6・焦がれる気持ち
調子が狂いっぱなしだ。狂うなんてものじゃない、これは。俺じゃないようだ。
この俺が、こそ泥に財布を掏り取られるとは。
東十無は財布を掏り取られたことを知った時点で、大きなショックを受けて戦意を失ってしまったのだ。
無理をすれば、駅員を振り払って改札口を跳び越すこともできたはずだった。
いや、財布を盗まれたことが理由ではない。俺は何故そうしなかった。あいつといると、いつもの自分ではなくなる気がして怖くなったのではないか。とんでもないことをしでかしそうで、俺はあいつから逃げ出し、仕事を放棄してしまったのではないか。何をやっている。私情を挟むな。次に見つけたら必ず捕まえる。
十無は自問し、自らを叱咤した。
今まで生真面目に仕事をこなしてきた十無にとって、これは一大事だった。
タクシーに乗ってから、旭川東署の叔父から連絡があったのだが、何を話したのかさっぱり頭に入らず、何度か聞き返してしまうほど、十無は上の空になっていた。
お陰で叔父に叱責された。
「十無、しっかり聞け、お前らしくないぞ。どうかしたのか?」
「すいません、大丈夫です」
「園田豊子はほぼ容疑を認めた。部屋から、予告状と同じ材質の紙も見つかった。だが、ダイヤが見つからんのだ。園田もシャンデリアに隠していたと自供したのだが」
「そうですか……」
「また何かわかったら連絡する。十無も頑張れ」
話し終えた頃に、アパートの前に着いた。
「運転手さん、部屋にお金を取りに行くので、待っていてくれますか?」
「あんた、そんなこといって踏み倒すんじゃないだろうね?」
運転手は十無を睨んだ。
「そんなことをするわけがないだろう? 俺は刑事だ!」
十無は警察手帳を提示しながら、タクシー運転手相手に八つ当たりし、つい語彙を荒げてしまった。
運転手は文句を言いたそうにしていたが、十無はタクシーを降りた。
夜風が生ぬるい。旭川ではまだコートがいるというのに。
双子の弟、昇が帰宅しているのだろう。アパートの部屋には明かりがついていた。
「ただいま」
「兄貴、お帰り。遅かったな」
昇は居間に寝転がって、こちらに顔も向けずにテレビに向かって言った。
「昇、お金をかしてくれないか」
「へ?」
昇は、ようやくこちらを向き、自分と同じ顔をきょとんとさせた。
「いいから早く。タクシーを待たせているんだ」
「……わかったよ。ちゃんと返してくれよ」
十無は昇から一万円札を受け取り、運転手に支払ってきた。
よっぽど、交番で電車代を借りようかと思ったが、さすがにプライドが許さなかった。
電車で帰れたら、こんな余計な出費はなかったのにと、十無は玄関ドアを閉めながら、ため息をついた。
「旭川でそんなに金を使ったのか?」
「ん、まあな」
まさか、掏り取られたとは口が裂けても言えない。十無は言葉を濁した。
「ふ〜ん」
昇は納得していないような返事をした。こういう時、昇は勘がいい。双子だからなお更わかるのだろうか。
十無はコートをしまって荷物を片付けながら、何か訊かれるかとどきどきしていた。今訊かれたら、動揺してでまかせもうまく言えない気がしたのだ。
「飯食ったのか?」
「なんとなく、な」
十無はたいしたものは口にしていなかったが、喉を通りそうもなかった。
こんな日は、ビールでも飲んでさっさと寝てしまおうと、冷蔵庫を覗いたが、丁度切らしていた。
「悪い、ビール飲んじゃった」
「昇、ちゃんと買っておけ!」
昇は相変わらずテレビの方を向いたまま、謝った。
「おい、いい加減にしろ!」
「兄貴? 何を苛々しているんだ」
「どうもしない! お前がちゃんと謝らないから」
自分でも、子供じみたことで怒っているとわかっていたが、どうにも収まらなかった。
わけがわからないとでも言うように、首をかしげ、昇は体を起こして胡坐をかいた。
「兄貴、何かあった?」
