10話
「ありがとうございました!」
ガラス扉が閉まり、軽やかな鈴の音がする。「マルガレーテ」に訪れたお昼前の最後の客は若い母親と小さな女の子の親子連れだった。ガラスケースに並ぶ色とりどりのケーキに目を輝かせて見入り、あれこれと迷いながらケーキを買ってもらって、うれしそうに箱を抱えて帰る女の子の姿が愛らしく、かわいらしく、売り子全員で笑顔で手を振って送り出した。
全員と言っても、今店内にいるのはわたしとエリーゼ、コリンナの三人である。
わたしは何気なく壁にかかった時計を見上げる。
ただいま十二時十五分。先にお昼休みに行った他の売り子たちが戻ってくるのは十三時である。お昼時は客足が途絶えがちになるとはいえ、残り四十五分間、この耐え難い空腹感を抱えながら仕事をしなければならない。
少しでも気を抜くと、ついガラスケースの中に並ぶケーキに見入ってしまう。厨房から漂ってくる甘い匂いに包まれながら、おいしそうなケーキに取り囲まれている職場というのは天国のようで時として地獄にもなる。
今日のお昼は何だろう。ヨーゼフはお昼のデザートに好きなケーキを焼いてくれると言ってくれたが、自分ではとても選べそうになかったため、あえて任せることにした。何が出てくるのかわからない、というのもそれはそれで楽しみなのである。
「ねえ、クラリッサ。やっぱり先にお昼に行った方がよかったのではない?」
ヨーゼフは一体どんなケーキを焼いてくれたのだろうかと考えていると、エリーゼが心配そうにわたしを見る。
「あら、どうして? せっかくなのだし、エリーゼやコリンナと一緒にお昼を取りたいと思ったのだけれど」
「ええ。それはもちろん、私だってそうしたいわ。けれど、なんだか、とても、元気がなさそうなんだもの」
「そんなあいまいな言い方ではだめよ。エリーゼ。つまり、クラリッサ。あなた、目が死んでいるのよ」
コリンナがきっぱりと言って、花の形の手鏡をつきつけてくる。
「えっ!?」
まさかコリンナにまで言われるとは思ってもみなかった。鏡の中から見返す目は、確かにうつろな目になっている。
「もちろん、お客様がいるときはきちんと笑顔を作れているわ。けれど、いなくなった途端、あなた、目が死んでしまうのよ!」
「――ごめんなさい。わたし、売り子としての自覚が足りなかったわ」
わたしは軽く両手で頬を叩くと、笑顔を作る。
「これでいいかしら」
「まあ、とってもかわいいわ。クラリッサ」
エリーゼは微笑んでくれたが、コリンナは不満げに顎に手を当てる。
「そうね。目が多少死んでるけれど、いくらかましになったわ。あなたも年頃の女の子なんだから、おなかがすいたくらいでそんな顔をしてはだめよ。いつも気合を入れておかなくちゃ。ほら、エリーゼ。あなたもよ」
「わ、私?」
「あら、エリーゼはずっと笑顔だったでしょう」
わたしは思わず反論する。昨日早くお店を閉めたせいかお店を開けてからは目が回るように忙しく、ケースの中のケーキもあっという間になくなっていった。それなのに、どんなに忙しくても、慌てずに落ち着いて、エリーゼはにこやかな表情を保ち続けていた。こうしてお客がいないときでもずっと笑顔で居続けられるなんて、売り子の鏡である。わたしも見習わなければならない。
「いいえ。違うわ。エリーゼの顔は笑顔であって笑顔ではないの。今日のあなたは浮かれすぎているわ。エリーゼ。いくらクラリッサがいるからって今朝から顔が緩みっぱなしなんだもの」
「ご、ごめんなさい。自分でも気をつけているつもりだったのだけれど、やっぱり顔に出ていたのね」
落ち込んだように、エリーゼは顔をうつむける。
「でも、やっぱりだめだわ。楽しくて、楽しくて顔が勝手に笑ってしまうの。どうしたらいいのかしら」
「それなら、にやにやではなく、引き締まった笑顔になさい。ほら、これを貸してあげるから」
エリーゼが手鏡をのぞきこみながら笑顔の練習をする間、コリンナに問いかける。
「ねえ、コリンナ。この鏡かわいいわね。どこで買ったの?」
