5・ダイヤとハートの盗難
東十無が甘い夜を過ごしている頃、藤田家に再び賊が忍び込み、ダイヤが盗まれたのだった。
『予告状を出したからには、今度こそ本物のダイヤを頂いていきます・D』
ご丁寧に、書斎の机上にカードが残されていたのだ。
東十無と丸さんは翌朝七時に通報を受けてそれを知ったのだった。二人は早速藤田邸に出向いた。
藤田夫人はこの二日間、寝込んでいた。藤田氏はまさか昨日の今日でまた被害に遭うとは思ってもいなかったのだろう。ただただ呆然とし、居間のソファに座って頭を抱えていた。
「藤田夫妻が毎晩寝る前に、自家製の梅酒を飲むことを知っていたのは、園田さんの他にはあの若い家政婦、川北美智と運転手の山本卓也だけですね?」
丸さんは、うなだれている藤田氏の後ろに立っている園田豊子に念を押すように確認した。
「ええ、そうです。ああ恐ろしい。あの娘、いいえDという泥棒でしたっけ? そのDが姿を消す前に、お酒に睡眠薬を入れていったんですよ、きっと。私? 私もね、ちょっとお相伴にあずかってね、ほんの少しですよ……コップ一杯……そしたら、なんだか眠くなってそのまま寝ちゃったのよ。ああ、怖い」
Dの出現で、園田豊子は前回にも増して興奮し、身振りも交えて、機関銃のように話した。
川北美智は、園田がこっそり梅酒を拝借していることも知っていたのだろう。計算づくで酒に薬を仕込んでいったようだ。
俺が留美さんと時間を過ごしている間に!
東十無は藤田家の警備を人任せにしたことを後悔し、自分を責めた。
しかし、直ぐ側に潜んでいて、盗めなかった物を翌日に再び盗みに来るとは、大胆不敵、警察を舐めている。
「こりゃあ、プライドの高い泥棒だねえ」
書斎に移動し、白い手袋をはめてDのカードを手に取り、苦笑いしながら丸さんが言った。
書斎にはまだ鑑識がうろうろしている。
残されていたカードは、別荘に届いていた葉書き大のカードより小さくて白い名刺大の紙で、紙質が薄かった。ワープロ打ちされた文面が小さく印字されている。今回は、『D』と明記されていた。
室内を荒らした形跡はなく、明らかにダイヤだけを狙っての犯行。
今回も玄関からの侵入と考えられたが、またもやピッキングの形跡はなかった。
「合鍵をこっそり作って持っていたのかもしれないわねえ」
園田豊子が言った通り、確かにそう考えるのが妥当だろう。藤田邸には、家政婦の園田豊子と藤田夫妻しかいなかったのだから。
これで、Dを逮捕するまたとない機会を逃してしまったのかもしれない。
傍から見ても気落ちしているのがはっきりとわかるほど、十無は肩を落としていた。
「トム、まだ諦めるには早い。あのお嬢さんが何か鍵を握っているかもしれんからな」
「まだ疑っているんですか?」
「当たり前だ。不審なところが僅かでもあれば、疑うのが俺達の仕事だろう? トム、頭を冷やせ。あんたは優秀な刑事だと課長から聞いている。今のトムはいつものあんたじゃないだろう? 私情を挟んでいる」
丸さんに真面目な顔で面と向かってそう言われた十無は、少し恥ずかしくなった。
確かに俺は知らず知らずのうちに、彼女の不審なところから目をそむけていたかもしれない。だが、クロと決まったわけではない。彼女が北山留美であると証明できさえすれば。
十無はまだ信じていたかったのだった。
「俺を買いかぶらないでください。そんなに優秀ではないですから」
丸さんの問いかけに肩をすくめて、十無は話をすり替えた。
「丸さん、初めのノビでは、Dはダイヤのありかがわからなかった。で、一端は諦めた。だが、昨夜までの間に何らかの形でダイヤのありかを知って犯行に及んだ。あの短時間にどうやって? あの隠し金庫を知っているのは藤田夫妻の他に、俺と丸さん、途中で顔を出した園田豊子」
「いや、それともう一人、北山留美。あのお嬢さんがここへ来ていた」
「だが、彼女は居間にいたはずです」
「しかし、こっそりと除き見たかもしれん」
「それは不可能です。俺たちの他にまだ警官がうろうろしていたし、彼女が来たと聞いてから一、二分も経たないうちに俺と丸さんは居間へ行ったんですから」
「じゃあ、園田豊子がDと連絡を取ったというのかい」
「可能性として否定できません」
自信たっぷりに十無が言い切ったその時、十無の携帯電話が鳴った。
「十無か? 北山留美の写真が届いたぞ。写真では、お前が言っていた特徴とほぼ一致していた」
「そうですか」
叔父である東俊介刑事課課長の電話に、十無はほっと肩をなでおろした。
「だが母親が言うには、旅行に行く前日、娘は美容室に行ってパーマをかけたらしい。それに、携帯電話に連絡を取ってもらったのだが、北山留美は今、帯広にいると言っていたそうだ。その旭川にいる北山留美から目を離すな。Dと接触する可能性がある」