「別に! 俺はもう寝る」
「まだ、十時だぜ?」
昇が呆れたようにそう言ったが、十無は空腹を牛乳で紛らわせてから自室にこもり、ふて寝した。
だが、興奮冷め遣らず、妙に目が冴えてその夜はなかなか寝付けなかった。
そして、翌朝、十無は寝坊したのだった。
「兄貴、何処か具合でも悪いんじゃないのか?」
昇は本気で心配しているようだ。
「大丈夫だ。昨日はどうかしていた、すまなかった」
探偵業の昇は出勤時間が不規則だ。今朝は遅い日だったらしい。十無は起こさなくても必ず時間に起きているので、普段、昇は十無を起こすことはない。
髭を剃って顔を洗い、歯磨きを手早く済ませて牛乳を一気に飲み、ネクタイを片手にベルトを締めて、五分で用意を済ませ、十無は玄関へ走った。
そして、昇が玄関先で新聞を郵便受けから取り出している横を、走りぬけようとしたのだが、
「あ、兄貴の財布がこんなところに?」
と、昇が言ったので、十無は心臓が飛び出そうなほど驚いて立ち止まった。
「これ、兄貴の財布だろう。どうして郵便受けに?」
「実は、昨日帰る途中になくしたんだ。誰かが届けてくれたのかな」
「へえ。 タクシーに乗る前に落とした財布をわざわざ?」
自分でも、苦しい言い訳だと思った。昇は全く信じていない。疑いのまなざしを向けている。
「遅刻するから、またあとで!」
昇の手から財布をかすめ取り、十無はその場を逃げるように出勤した。
財布には免許証も入れていた。その住所を見て、アリアはここまで来たのだろう。しかし、わざわざ財布を返しに来たのは何のためなのか?
電車に乗ってから、財布の中身を改めたが、なくなっているものは何もなかった。アリアのとった行動は、十無の想像力を超えていた。
十無は頭の中の整理がつかない状態で出勤したのだが、勤務中は上司への報告と書類に追われ、そのことについて考える余裕はなかった。
Dの件は、本庁にも報告されたが、旭川で起きた窃盗事件は、園田豊子の単独犯の可能性も考えられ、都内で起きた事件との関連性は薄いとして、広域犯罪として扱われることなく、所轄での捜査継続という判断となった。
書類がひと段落し、十無はふとアリアのことを調べてみようと思った。
しかし、過去の犯罪者データベースに照会しても該当する人物はいなかった。逮捕暦はないようだ。念のため、少年係にそれとなく聞いてみたが、管轄内で把握している中に、そんな特徴の少年はいないという。
これ以上、何の手掛かりもない。東京の何処かにいるというだけでは、探しようがない。
夜八時。あっという間に一日が過ぎ、気がつくと、窓の外が暗かった。
徒労に終わり、どっと疲れが出た。それに、お腹も空いてきたので、十無は仕事を切り上げて帰宅することにした。
何処かで食べてから帰ろうか。
十無は昇と顔をあわせたくなかった。会えば、財布の件を根掘り葉掘り訊かれ、面倒な言い訳をしなければならない。
居酒屋で夕食を済ませるために、十無は池袋西口の繁華街に出た。
JR駅前の明治通りは、川の流れのように行き交う人が流れていく。
久しぶりの人ごみは、息が詰まる感じがした。
十無は人の流れに沿って、とりあえずサンシャイン通りをぶらぶらと歩いた。
「義兄さん!」
聞き覚えのあるアルトの声が、十無の耳に飛び込んできた。
「あいつだ!」
声がした方へ走り、人がやっとすれ違えるほどの、細い路地裏へ入った。
「おいっ!」
十無は背後から、その男の右腕を掴んだ。
「離せ!」
男は突然のことに驚き、腕を振り解こうとしたが、十無の腕力の方が遥かに勝っていた。
もう一人、誰かいたようだが、すでに姿はない。
「お前、アリアだろう?」
「……へえ、刑事さん。よく私だってわかったね」
アリアは十無を見下すように鼻で笑いながら、すんなりと認めた。
これまでと外見が全く違っている。ベージュ色のトレンチ風、スプリングコートを着て、黒いサングラスに、肩までの髪といういでたち。
