9話
「マルガレーテ」の従業員は開店前にお茶をすることになっている。
菓子職人たちは早朝に出勤するから朝のお茶は朝食代わりになるし、事務員や売り子たちだってここで朝食にする者も多いのである。
わたしはもちろん朝食も取るし、お店でもお菓子を食べることにしている。大皿に盛られたお菓子は日によって変わる。お客様には出せないような型崩れしたマドレーヌやバームクーヘンなどの焼き菓子、時には試作品のケーキが並べられることもある。
「クラリッサ。いつもの勢いがないみたいだけど、本当に元気になったの?」
売り子のコリンナがお茶のお代わりを注いでくれる。
「そのくらいの大きさのマドレーヌ、いつもなら軽く五つは食べてるでしょう?」
「今朝は朝食をたくさんいただいただけよ。食欲がないわけではないの」
言いながらも、わたしは二つ目のマドレーヌを手に取る。
わたしが元気がどうかの基準は食べる速さと量なのだろうか。食堂に入って、まず、皆に心配をかけたことを謝ったところ、「いいから、食べてください」と言われたのでおとなしくテーブルについた。久々のマドレーヌを味わおうとゆっくり食べていたら、なぜか皆から心配そうな目を向けられたので、慌てて一つ目を食べきった。途端に、皆安心したようにおしゃべりを再開し、エリーゼは食べるのもそこそこに立ち上がって新作ケーキ「スチル」について力説し始めた。
「それでね! クラリッサが言ったの! スチルって!」
「スチル!?」
「何それ!? どういう意味? 初めて聞く言葉だわ!」
「ぜんぜんわからないでしょう? けれど、そこがいいの! 私、その言葉の響きにとっても感動したんだもの! なんて音楽的な響きなのかしらって! さすがクラリッサだわ!」
「マルガレーテ」にいるときのエリーゼはとても熱い。両手に拳を握って売り子たちに「スチル」を力説している彼女を止めるのは早々に諦めて、わたしは二つ目のマドレーヌを食べきった。このままでは勿忘草のケーキの名前は「スチル」に決定してしまうかもしれない。
「コリンナももっと食べたらいいのに」
「言わないで、クラリッサ。私、また太ったのよね」
コリンナはため息をついて首を振る。
「そんなことないわ。ちょうどいい体型に見えるけれど」
「いいえ。これ以上おなかに肉がついたら、制服が入らなくなってしまうわ。ルーカスに喜ばれるなんてごめんだし。あ、ねえ、そういえば、ヨーゼフさんから聞いた? 昨日、閉店後にヴィクトール様が来られたのよ」
「ヴィクトールが?」
「ええ。そうなんです。さあ、お嬢さん。これも召し上がってください」
ヨーゼフはわたしの前に新しい皿を置く。焼き立ての甘い匂いに、わたしは思わず笑顔になる。ヨーゼフ特製の干しぶどう入りのクッキーだ。
「ほら、コリンナも食っておきな。我慢は体に毒だぞ」
「だって、ヨーゼフさん。私、これ以上食べたら――ああ、でも、おいしそうな匂い!」
コリンナはぎゅっと目を閉じてしまった。
「イェルクの若旦那は早々に店じまいしたのを驚かれたのか、わざわざ裏口まで来られましてね。そのとき、ちょうどルーカスがいたんですよ。な、ルーカス」
大皿を持った職人のルーカスが困ったように笑う。
「お嬢さん、すみません。俺、最初はお嬢さんのことしゃべるつもりなかったんですよ。そうしたら、えらく殺気立って、この店が臨時休業なんて、めったなことじゃありえない。店主かお嬢さんに何かがあったとしか考えられない、どうなんだってつかみかかってくるから、ついしゃべっちまったんですよ。あの人、顔、怖いじゃないですか。俺、殺されるかと思いましたよ。しゃべったらしゃべったで、それこそすごい怖い顔になるし。あの人、顔怖すぎですよ」
「ああ、確かにあの人、目つき悪いもんね。まあ、でも顔がいいからいいんじゃない?」
「はあっ!? コリンナさん、ああいう人が好みなんですか!?」
「そんなわけないでしょ。単に顔がいいってだけの話。だいたい、本命が決まってる人にちょっかい出すような面倒な趣味はないわ。ねえ、クラリッサ」
コリンナは目を開けて、おそるおそるクッキーをつまむ。わたしもまだ温かいクッキーをつまみながら、「そうね」とうなずく。
ヴィクトール・イェルク。
「マルガレーテ」の常連であり、「マルガレーテ」のケーキを愛してやまない青年。成り上がり仲間でもある彼は、名門貴族の並ぶ中いかに成り上がりの自分たちがのし上がっていくかについて、熱い議論を交わして来た仲でもあった。名門貴族であることに反発しているのか、アルフレートとは昔から仲が悪い。
