7・愛情
神田川沿いの桜は満開だった。
四月上旬の昼下がり、都電に乗って面影橋駅で降り、アリアとヒロは神田川沿いを歩いていた。
やり場のない、沈んだ気持ちを少しでも晴らしたくて、アリアは桜を見に来たのだった。
街角で刑事に会ってからというもの、部屋に閉じこもって自分を責めてしまうのだ。
私は刑事相手に、なんて馬鹿なことを言ったんだろう。
『……好きですって言ったらいいの?』
そんなこと、言うつもりじゃなかった。刑事から逃げるための、いつもの色仕掛けだったはずなのに。東十無……刑事のくせに、刑事なのに、どうしてあんなに優しいのだろう。
心地よい春風に吹かれながらも、アリアの頭の中は東十無のことで一杯だった。
「綺麗、桜吹雪だ」
桜の枝が川に向かって覆いかぶさり、そよ風が吹く度、はらはらと花弁が散る。
「確かに綺麗だな」
アリアの横に並んで歩くヒロが、欠伸をしながら言った。
「無理して褒めなくてもいいよ」
「本当に綺麗だと思うよ。ただ、ちょっと眠くて辛いが……」
ヒロは再び伸びをしながら欠伸をした。
深夜遅くまで起きているヒロは、夜の生活といってもいい。
「ごめん、無理言って」
「いや、たまには陽に当たるのもいい。欲を言えば、可愛い女の子と並んで歩きたかったが」
アリアの黒いサングラスに白いワイシャツという、男の姿を眺めながら、ヒロは肩をすくめた。
ヒロの茶色がかった長い髪が、風にそよいでいる。ヒロはティーシャツにジーンズという、珍しくラフな格好をしていた。
ヒロは何かあったのかとは訊いてこないが、きっと感づいている。だからこんなにも優しいのだ。
大切なヒロ。ヒロにこれ以上心配をかけさせてはいけない。
アリアは勤めて明るい調子で話した。
「私がヒロに預けたダイヤは、Dに渡ったの?」
「ああ、とても喜んでいたよ。その代わり、こちらには金が入る」
「Dって、宝石が好きなの?」
「そうらしい」
「女の人なんでしょう?」
「気になるのか」
「ヒロの恋人?」
「馬鹿、そんなはずないだろう。俺にはお前がいる」
アリアは冷やかしのつもりで言ったのだが、ヒロは立ち止まってアリアに向き合うと、真面目な口調で強く否定した。
「私は妹だもの。ヒロに恋人がいたってそれは別でしょ?」
「血のつながりはないから、妹じゃない」
「でも、私にとってヒロは……」
「こんなつまらん話しは、やめよう」
ヒロが遮ったのでアリアは押し黙った。
ヒロにはいつも、誰かしら女性がいるのは前から知っていた。特定の女性であることは今までなかったようだが、もしかしてこのDは特別な人なのかもしれない。
そうだとしたら、ヒロが自分だけのものではなくなるという寂しさを、アリアは感じていた。
「俺は、お前がそばにいてくれたらそれでいい」
ヒロの長い指がアリアの髪を撫ぜ、アリアはそのまま抱き寄せられた。
ヒロの厚い胸板は、愛用している煙草の匂いがした。
ティーシャツの下から、ヒロの体温が伝わってくる。規則的に打たれる心拍。それらが、アリアに安心感を与えてくれる。
このままずっとヒロを頼っていて良いのだろうか。
ヒロだって、私にばかりかまけているわけにもいかないだろう。いつまでもこのままでいてはいけない。一人で生きていけるようにならなければ。
そう思いながら、いつもヒロの胸に寄りかかってしまう、だめな自分。
「ヒロ、人が見てる」
「構わない」
川の向こうを歩く通行人が、目のやり場に困ったように、ちらりと見ては目をそらしていく。
「私は構う!」
アリアはヒロの胸から離れた。
「ふん、何が恥ずかしいんだ」
「だって、男の格好をしているし……」
「じゃあ、女の格好をしている時は、大っぴらにやって構わないのか」
ヒロは意地悪く、ニヤニヤしている。
「いや、そうじゃなくて」
「じゃ、いつでも同じことだ」
ヒロは手馴れたように腰に手を回してアリアの体を引き寄せ、片手でアリアの顎を引いて唇を寄せた。
「いやだっ!」