多分、姿を先に見ていたら、アリアだと気がつかなかったかもしれない。
「で、何の用?」
アリアは不機嫌そうに言った。
「まずは、署まで来てもらう」
十無は掴んでいる右腕を離さないまま言った。
下手に暴れると公務執行妨害で引っ張られるとでも思ったのか、アリアは抵抗をせず、されるがままになっている。
「勘弁してよ、忙しいんだから」
「そうはいかない。園田豊子は自供したということだ。だが、肝心のダイヤがない。お前の言ったように、シャンデリアに隠していたのは確かなようだが」
「へえ、そう」
「……お前、盗っただろ?」
「知らない」
アリアは涼しい顔をして、さらっと言ってのけた。
「その辺をじっくり訊かせてもらう」
「やだよ、証拠もないのに無茶苦茶だ。腕を離して」
「だめだ、また消える気だろう?」
「そんなに私から訊き出したいの?」
「当たり前だ。Dのこともお前が鍵を握っているだろう?」
「Dなんて会ったこともないのに。信じてくれないの?」
さっきまでの威勢のよさは身を潜め、声のトーンが落ちてアリアは急にしおらしくなった。
「……あくまでも、任意同行だ。知っていることを話してほしいだけだ」
調子が狂う。なんだかこっちが悪者のようでやりづらい。
アリアの右腕を掴む十無の手が、少し緩んだ。
「知っていることを話せばいいの? 刑事さん、私のこと信じてくれる?」
「正直に話してくれたら、最後まで面倒を見てやる」
嫌に素直だ。何か裏があるのか。
十無は警戒した。さっき一緒にいた男が、また来るのか。それとも他に、逃げる算段でもあるのか。
「わかった、言うとおりにする……」
サングラスの奥から、アリアはじっとこちらを見つめているようだ。
気がつくと、今までの男っぽさがなくなり、女性の仕草になっている。
「なんだ?」
「うん……刑事さんて、彼女いるの?」
「そ、そんなことどうでもいいだろう?」
「……私のことどう思う?」
「どうって」
「十無、私は……私の気持ちは、あの夜と同じ……」
アリアは十無に掴まれていない左手を、そっと十無の頬に当てた。
「おい……」
予想もしない展開に、十無はうろたえた。
表通りには多くの通行人がいるというのに、二人がいる薄暗く細い路地の奥は、別世界のように人気がなかった。
次の瞬間、十無の胸にアリアは顔を埋めた。その拍子に十無はよろけて建物の壁に背中をついた。
「ずっと一人だった……」
「そうひっつくな」
「十無、私のこと嫌い?」
アリアはアルトの声をやや高くしてそう囁き、体を寄せた姿勢で十無の顔を見上げた。
今のアリアは、どう見ても女性にしか見えない。
「って……俺は……」
アリアの右腕を捕まえていたはずの十無の手は、いつの間にか離れ、体を壁にぴたりとつけて逃げ腰になっていた。
ここから離れるわけにはいかない。
十無は辛うじてその場に棒立ちになっていた。
「私は……女の姿で会いたかった」
十無を見つめながら、アリアは小首を傾げてかすれた声で囁いた。
アリアは十無の肩に両腕を回した。アリアの顔から目が離せない。
それは、どういう意味だ。まさか、俺のことを……。
「十無……」
アリアの顔がゆっくりと近づく。
目の前にいるアリアの行動に、思考が追いつかない。
十無は瞳を閉じて、柔らかな唇を受け入れてしまった。
何も考えられなかった。刑事という立場も忘れ、どうでもよくなった。ただ、アリアが愛しい。
一瞬、本気でそう思った。
「……自分を、粗末にするな」
十無は振り絞るようにそう言い、やっとの思いで、アリアの腕を振り解いて体を離した。
アリアは予想外とでもいうように、きょとんとしていた。そして、少し寂しそうに肩をすくめて、口の端に笑みを浮かべた。
「そんなこと、言われると思わなかった」
「本心では、ないんだろう?」
