつけるわ。ありがとう! コリンナ!」
――危なかった。
最萌えのヴィクトールがいるせいで、妄想が大暴走してしまった。まったく絶叫ロマンス野郎にも困ったものだ。成金馬鹿のせいで、仕事に集中できないではないか。
箱を紙袋に入れて、ヴィクトールと談笑中の婦人のところに持って行く。代金を差し出す婦人は楽しそうに言った。
「どうもありがとう。いただくのがとても楽しみだわ。本当に来てよかったわ。店員さんはみんなかわいらしいし、この方には一人でも楽しめそうな王都の観光名所について、いろいろ教えていただいたのよ」
隣のヴィクトールは軽く頭を下げる。
「お役に立てたのなら何よりです。旅行でいらしたとはいえ、この王都を好きになっていただけたら、私もうれしいですから。さあ、どうぞ、出口までお送りしましょう」
わたしから紙袋を受け取ると、ヴィクトールは立ち上がって女性をエスコートする。
「ありがとうございました。どうか、またいらしてくださいね」
「ええ。今度は息子と喫茶室によらせていただくわ」
扉を開けると、鈴の音が涼やかに鳴った。
ヴィクトールから紙袋を受け取ると、婦人は「しっかりやりなさい」と軽く腕を叩く。途端、彼はなぜか真っ赤になった。
「――どうも」
彼らしくない小声で答えると、婦人は優しく微笑んで石段を下りて行った。
「あの世代のご婦人は、困るな」
ぽつりと、困ったように言う。
「あら、相変わらず女性が苦手なのね。それなのに、あなたまでお客様をもてなしてくださるとは思ってもみなかったわ。どうもありがとう。ヴィクトール」
「気にするな。『マルガレーテ』では常連客ばかり相手にして、新規の客をないがしろにしているらしいと嫌な噂が立ってしまっては俺も困るからな。それより、本当に大丈夫なのか? いくらお前が頑丈だとはいえ、階段から落ちたんだろう? どこにも怪我はなかったのか?」
「ええ。ありがとう。あなたの言うとおり、頑丈だったおかげでしょうね。おかげさまでどこも何ともないのよ」
「本当にそうか?」
不意に彼はからかうような笑みを浮かべる。
「そんな見慣れない格好で、淑やかな態度だと、まるで別人に見えるな」
「つまり、それははかなげでたおやかに見えるということかしら?」
「いや、それだけは絶対にない」
アルフレートに続き、ヴィクトールにまできっぱりと言い切られてしまった。
それは、もちろん、エリーゼのような気品ある淑女のようにはいかないかもしれないが、わたしだって、彼女を見習ってそれなりに努力すれば、多少は――。
考えながら店内を振り返り、コリンナを見る。
「ねえ、コリンナ。エリーゼはまだ戻って来ないの?」
「あら、そういえばあの子ったら遅いわね。何かあったのかしら。お待たせして申し訳ありません。ヴィクトール様。ちょっと、様子を見てまいりますわ」
「いや、気にしないでくれ。バーレ嬢。コンラート嬢にも急がなくてもいいと伝えてくれ」
「ありがとうございます。どうぞ、おかけになってお待ちくださいませ」
ヴィクトールは何やら考え込むような顔をしながら、ゆっくりと長椅子に座る。
「――クラリッサ」
低い声で言って、ポットからお茶のお代わりを注ぐわたしを見上げる。
「お前、いつから売り子としてここで働いていたんだ」
「もちろん、この『マルガレーテ』ができてからずっと売り子として働いているわ。ただ、最近は忙しくてあまりお店に出られなかったけれど」
「俺はここの客の中でも、常連中の常連だぞ。どうしていままで教えてくれなかったんだ」
「どうしてって、いまさら言うことでもないと思っていたのよ。当然知っているものだと思っていたんだもの」
「俺が知るわけないだろう! 俺は一度だってお前に接客をされるどころか、その制服姿を見たこともなかったんだぞ!」
彼は苛立たしげに言い、カップを手にする。
「――そういえば、そうだったかしら」
何も意図してそうなったわけではない。たまたま、ヴィクトールが来店したときに限ってわたしがいないときだったり、裏で他の仕事をしているときだったのだ。それもあとで、『今日はイェルク様がいらしていたわよ。これとこれとこれを買って行かれたわ』とエリーゼが教えてくれたから、知っていたのである。おかげで園遊会やお茶会、舞踏会で彼と会うたびに「いつも来店ありがとう」とお礼を言うことができたのだ。