アリアは思わず、ヒロの手を払いのけてしまった。
冗談半分にヒロがキスをすることは、日常茶飯事だったのだが、アリアは今までそれを、こんな風に強く拒絶したことはなかった。
「お前……」
ヒロの顔が険しくなった。
「ごめん、何でもない」
「何かあったとは思っていたが……男か」
「何もない」
「男だろう? まさか、旭川で会った刑事か」
ヒロの口調が厳しくなった。
「違う!」
「お前が女だと知っているのか」
「そんなこと、知るはずがない」
しまった、と思った。
つい、むきになってしまった。ヒロは変に思ったに違いない。
張詰めた空気と気まずい沈黙。
ヒロはアリアの心の動きを観察しているかのように、黙ってアリアを見つめている。
どうしよう。ヒロは怒っている。ヒロに嫌われたくない。もう、一人はいや。ヒロがいなくなったら嫌だ。
「ヒロ、違う。刑事を引っ掛けるのに、ちょっと色々あって……それで、今は思い出すようなことをしたくないだけ」
「……キスでもしたのか」
また墓穴を掘ってしまった。これ以上話すと、また余計なことを言ってしまいそうだった。
「だって、『仕事』でしょう?」
「まあ、いい。どうせもう会うことはないだろう」
つい数日前に、偶然会ったとは絶対言えない。おまけに、危なく乱暴されるところだったなんて。
「おい、口直ししてやる」
言うが早いか、ヒロは両手でアリアの顔を包み込むように掴み、キスをした。
奪うようなキスだった。
アリアは抵抗しなかった。抵抗したら、このままヒロに置き去りにされそうだったから。
ヒロから離れたいという思いがある反面、アリアはヒロに依存していた。
孤独はいや。
母親との辛い生活を続けてきたアリアにとって、ヒロは唯一無二の家族だった。
ヒロしかいなかった。この時のアリアにはヒロが全てだった。
アリアはヒロの腕の中で、優しく抱き締められた。
「お前が、好きだ」
「私もヒロが好き」
アリアがそう言うと、ヒロは寂しそうに笑った。
「どういう意味であれ、嬉しいね」
嘘ではなかった。アリアは本当にヒロが好きだと思っていた。ただ、義兄に対する家族愛なのか、恋人に対する愛なのか、自分でもよくわからないでいたのだが。
ヒロは私を愛してくれている。でも、私は本当にそれに応えることができるのか。ただヒロの愛情を利用しているだけではないのか。
ヒロの腕から抜け出そうとしない自分がいやだった。
アリアは桜吹雪の中、揺れ動く感情を抱え、温かいヒロの腕に身を委ねていた。
「今日、アリアちゃんと会っていたでしょう?」
「何故わかる?」
「そりゃあ、ヒロの浮かれた顔を見たらわかるわよ」
Dはそう言って、隣の椅子に座ったヒロの頬を、人差し指でつついた。
いつもと同じで、アリアとは何も進展はないのだがと思い、ヒロは肩をすくめた。
その夜、ヒロはホテルのバーでDと待ち合わせをしていた。
今夜のDは、控えめな服装だった。
といっても、元来、派手な顔の造りに、モデルのような体型。長い髪をアップにし、伊達眼鏡にグレーのタイトスーツ姿でOL風を装っても、人目を惹いてしまう。
「その服装、あまり合わないな」
ヒロは苦笑した。
「あら、そう? ……私もちょっと無理があると思ったのよね」
ヒロは長い髪を束ねてサングラスをかけ、黒いシャツにノーネクタイで、紫色の上着を着ていた。
「これじゃまるで、OLとそのヒモって組み合わせね」
「酷いたとえだな」
くすくす笑うDにつられて、ヒロも笑った。
「ねえ、そんな面倒なアリアちゃんより、私に鞍替えしたら?」
冗談とも、本気とも取れる笑みを浮かべ、Dは大きな瞳でヒロを見つめた。
Dの気持ちを知らないわけではなかった。自分はそれに応えられないということも、よくわかっていた。だが、時折、どうしようもなく人肌が恋しくなる。
そんな時、その場限りの女性と一夜を過ごしてきたのだが、Dと出会ってからは、なんとなく、Dに会いに行くようになっていた。