なんだって! では、旭川にいる『北山留美』は、一体誰なんだ。彼女の全てが嘘だったのか。俺は騙されていたのか。
十無は心の奥底に押さえ込んでいた疑念で頭が一杯になり、目の前が真っ白になった。
電話を耳に当ててじっとしている十無に、「おい、どうした?」と、丸さんが心配そうに声をかけた。
「丸さん! 北山留美を参考人として引っ張りましょう。彼女は北山留美を騙る別の人物だ。急がないと、行方をくらますかもしれない」
一瞬、失意に身を硬くした十無だったが、直ぐ我に返り、刑事の顔に戻った。
「それなら大丈夫だ。十無には悪いが、すでに北山留美のいるホテルには張り込みをつけている」
「そうでしたか……」
「黙っていてすまんなあ」
「いえ、いいんです。俺が甘かったということです」
丸さんは北山留美を張り込んでいる刑事に電話し、彼女が動いていないことを確認した。
「よし、あのお嬢さんはまだホテルにいる。ここは他の奴に任せて、ホテルへ向かおう」
十無と丸さんは、車を飛ばしてホテルへ急行した。
到着までの十分間、二人は無言だった。丸さんは十無の心中を察し、気を使っているようだった。
生まれて初めて好きになった女性が、犯罪者だったなんて洒落にもならない。それもDの共犯者。いや、待て。Dだという可能性もある。そうだとしたら最悪だ。自分が追っていたホシだったなんて。
十無は丸さんに聞こえないように小さくため息をつき、窓を全開にして顔一面に朝の冷たい風を受けた。
青空が広がっていたが、気温は三度。寒さで頬がひりひりした。だが、今の十無にはそれがほど良い刺激に感じた。
何処かに強い刺激がないと、自分を責めて立てる言葉を次々と列挙してしまいそうだった。浅はかな自分。柄にも無い恋に心躍らせてしまった自分。
窓を開けている車内は、震えるほどの寒さだったが、丸さんは窓を閉めろとも言わず、黙って十無のしたいようにさせてくれた。
彼女を好きになってしまったことを後悔する傍ら、北山留美が別人だということを受け入れられず、十無は何かの間違いであってほしいと心の奥で願っていた。そんな自分が嫌だった。だが、自分の感情をそう簡単に切り替えられないのだ。
十無は北山留美に対する自分の気持ちを、ただただ否定して押し殺すしかなかったのだが、そうすればするほど、逆に熱いものが胸に込み上げてきた。
十無自身が思っているより遥かに、この厄介な恋愛感情は心の奥深くに根ざしてしまったのだ。
十無は暴走した恋愛感情をコントロールできず、もてあましていた。
「北山留美がいない?」
「はい、チェックアウトいたしました」
十無が食ってかかるようにフロントに身を乗り出して聞き返し、ホテルマンは困ったように眉をひそめて言った。
「おい、どういうことだ? お前、ちゃんと張り込んでいたんだろう?」
丸さんも表情を固くして、側に立っている若い刑事を睨みつけた。
「しかし、昨夜から交代で張り込んでいましたが、聞いていた特徴と一致する若い女は一人も通りませんでした。間違いありま……」
「チェックアウトはいつしましたか?」
若い刑事が自信たっぷりに話しているのを遮り、十無はホテルマンに向き直って質問した。
「今朝の四時頃です。JRに乗るご予定だと言っていました」
「四時? Dのアジトは多分東京にある。彼女は東京へ移動するはずだ。新千歳から東京へ向かおうとしているのか! 丸さん、ここから新千歳までどのくらい時間がかかる?」
「だいたい、JRで二時間くらいか」
JR旭川駅はここから目と鼻の先だ。四時過ぎのJRに乗ったとして、六時過ぎには新千歳空港だ。新千歳空港発、東京行きの始発は七時代があったはず。それに搭乗したのか? もう八時半を過ぎている。後は羽田で捕まえるしかない。
十無は頭の中で素早く計算し、その場で叔父、東俊介刑事課課長へ電話を入れた。
東俊介刑事課課長は、早速、東京の所轄署に連絡し、近くにいる警官を動員してもらうよう協力要請を申し入れる手配をするとのことだった。
今、彼女を逃すと、Dとの接点がなくなる。それに、なによりも彼女の真意を会って直接聞きたい。
十無は自分ではなす術がなく、もどかしかった。
「何とか間に合えばいいが」
「新千歳発は七時五十分で、到着は九時二十分の予定です。ANAと日本航空が同時刻です」
若い刑事が失態を挽回したいのか、携帯電話で飛行機の発着時間を検索して教えてくれた。
「そうか、なんとか間に合う。後は連絡を待つしかない」
十無はふうとため息をつき、ようやく肩をなでおろした。