花の形の手鏡は手のひらに収まる大きさで、色も淡い紫でかわいらしい。
「ああ、これは――」
言いかけたコリンナは軽く首を傾ける。
「あら、お客様?」
エリーゼは即座にコリンナに鏡を返し、わたしは姿勢を正してガラス扉を見た。
扉から続く石段の先で深緑色の帽子をかぶった婦人がそっとお店をのぞきこんでいる。
「旅行者の方かしら。わたしが行ってもいい?」
「もちろんよ。クラリッサ」
「しっかり引っ張ってきて! 逃がしちゃだめよ!」
残念ながら「マルガレーテ」の外観は時として人を怖がらせることもある。いかにも高級そうな店に見えるため入るのをあきらめて帰ってしまうお客様もいるのだ。もちろん、せっかく来てくださったお客様を帰らせるわけにはいかない。こういう時こそ、わたしたち売り子の出番である。
「いらっしゃいませ」
ガラス扉を開けて笑顔で声をかけると中年の婦人は恥ずかしそうな笑みを浮かべる。
「あの、少しだけ、見せていただいてもいいのかしら」
「もちろんですわ。どうぞお入りください」
わたしはガラス扉を大きく開き、「さあ、どうぞ」ともう一度声をかける。
「いらっしゃいませ」
売り子たちの明るい声が響く中、店内に足を踏み入れた婦人はぱちぱちと戸惑ったように瞬きをする。
「あ、あの、私、こんな恰好で、場違いではないかしら」
婦人は落ち着きなく、灰色のドレスを見下ろしている。簡素だが落ち着いたデザインのきれいなドレスだった。
「まあ、とんでもありませんわ。素敵なドレスをお召しになっているではありませんか。それに、ここはただのケーキ屋ですもの」
「ただのケーキ屋にはちょっと思えないわね。まるでどこかのお屋敷のようだわ」
あっけにとられたように店内を見回す婦人の気持ちがわからないでもない。
元は高級レストランだった店を改装しているのだから、「マルガレーテ」は確かにただのケーキ屋には見えない内装になっている。吹き抜けの天井は高く、窓を大きくとってあるため、店内はいつも明るい。上品な金とクリーム色の壁紙の貼られた壁にはいくつか絵画も飾られていて、足元の薔薇模様の刺繍入りの赤の絨毯はふかふかしている。
「昨日、田舎から出てきたの。知り合いがここのケーキはおいしいって話していて一度来てみるのが夢だったんだけれど」
「まあ、ありがとうございます。来てくださってうれしいですわ」
わたしはにっこり笑う。「マルガレーテ」のケーキを褒めてもらえるのはいつだってうれしい。
「さあ、お近くでご覧になってください」
常時三十種類以上の色とりどりのケーキが並ぶガラスケースはマルガレーテの自慢である。
「まあ、きれい。まるでお花畑のようなケーキねえ」
素直な賛辞にさらにわたしは笑顔になる。
「ありがとうございます。職人たちが喜びますわ」
「勇気を出して入ってよかったわ。本当はね。昨日来たのだけれど、お休みだったようだから」
「まあ、申し訳ありません。昨日は諸事情で早くお店を閉めていたんです」
「王都で働く息子を訪ねてきたのだけれど、こんな大きな街を一人で観光するって言ってもねえ。けれど、このお店だけには必ず来ようと思っていたのよ。今日は息子へのお土産にケーキを買って行こうと思ってね。どれがいいかしら」
「そうですね。わたしのお勧めは雲のロールケーキですけれど、きっと、お好みもあるでしょう。ゆっくりとご覧になって、お好きなケーキを選ばれたらいいですわ。よろしければ、おかけになってご覧ください。今、お茶をお持ちしますわね」
「ま、まあ、そんなことまでしていただいてもいいのかしら」
「ええ。よろしければ召し上がって行ってください」
店内が込み合っていないときは、喫茶室とは別にサービスでお茶を振る舞うこともある。ガラスケースのよく見える長椅子を勧めて、わたしは裏手に入る。
厨房で手早くお茶の用意をして、盆を片手にお店に戻ろうとしたとき「急で申し訳ないが、ケーキを注文したい」と耳に快い声が聞こえた。
わたしは息をのむ。
姿を見ないでも声だけでわかる。
――最萌えの成金馬鹿。ヴィクトール・イェルク!