もちろん、ゲームにおいて、攻略対象の一人でもある。
そういえば、ヴィクトールはエリーゼとはどんな関係だっただろう。お店ではいつもエリーゼに接客されているようだが、名前で呼ばれるどころか単に「イェルク様」と呼ばれているし、彼女からヴィクトールの話を聞いたことがない。これはあとで、エリーゼにも確認してみよう。
いままではただのケーキ好きの好青年だと思っていたが――マルガレーテのケーキが好きだと言ってくれる人は、誰だって好青年だ――記憶が戻った今、彼を思い出すと、なんだか、落ち着かなくなる。
ヴィクトールはわたしの最萌えであり、最愛の成金馬鹿だったからだ。エリーゼと二人で並んだ姿を見たら、正気を保つ自信はない。つい、「成金馬鹿!」と叫んでしまったら、どうしよう。
わたしは落ち着こうと干しぶどう入りのクッキーを味わった。干しぶどうの甘さとしっとりとした生地が絶妙に合わさって、さくさくとしたクッキーとは別のおいしさがある。
これは、いけない。やめられない。止まらない。コリンナも「手が! 手が勝手に!」と言いながら、二枚目を手に取っている。
「それで、ルーカス。ヴィクトールは納得して、そのまま帰ってくれたの?」
「いや、それが、そのまま屋敷にまで行きそうな勢いだったんで、それはさすがにまずいってんで必死で止めてたら、ヨーゼフさんが出てきてくれて」
ルーカスはヨーゼフを見る。
「ええ。お嬢さんの容体がわかったらすぐに知らせを送るっていうことで、どうにか説得して、お帰りいただいたんです。もちろん、すぐにお嬢さんの無事の知らせを送りましたが、まだ心配されているかもしれません。もし、今日イェルクの若旦那が来られたら、声をかけて差し上げるといいですよ」
「ええ。そうするわ。ありがとう」
ヴィクトールがそんなにも心配をしてくれるとは思わなかった。彼はわたしの心配だけではなく、「マルガレーテ」のケーキが食べられないショックで、そんな行動に出たのかもしれないが、それはそれでありがたい。もしも、今日来てくれたら、お礼を言っておこう。
「コリンナさん。そんなに我慢しなくても、遠慮せずにいっぱい食べればいいじゃないですか。まだまだいっぱいあるんですから。食べて食べて、ふっかふかになればいいですよ」
テーブルに大皿を置いたルーカスにコリンナは冷たい目を向ける。
「ちょっと何言ってんの。ルーカス。誰にぶくぶくに太れって?」
「そんなに怒らないでくださいよ。コリンナさん。ぶくぶくじゃなくて、ふっかふかです。だって、女の人はぽっちゃりしていた方がかわいいじゃないですか! みんなやせすぎなんですって!」
「あんたの好みなんて心底どうだっていいわ。これ以上、誘惑しないでちょうだい」
「平気、平気。このくらい食べたくらいじゃ、太らないですよ! クラリッサさんに比べたら、ぜんぜん食べてないじゃないですか!」
「私はクラリッサとは違うのよ。この子、どれだけ食べても太らないんだから」
「だから、思う存分食って、太ればいいじゃないですか!」
「ちょっと店長! ルーカスの歪んだ趣味をどうにかしてください!」
ついにコリンナが立ち上がり、テーブルの端の定位置で新聞を読みふける父さんに助けを求めた。
「うーん。それはルーカスが悪いな。体型や髪の量で人の好みを左右しちゃいかんなあ」
父さんは新聞を畳んで、両腕を組む。
「だって、店長! 女の子は丸っこい方がかわいいじゃないですか!」
「ルーカス。愛していれば、体型も髪の量も問題はない。今もマルガレーテが生きていたとして、どれだけやせようが、太ろうが、私の愛に変わりはないからな。マルガレーテだって、私の髪がなくなったとしても愛してくれていたはずだ」
父さんがきっぱり言うと一斉に拍手が上がった。
「さすが店長! 愛妻の名前を店名にされるだけのことはあります!」
「一途っすね!」
「マルガレーテよ! 永遠に!」
やいのやいの野次が上がる中、父さんはふと真顔になった。
「だが、そうだなあ。今でこそ笑って言えるが、私は一度、この店を畳もうとしたことがあったんだよ。もし、畳んでいたら、マルガレーテを裏切っていたことになっただろうなあ」
「お父様。さっきヨーゼフも言っていたけれど、そんなことあったかしら」
「あの頃、お前は小さかったからな。クラリッサ。だが、小さかったお前のおかげで、私は店を続けようと思ったんだよ」
興味津々で聞き入っている皆の様子に、父さんは少し照れくさそうな顔になる。