「ふふ。こうすると、大抵、逃げられるって義兄が言っていたから」
そう言ったアリアの態度は、もう男に戻っていた。
「そんなことだと思った」
口ではそう言ったが、十無は内心がっかりしていた。「違う」と否定してほしいと思っていた。
「もっと、男の落とし方に、磨きをかけなきゃね」
アリアが言うと、冗談に聞こえない。
「体を安売りするような馬鹿な真似はするな。今に痛い目に遭うぞ」
「まるで、女の子扱いだ。余程、私が女に見えるのかな」
「俺は、本気で心配して……」
「本当に、もう……刑事さんは優しすぎる」
アリアは俯いて、柔らかなアルトの声で呟いた。子供が拗ねているような仕草だ。
君が可愛く感じてしまう。一緒にいると、自分を見失いそうだ。俺はどうしたらいい。
軽い眩暈。胸の奥にくすぶる焦燥感。十無はアリアを抱き締めたい衝動に駆られたのだが、勤めて冷静な口調で話して理性を保っていた。
「俺のアパートに、何故、わざわざ財布を届けた?」
「だって、ないと困るでしょう?」
アリアは悪戯っ子のように笑っている。
「そういうことを訊きたいのではなくて……」
「じゃあ、どういうことを訊きたいの。私の……気持ち?」
笑顔が一変し、押し殺したような声で、アリアは十無に問いかけてきた。
アリアの閉ざされた心の鍵に、十無は手をかけてしまったのだ。
「刑事のあなたに、なんて言ったらいいの。あなたのことが好きになったから、アパートまでこっそり行きました。好きですって、言ったらいいの?」
アリアは責めるように語彙を荒げて詰め寄り、コートが触れるほどの位置から十無の瞳を見つめた。
十無の鼓動が早まった。
アリアの素を見た気がした。きっと、これが本来の姿。男も女も混在している、どちらとも言えない立ち振る舞い。
「いや、そんなつもりじゃ……」
あからさまに気持ちをぶつけてきたアリアに圧倒され、受け止めきれずに十無は口ごもった。
「私の心に、土足で上がりこむな! これ以上、私にかかわるな!」
悲痛な叫び。
思わず十無はアリアを強く抱き締めていた。
「君を……追い詰めるつもりはなかったんだ」
これは同情だろうか。いや、なんだっていい。
十無は後先考えずに、行動に走った。何事にも慎重すぎる十無にとって、信じ難い行動だった。
アリアの顎を引き、激しく唇を奪ったのだ。
長く激しいキス。相手の全てを手に入れたい衝動。欲情が荒々しく駆け巡り、十無の体中を支配していた。
抗うアリアを無理矢理壁に押し付けていた。
「十無、いやだ!」
アリアの首筋に唇を這わせ、左手でアリアの体を押さえ込み、アリアのベルトに手をかけた。
「だめっ!」
アリアは頬を紅潮させて息を弾ませながら、震える声でおびえたように哀願した。それでも十無の手は止まらなかった。
「十無、刑事でしょ! こんなこと、だめっ……」
首筋に唇を這わせる度に、アリアの息が荒くなる。アリアが上気するにつれ、甘い香りが漂う気がした。
十無はジッパーに手をかけた。
「馬鹿野郎!」
アリアが叫んだと同時に、十無の股間に激痛が走った。
「……っつう」
アリアが思いっきり、十無の急所を蹴り上げたのだ。十無は、その場にしゃがみこんだ。
「十無が悪いんだから……十無が……」
十無は激痛で、顔を上げられなかったのだが、頭上から聞こえるアリアの声は泣いているようだった。
アリアは路地裏に消えた。
「泣きたいのはこっちだ!」
十無は壁に寄りかかり、ビルの谷間から見える星もない狭い夜空を見上げて、額に手をやった。
「俺は、なんて馬鹿なことを……」
うろたえていた。強姦まがいの行動をとってしまった自分が信じられなかった。
「男相手に……泥棒に……俺は……どうすりゃいいんだっ!」
十無は力任せに、ビルの壁面を拳で叩いた。
東京はこれからが桜の美しい季節だというのに、十無の春は一瞬のうちに散ったのだった。