「でも、店主の娘が接客しなくたって、別に問題ないでしょう? ここではわたしだって売り子の一人だし、自分で言うのも何だけれど、うちの売り子の接客はわたし以上に皆すばらしいと思っているもの」
「むろん、それに異論はない。可能なら、うちの従業員に引き抜きたいくらいだ」
「それはだめ!」
わたしは思わず強く言う。
「そんなのだめよ。一人だって、うちの売り子は引き抜かせないわ。もちろん、お金に飽かせたってだめよ」
ヴィクトールは真顔でわたしを見上げる。
「それは、よくわかっている。金で手に入るのなら、そんなに簡単なことなら、とっくにそうしている」
彼は静かに言って、なぜかカップの中の紅茶をにらみつけるように見る。
「――ベルヴァルト」
「ええ。もちろん、ベルヴァルトの紅茶よ」
「違う! 紅茶じゃない! 紅茶ではないベルヴァルトのことだが」
「アルフレートがどうかしたの?」
「当然、奴はお前がここで売り子をしていることは知っていたんだろう?」
「ええ。もちろんよ。今日も顔を出すとは言っていたけれど、いつ来るかはわからないわ。アルフレートに用事があるの?」
ヴィクトールはクッキーを一枚手に取り、かみしめるように食べる。
「まさか、今日も一緒に店に来たのか?」
「いいえ。馬車は別だったわ。アルフレートは自分の馬車でベルヴァルトのお店に行ったもの」
「――つまり、ベルヴァルトはお前の屋敷にいたのか?」
「ええ。昨日はお見舞いに来てくれたの。遅くなったから泊まって行ってもらったのよ。ああ、そういえば、ヨーゼフから聞いたわ。ヴィクトールもわざわざ来てくれようとしたんでしょう? ありがとう」
何か言いかけたようなヴィクトールは「いや」とつぶやくように言い、クッキーをかじる。
「それなら、もしも、いつか、また、何かあったら、俺も見舞いに行ってもいいか?」
「ええ。もちろんよ。けれど、もう、そんな機会はないのではないかしら。わたし、かなり頑丈だもの」
「それは――まあ、そうだな。その方が、いい」
はっきりしない言い方のヴィクトールにわたしはふと思い至る。お見舞いに行きたいというのはわたしのことではなく、エリーゼのことなのではないか。昨日だって本当はそれを心配して、動揺したのかもしれない。
そういえば、ゲームではどのルートでもお見舞いイベントがあったが、それはエリーゼが風邪で寝込んだり、怪我をしてしまったりすることが前提だった。
そのイベントはできれば見たくないな、とは思う。
ゲームでは大変萌えたものの、実際にあったら萌えるところではない。そんなことになったらエリーゼが心配でたまらなくなるだろう。
そこまで考えて、わたしはふと、裏手を振り返る。エリーゼもコリンナもまだ戻って来ない。厨房にいるヨーゼフに注文の確認に行っただけのはずなのに、いくら何でも遅すぎないだろうか。何かあったのか気になるが、客であるヴィクトールを放り出して、彼女たちを呼びに行くわけにもいかない。
「ところで、クラリッサ。その、お前の制服姿を見て、思ったんだが」
「ええ」
何かおかしなところでもあるのだろうかと、わたしは思わずエプロンの裾を引っ張る。
「明後日、屋敷に商談で東洋からの客が来るんだ。そのためにケーキを注文したんだが、お前も屋敷に来てくれないか?」
「わたし?」
「ああ。もちろん、店にはうちの馬車を向かわせるし、使用人に運ばせる。お前はケーキと一緒にその身一つで来てくれればいい。お前にはただ、客と一緒にお茶を飲みながら、ケーキを振る舞ってほしいんだ。相手は東洋でも有名な商人だが、こういった菓子を初めて食べる客ばかりだからな。お前の話で興味を持てばこの店にも足を運ぶだろう。さらにうまくいけば、東洋からの旅行客もこの店に来る。保存の効く菓子なら、東洋に『マルガレーテ』の菓子も伝わるかもしれない」
「そうね。とても良い案だと思うけれど、わたしでいいのかしら」
「お前がいい」
ヴィクトールは真剣な顔で言い、目を伏せる。
「その、制服姿のお前なら、店の雰囲気も伝わるだろう。しかも、お前は店主の娘だ。店主の娘が同席するのなら、相手の心象も良いと思う。お前にとっても悪い話ではない。それに、客は東洋からの土産も持ってくるらしい。中には珍しい菓子もある。――なあ、クラリッサ」
ヴィクトールは目を上げて、不敵な笑みを浮かべた。
「お前、ゲッペイという菓子を知っているか?」