「ええと、話せば長くなるんだが、皆、いいのか? 年寄の昔話なんて、面白くないだろうに」
「そんなことはありませんよ。開店にはまだ時間があるし、たまには昔話もいいんじゃありませんか。親方」
ヨーゼフが言うと、父さんは懐かしそうな笑みを浮かべる。
「そうだな。じゃあ、皆、聞いてくれるか。皆も知っての通り、この『マルガレーテ』の店の名前は、妻の名前から取ったものだ。当時私は弟子入りしていたパン屋から独立したばかりで、親方の伝手で街の外れにあった古いパン屋を買い取って、そのまま店を開いたんだ。店の名前は『マルガレーテ』。妻は恥ずかしいと言ったが、私は譲れなかった。自分の店の名は妻の名前にすることが昔からの夢だったんだ。店が軌道に乗るまで、妻にはとても苦労をかけた。小さな店とはいえ、妻と二人、通いの店員の一人だけでは負担が大きかったことだろう。それでもやがて、店はそこそこ繁盛し始め、やがてクラリッサが生まれた。私は幸せだった。とても幸せだった。好きな仕事をして、愛する家族も傍にいる。こんなに幸せでいいんだろうか。いつもそう思っていた。そんな矢先だった。妻が病で倒れたんだ」
父さんは思わず、と言った風に片手で目を覆う。
「妻は、ずっと、体調が悪いことを隠していた。私はそれを後で知った。医師に診せたが、もう、手遅れだった。どうしようもなかった。やがて妻は亡くなり、私は店を閉めた。妻がいないのに、『マルガレーテ』を続けても仕方がない。そう思っていたんだ。そんなとき、クラリッサが言ったんだ。
『父さん。お母さんが夢の中でケーキを作ってくれたんだよ。それで、母さんと一緒に食べたの。とてもおいしいケーキだったよ。そのケーキをヨーゼフに作ってもらったから、一緒に食べよう』私は精一杯笑っているクラリッサの顔を見た。こんな小さな娘が泣くのを我慢して笑っているのに、私は何をしていたのかと思った。クラリッサはこうも言った。
『あのね。夢の中で、母さんが、こんなにおいしいケーキは父さんにも食べてもらいなさいって。とてもおいしいから、食べたらきっと幸せになれるわってそう言ってたんだよ。ね、ヨーゼフ。このケーキはとってもおいしいんだよね』
そう笑うんだ。食べることも忘れていた私は、抵抗する気力もなかった。黙って、そのケーキを口に運んだ。私は驚いた。こんなおいしいケーキはいままで食べたことがなかった。スポンジはそれは柔らかく、泡立てたクリームがたっぷり入っていて、私は夢中で食べてしまった。おいしかった。本当においしかった。マルガレーテがもういないのに、それでも、とてもおいしいと思ってしまったんだ」
わたしは父さんの言う夢の話を思い出していた。
幼い頃見た、淡い、幸せな夢が目の前に浮かぶ。
――お母さんが夢の中でケーキを作ってくれて。
倉田理沙のお母さんはケーキ作りが得意だった。わたしはお母さんの作るケーキが大好きだった。十八番だったのはふわふわしたクリームのたっぷり入ったロールケーキ。誕生日、入学式、クリスマス、何か特別なことがあれば、必ず作ってくれていた。
クラリッサの母さんが亡くなって、わたしはとても悲しかった。泣きながら眠ったときに夢を見た。
泣いていると、頭をなでられた。
『どうしたの。泣かないで。これからおいしいケーキを食べるのよ』
柔らかな手は母さんだ。クラリッサの母さん、マルガレーテはおっとりと微笑んでいる。
『ケーキ?』
『そう。あなたのお母さんが作ってくれるの』
『お母さん? 母さんは目の前にいるでしょう?』
『はい。どうぞ』
テーブルにお皿を置いたのは、倉田理沙のお母さんだった。
『お母さん。お母さん。お母さん』
ああ、そうだ。わたしにはもう一人お母さんがいるのだ。どうして忘れていたんだろう。
『まあまあ、どうしたの。ほら、泣いてないで、食べなさい』
泣きながらお母さんと母さんと一緒に食べたロールケーキはふんわりと甘くて、とてもおいしかった。
『ねえ、クラリッサ。これを父さんにも食べさせてあげて。きっと元気になるわ。とってもおいしいんだもの』
クラリッサの母さんがわたしの髪をまたなでる。
『うん。母さん』
『しっかり寝て、食べたら、たいていのことはうまくいくから、大丈夫だよ。また作ってあげるから』
倉田理沙のお母さんが、大きく切ったケーキを差し出してくれる。
わたしはまたケーキを食べた。たくさん食べて、おなかがいっぱいになって目が覚めた。
目が覚めたら涙も渇いていた。あのケーキの味を思い出すと、にっこり笑顔が浮かんだ。