「明後日、屋敷に届けてもらいたいんだが、可能だろうか。かなり大量になるんだが」
声が! この声が!
わたしは思わずぐっと盆を握りしめる。
――美声! 超美声! しかも肉声! 生の声!
いままでは普通に聞けていたはずなのに、記憶が戻ってしまった今、やはりわたしは正気を保つことができない。
ヴィクトールはいつも尊大で上からの物言いなのに、なぜか腹立たしさを感じさせない。どこか声に甘さがあるのだ。深みがあって、響きがきれいで、ベストエンドの彼の声と言ったら、甘いなんてものではなかった。あのときの盛大な愛の告白なんて、思い出すだけで床をばんばん叩きながら転がりたくなる。
前世の倉田理沙だった頃のわたしは成金馬鹿ことヴィクトール本人だけではなく、彼を演じた声優さんの声にもはまった。
だが、成金馬鹿の声を当てた声優さんは乙女ゲーム出演はめったにしない方だった。それでも彼の声がもっと聴きたかったわたしは、ついにあらすじしか知らない少女漫画のドラマCDにさえ手を出したのだが、さすが声優さんだった。いくらかっこよくても、ヴィクトールではなかった。やはり、わたしは声優さんの声ではなく、ヴィクトールが好きだったのだ。ヴィクトールだから好きだったのだ。
そのドラマCDを聞きながら――そのCDをきっかけに少女漫画にもはまったので結果オーライだったが――わたしは最愛で最萌えの成金馬鹿、ヴィクトールへの愛をさらに深めたのである。
そんな切なくも懐かしい思い出に涙しそうになりながら、そっと店内を見てみる。
背が高く、威圧感を感じさせる立ち姿。赤褐色の髪に褐色の瞳。顔が怖いと皆から言われるだけあっていかめしい顔立ちだが、それでもやはり整っているし、笑えば案外かわいいことをゲームのスチルだけではなく、実際に見て知っている。
その彼が、エリーゼと一緒にいる。しかも――売り子姿のエリーゼと!
