10.サタデーモーニング side優
七月下旬。前期試験が終わって、あとは数日の補講期間を挟んで夏休みがやってくる。
補講といっても、試験の成績が悪かった人が行く補講ではなく、教授の都合で休講になっていた分の講義や試験を受けられなかった人のための再試験を行う日で、私には関係なくて、気持ちはすで夏休みに突入していた。
私は試験から解放されたその晩からずっと自室の机に向かっていた。
気がついたら日が暮れて、いつの間にかレースのカーテンをかけられた窓から眩しい朝日が室内に差し込んで、目がしょぼしょぼする。
「もうこんな時間か……」
机の上に置かれているアナログ時計に視線を向けて、私は持っていたペンを置く。背もたれに体重をあずけてぐっと両手を上に伸ばすと、背もたれのばれが軋む音がした。
ナチュラルな木調の足の部分が本棚になっている簡素な机の上には本が積み上がり、原稿用紙が散乱している。
父は小説家、母は出版社に勤める編集者。父の書斎は窓とドアと机以外の四方向を本棚んで囲まれていて、両親の寝室にもリビングにも本棚が陳列し、溢れかえった本が階段にも並んでいる時もある。そんな本に囲まれた家庭で育った私は、小さい頃から本が好きな子だった。
高校の選択授業で第二外国語にフランス語を選んだのは、ちょうどフランス出張から帰ってきた長兄からお土産にもらったフランス風景の写真集の文章を読みたいという些細なきっかけだった。
いつかその写真集のようなフランスの美しい風景を自分の言葉で説明した本を出せたらいいなと思った。
そのために大学でも文学部に進みフランス語を専攻し、母の仕事を時々手伝っている。
昨晩も頼まれていたフランス語の翻訳をしていて、集中しちゃって気がついたら朝だった。
とりあえず、急ぎでって言われた部分は終わったし、終わったとこだけでもお母さんに渡してこようかな。
この時間なら、まだ出勤前だよね。
お母さんに渡してから、一眠りしようかな。
時刻は朝の六時班を過ぎたとこだった。
耳を澄ませば、階下からわずかな物音と話し声がする。
お母さんとお兄ちゃん、もう起きてるのかな。
エアコンと電気を消して翻訳済の原稿を持って一階に降りてリビングにいくと、お父さん以外が集まっていた。
「おはよ、優」
「おはよう、悠兄、お母さん」
「おはよー」
悠兄はリビングのソファーに座ってTVを見てて、お母さんはダイニングチェアに座って新聞を読んでいた。
キッチンを覗くと、勇兄がスーツの上に紺色のエプロンをしてガスコンロの前に立っていた。
「おはよう、勇兄。なにか手伝う?」
「おー、おはよう優。じゃあ、お湯湧いたからコーヒー入れて」
「はーい」
「あっ、俺、紅茶ね」
「はーい」
悠兄に言われて、紅茶用にティーポットを出す。私も紅茶にしようかな。
コーヒーポットの上にセットされたドリッパーにフィルムを入れる。キッチンカウンターに並んだコーヒー豆の瓶の中から一つを手に取り、コーヒーミルに二人分の豆を入れて豆をひいてフィルムに入れる。
ポットを手に持ち、中心から外側へ円を描くようにお湯を注ぎ、お湯が沈むのを待ち、またお湯を注ぐのを繰り返す。
その間にティーカップを四つ出し、お湯を注ぎカップを暖めておく。
ついでにティーポットも出して紅茶の準備も進める。
勇兄の手元を確認して、キッチンカウンターから食パンをとる。
「もうそろそろパン焼いていい?」
「おー、頼む」
その声を合図のように、ソファーに座っていた悠兄は立ち上がり、箸やお皿を食器棚から取り出す。お母さんは読んでいた新聞を綺麗に折り畳みダイニングテーブルの上を綺麗に片付けて布巾でテーブルをふく。
テーブルが拭かれたのを確認して、私がランチョンマットを四枚並べると、悠兄がそれぞれの箸を置いていく。
キッチンでは勇兄が白いディッシュプレートに出来上がった朝食を載せていく。こんがり焼き目のついたソーセージとスクランブルエッグ。ガラスボールに入ったグリーンサラダ。
抽出が終わったコーヒーをカップに注ぎ、きっちり砂時計で時間を計った紅茶もカップに注ぐ。
タイミングよくトースターがチンッとなり、ディッシュプレートの空いている場所に勇兄が焼き色のついたトーストを手際よくのせてダイニングテーブルに運んでいく。
お母さんの隣に私、向かい側に勇兄と悠兄が座る。
「はい、いただきます」
「いただきまーす」
お母さんの合図にみんなも続き、朝食が始まる。
勇兄――君島 勇、二十七歳、商社に勤めている会社員。学生時代にラグビーをやっていたため長身でがっちりした体形だが、穏やかな性格で、見た目とのギャップに年上女性からモテている、長兄。
悠兄――君島 悠、二十五歳、美容師。ふわふわのウェーブのコーヒーブラウンの髪の日本人離れした容姿と柔和な笑顔で全女性からモテモテの次兄。
幼い頃、仕事が忙しい両親とはあまり一緒にいることはできなかったが、代わりに兄二人がいつも側にいてくれた。年が離れた妹ということもあって可愛がってくれるのはすごくありがたいんだけど。歳を重ねるにつれ、それが度をこしているというか猫かわいがりにもほどがあるっていうか。とにかく兄たちは私に甘すぎるということに気づいた私は、このままでは人に甘えてばかりでダメな人間になってしまうと思ったのは小学校二年の時だった、と思う。
それからはあまり兄に頼らずに、自分のことは自分でやるし、できないことは自分で調べたり工夫したり努力して努力して、それでもできない時にだけ兄を頼ることにした。
急に兄から離れようとした時は兄たちは逆に過剰に私を甘やかすようになったけど、今は適度な距離感を掴めるようになっている。まあ、それでも妹に甘いお兄ちゃんではあるけど。私ももちろんそんな優しくて頼りになる兄たちのことが大好きだ。