それからヨーゼフの元に走った。通いの店員だったヨーゼフは父さんが「マルガレーテ」を閉めてしまってからも、心配して、毎日お店に来てくれていた。
わたしは夢の話をして、精一杯、ケーキの説明をした。つたない説明だったのに、ヨーゼフは「俺がなんとかしましょう」と言ってくれて、そうして、お母さんの作ったケーキそのままの味で作ってくれたのだ。
――ああ、そうだ。
ようやくわかった。あれは倉田理沙の「お母さん」が作ってくれて、クラリッサの「母さん」と食べたケーキだったのだ。
「そのケーキを食べて、私はもう一度『マルガレーテ』を再開しようと思った。この味を、このおいしさを、この幸せを誰かに伝えたくなったんだ。あの頃の『マルガレーテ』はパン屋とお菓子屋を兼ねていたが、パンはやめて、お菓子を主軸に売ることにした。あのケーキ、雲のロールケーキは飛ぶように売れた。いつしか行列ができるほどに売れるようになった。やがて、この店に移転し、ついには支店も出すことになった。娘があの夢を見なければ、夢を見て、ケーキを私に食べさせようと思わなければ、今の私もなかったし、この店もなかっただろう。むろん、ヨーゼフや皆の協力があってこそだが、私は今も思う。妻や娘があってこその『マルガレーテ』なのだ。この店で働いてくれている皆も『マルガレーテ』を愛してくれているのだろう。これからも、この店と菓子を愛して、お客様たちに幸せを伝えて行ってもらいたい。いや、思ったより、長くなったな。つまらん話をした」
とたんに拍手が沸き起こり、父さんは手で顔をこすると、照れたように顔をうつむける。
――ああ、そうか。
『マルガレーテ』が続いたのは倉田理沙の「お母さん」とクラリッサの「母さん」のおかげだったのだ。
「親方。良いお話をありがとうございました。では、お嬢さん。せっかくだし、久々に景気づけをしてもらいましょうか」
ヨーゼフに促されて、わたしは立ち上がる。景気づけは父さんが元気がなかったときに、ヨーゼフと三人で毎朝毎晩、行ってきたことだ。
たとえ、記憶がなくとも、思い出せなくても、行動には影響するのだろうか。
「昨日はご心配をかけてしまって、ごめんなさい」
わたしはゆっくりと頭を下げる。顔を上げると、エリーゼと目が合った。なぜか泣き出しそうな顔になっている。
「わたしも父さんの言う通り、このお店は皆さんの『マルガレーテ』への愛で成り立っているのだと思います。わたしもこのお店とお菓子が大好きで、皆さんのことも大好きです」
エリーゼがうなずいて、微笑む。
「それでは、皆さん、今日も一日張り切ってがんばりましょう! はい、皆さん、行きますよ!」
わたしが右手をぐっと握ると、皆も同じように握りこむ。
「えい、えい、おー!!!!」
『えい、えい、おー!!!!』
野太い声と元気の良い声がそれに応じる。エリーゼがとても良い笑顔になっている。
「えい、えい、おー!!!」
景気づけは倉田理沙だった頃、勤めていた会社の朝礼で行っていた。御年70の熱血社長が行っていたのだが、元気が出るからわたしは結構好きだった。
三度繰り返して、なぜかまた拍手が起こる中、景気づけは終わった。
エリーゼがエプロンを片手に駆け寄ってくる。
小さく勿忘草の刺繍が入ったフリルのたっぷりとしたエプロンをつけて、お互いに後ろのリボンがきちんと結ばれているか確認する。
「ねえ、クラリッサ。私ね。いままで、あなたやおじ様、ヨーゼフさんやお店の皆に感謝していたけれど、もう一人、とても感謝しないといけない方がいたのね」
エリーゼは青い瞳を潤ませて、微笑む。
「あなたのお母様は、とても優しい方だったのね。私、お礼を言いたいわ。夢の中でクラリッサにケーキを作ってくださって、ありがとうございますって。だって、もしも、『マルガレーテ』がなかったら、あなたに出会えなかったし、きっとこんなに幸せではなかったもの」
わたしの両手を取って、エリーゼがにっこり笑う。
――そうだ。
『マルガレーテ』があったからこそ、エリーゼと出会えたのだ。
もしも今の生活をエリーゼが幸せだと思っていてくれるのなら、たとえゲームとは違っているとしても、『マルガレーテ』が存在することはとても良いことだったのだ。
もちろん、わたしにとっても、父さんにとっても、ヨーゼフにとっても。
「あなたがそう言ってくれて、とてもうれしいわ。エリーゼ」
「さあ、仕事の時間ですよ。お二人とも、しっかり売り子をお願いします」
ヨーゼフに言われて、わたしたちは目を合わせて笑い、「はい!」と二人で元気に返事をした。