「職人頭に確認してまいりますわ。イェルク様。品物はいかがいたしましょう」
エリーゼが答えると、ヴィクトールは考え込むように顎に手を当てる。
「まずは、雲のロールケーキ二十本。それから、客人に茶の時間に出すケーキを。――そうだな。木苺のタルト、りんごのシブースト、苺のクリームケーキ、チョコレートケーキ、それから、ナッツのケーキ、これを一台ずつ、お願いできるか。あとは土産物用の焼き菓子の詰め合わせも三つ、いつものように用意してほしい」
「わかりました。どうぞおかけになってお待ちください」
ああ、なんてお似合いの二人なんだろう。微笑んで見上げるエリーゼの顔。見下ろすヴィクトールの顔も満たされたように穏やかだ。
そういえば、ゲームでは無理やりヴィクトールの婚約者にさせられたエリーゼがわけあってメイド姿になり、彼を驚かせるイベントがあった。メイド姿の彼女を見た途端、彼は真っ赤になり、動揺しすぎたあげく、「おまっ。どうっ」というような言葉にならない言葉を発しながら勢いよく転んでしまう。動揺しながらもなんとか起き上がって、照れ隠しに怒りながらも、ひたすら照れ続ける成金馬鹿は最高だった。さすがに売り子姿のエリーゼには何度も会っているだろうから、いまさら動揺しないのかもしれない。初対面ではうろたえたかもしれないが、あいにく、見る機会はなかった。
そんなことを妄想しながら二人に見惚れていたわたしはようやく我に返る。今は接客の途中だった。妄想にふけっている場合ではない。
わたしはガラスケースの横を通って、盆を片手に長椅子に向かう。
「ああ。いや、待ってくれ。その」
なぜかヴィクトールがエリーゼを引き留めている。
「どうかなさいましたか。イェルク様」
ヴィクトールは咳払いを繰り返す。これは確か、何か都合の悪いことや気まずいことを聞くときの癖だった。
うっとりとケーキを見つめている婦人の前の小さなテーブルにカップを置く。小皿には今朝ヨーゼフが焼いてくれた干しぶどうのクッキーを添えた。
「まあ、いい香りね」
「ありがとうございます。ベルヴァルトの紅茶ですわ」
「あら、まあ、あのベルヴァルト? 確か、こちらの喫茶室ではベルヴァルトの紅茶もいただけるのよね。お隣の奥さんがそれはもうおいしかったって」
「ええ。紅茶も当店のケーキも自信を持ってお勧めしておりますわ。もしもお気に召したら、今度は喫茶室にもいらしてください」
「――クラリッサ?」
ヴィクトールのかすれた声に、わたしは振り返る。
目が合うと、彼の褐色の瞳は驚愕したように見開かれる。
「いらっしゃいませ。ヴィクトール・イェルク様」
わたしは微笑もうとして不自然ににやけそうになった顔を隠すため、わざと気取ったお辞儀をする。
顔を上げると、ヴィクトールはなぜか真っ赤になっていた。
「おまっ! なんっ! どうっ! なんっ!」
勢いよく歩き出したかと思うと、彼はそのままの勢いで盛大に転んだ。
「だ、大丈夫!? ヴィクトール!」
わたしはドレスをさばいてかがみこむ。
「――あ、ああ。大丈夫。いや、大丈夫じゃない。むろん、大丈夫だが、大丈夫というほどのことでも――」
「何を言っているのかぜんぜんわからないわ。本当に大丈夫なの? 起きられる?」
「起きられる! 起きられるが、お前、そうだ、お前! お前が悪いんだろう! お前、なんでこんなところにいるんだ。驚くじゃないか!」
なんとか起き上がったヴィクトールは顔に手を当てたまま、気まずげに目をそらす。耳まで真っ赤になっている。
コリンナの吹き出すような声が聞こえる。
――ああ、なんて。
なんて純情なんだろう。
わたしは床をばんばん叩きながら転がりたい衝動にかられる。
さすがゲーム一の純情男だと評された成金馬鹿ヴィクトール。ゲームでは金に飽かせてエリーゼと無理やり婚約しながらも、指一本触れることなく、ささいなことで赤くなっていた彼もやはり変わらなかった。いや、変わらないどころか、ゲームよりも純情度が上がっている。
だいたい、エリーゼと話しているところを知り合いに見られたくらいで、ここまで赤くなるなんて、純情なんてものではない。成金馬鹿と呼ぶよりも純情馬鹿と呼ぶ方がふさわしいかもしれない。
もっとも、それも仕方がないのかもしれない。エリーゼの売り子姿はメイド姿以上に愛らしいのである。恋に落ちない方がおかしいのだ。
だが、これで間違いない。
わたしは確信しながらも、にやけるのを我慢するため、頬の内側をかむ。
ヴィクトールはもう、とっくにエリーゼに恋していたのだ。