今夜も、一人でいるのがいたたまれなくなった、そんな夜だった。
「冗談よ」
黙っているヒロを見かねて、Dが言った。
「ヒロは、アリアちゃん一筋ですものねえ。一途なこと」
「茶化すな」
「いいじゃない、このくらい言わせて頂戴」
そう言われると、ヒロは何も言えなくなった。
俺は最低の男だ。Dを都合のいいときだけ利用しているのだ。
「いやねえ、そんなに真面目に取らないで。苛めがいがなくなるじゃない」
明るく笑い飛ばし、Dはソルティ・ドックを飲み干した。
「私は……構わないのよ」
Dは空のグラスに目を落として呟いた。
気丈なDが可愛いと思った。Dを愛していれば、自分もDも幸せだったのだろうに。
しかし、気持ちばかりはどうにも変えられない。悩んでもどうすることもできないのだ。
「ヒロ、折角のマティーニが台無しよ」
口をつけていないマティーニのカクテルグラスが、水滴で濡れている。
ヒロはグラスを手にし、何かが吹っ切れたようにマティーニを飲み干した。
「さて……女王様、我が褥にいざ招かん」
ヒロは立ち上がると、Dの横で身を屈め、芝居がかった台詞を吐いて、仰々しくDの手をとり口付けした。
周囲の客の視線が集まる。
さながら、中世の騎士気取りだが、ヒロがやるとさまになっていた。
「馬鹿、こんなところで恥ずかしいじゃないの」
そう言っていたが、Dは本気で怒ってはいない。楽しんでいるようだった。
「あなた様のためならば、いかなることでも不可能なことなどありません。何なりとお申し付け下さいますよう」
ヒロは、『騎士』を続けている。
「いいでしょう。では、私をそなたの褥に連れて行っておくれ」
「有り難き幸せ。では、少々のご無礼をお許し下さい」
立ち上がったDに、ヒロはウインクして、軽々とDを両腕に抱き上げた。
ヒロはDを抱き上げたまま、ホテルの部屋へと向かった。
バーにいた客、すれ違う客の視線が、二人に釘付けになったのは言うまでもない。
細い路地裏でアリアを見つけたあの夜から、東十無は酷く落ち込んでいた。
双子の弟、昇にも相談できず、一人で悩みを抱え込んでいた。
悩んだところでどうしようもないことはわかっているのだが。
一向に上向かない気持ち。だからといって、アリアのことを忘れられそうにもなかった。
とにかく忘れられない。あとはもう、あいつを見つけるしかない。見つけたからといってどうしたら良いのかわからないが、何もしないでいるよりはましだ。
無茶苦茶な理論のもと、十無は怪盗Dを追いながら、仕事の合間、地道にアリアの影を追い続けた。
だが、それらしき人物の影を見つけても、
「刑事さん、根を詰めると体壊すよ」
などとからかわれ、まともに向き合えずにするりと逃げられて終わる、といった具合だった。
アリアの居所を突き止めなければ、逃げられてばかりだ。
そして、とうとう年が明けて正月が過ぎ、諦めかけていた頃、街中の雑踏で、十無は女子高生に声をかけられたのだった。
「刑事さん、アリアに宜しくね」
十無はまたもや財布をすられるという失態を犯した。
それも、女子高生に警察手帳ごと。
これはもう、恥を忍んで昇に協力してもらう他なかった。
十無が仕事の傍ら、一年かけて突き止められなかったアリアの居所を、どういう裏情報網を駆使したのか、昇は数日間という短期間の間に見つけ出してしまったのだ。
昇は人探しが飛びぬけてうまいのだ。
こんなことであれば、初めから昇に頼めばよかったと、十無は思った。
そして、今回もアリアは何事もなかったように、馴れ馴れしく話しかけてきた。
だが、十無はまともに話しができず、目をそらした。
お前は平気なのか。何故何もなかったように、普通に話しかけてくるのだ。
そんなことに戸惑っているうちに、また別の不安が頭をよぎった。
アリアを見る昇の眼が、気になったのだ。
まさか、昇……。
十無はまた一つ、不安を抱えることになった。
こうして東十無は、アリアに翻弄される生活が続くのだった。