「でも、昨夜からいっときも目を離さないように交代で張っていたのに。午前四時頃だったら、人気がないからすぐわかるはずです。その時間には、男が出て行っただけだったんですが。本当に四時ですか?」
若い刑事は納得がいかないという口振りで、ホテルマンに確認した。
「あのお、チェックアウトはお連れ様がしましたが」
「連れ? 一人で泊まっていたんじゃないのか!」
無意識に十無の声が大きくなった。
「若い男性と泊まっておいででした」
「じゃあ、四時に見た男がそうだったのか」
若い刑事が口を挟んだ。
男と泊まっていた! 留美さんは、やはり初めから俺を騙していたのか。
十無は頭に血が上っていくのを感じた。
男と泊まっていたという一言で、僅かばかりの望みも絶たれ、奈落の底に落とされた十無は怒りの感情を露わにした。
「それはどんな男でしたか!」
十無がホテルマンに向かって言った言葉尻は、辛うじて丁寧だったが、声が荒くなっていた。
「肩くらいまでの長髪で、身長は百六十センチくらいだったと思います。歳は十代後半くらいでしょうか。顔はサングラスをしていたので、なんとも……」
ホテルマンは十無の苛立った口調に驚き、おどおどと答えた。
「外は薄暗いのに、サングラスをかけていたから、俺もその男のことは覚えています。グレーのハーフコートを着ていました」
無表情だが明らかに怒りを抑えているように見える十無に、若い刑事も恐る恐る答えた。
普段大人しく、滅多なことでは怒らないように見える十無が、怒りに任せて声を荒げている。
丸さんも、そんな十無を目の当たりにし、目を丸くして驚いていた。
普段の十無であれば、人目を気にするところだが、そんなことは今の十無にはどうでもよくなっていた。
北山留美が若い男とホテルに泊まっていた。その事実が許せなかった。
あの夜の出来事は全て偽りだった。俺を騙していた。多分、俺を藤田邸から遠ざけるために、全てはダイヤを盗むという目的のため、仕掛けられたお芝居だったのだ。
とにかく今は、男との二人連れだと伝えておかなければ。
「あのお、刑事さん、その女性のことで少々引っかかることがございます」
十無が叔父にもう一度連絡しようと、携帯電話を取り出していると、ホテルマンがおずおずと声をかけた。
「何ですか?」
「実は、そのお客様はいつも二人一緒にはいらっしゃいませんでした。いつもどちらかお一人でお見かけしまして……」
「どういうことです?」
「いつも、いつホテルに戻られたかわからないのです。女の方が戻られたと思ったら、次の日、男の方をお見かけするといった具合で。チェックアウトも、男の方のみでしたので、お連れ様は? と尋ねましたら、先に出ましたとおっしゃって……素人の言うことですから、聞き流してくださって結構ですが、背格好も同じくらいで、もしかしたら、お客様は一人だったのでは、と」
あくまでもこれは推測でしかないのですがと、そのホテルマンは付け足した。
女性が男のなりをしたところで、所詮、それは男の服を来た女に見えるのが落ちだ。余程、訓練しなければ男に見えることはないだろう。
ホテルマンの話だと、その若い男は、女性には見えなかったという。
張り込みをしていた若い刑事達も、女には見えなかったと、首をかしげた。
やはり二人だったのか? それにしてはホテルマンが言うように、不自然な点が多い。では、北山留美が男装していたのか? そうだとしたら、完璧に男に成りすましていた彼女は、一体何者なんだ。
十無に次々と疑問が浮かび上がってくる。
とりあえず、叔父には二人の特徴を話し、どちらか一人の可能性もあると電話で伝えておいた。
「丸さん、今は待つしかない。藤田邸に一旦戻りましょう」
「そうするか」
「刑事さん! もう一つ忘れていました!」
ロビーを出かかった十無に、ホテルマンが走り寄ってきた。
「これを渡すようにとお預かりしていました」
十無は振り返って封筒を受け取った。
それは、部屋に備え付けられているホテルの名前入り封筒だった。
封を開けずに、背広のうちポケットに封筒をねじ込み、軽く会釈をしてそのままホテルを後にした。
車に乗り込み、一呼吸おいて、十無は封筒を内ポケットから取り出した。
「トム、なんて書いてあるんだ?」
便箋を開いて手にし、じっとしている十無を見かねて、丸さんが声をかけた。
「……俺と過ごして楽しかった、というようなことが書いてあるだけでした」
「ふざけた女だ!」
「そうですね……」
十無は便箋を握り締めて上の空で返事をした。
便箋に走り書きのように書き綴ってある彼女の文章が、十無は気にかかった。
『十無へ。女性としてあなたと過ごせたこの数日間は、とても楽しかった。十無は真面目な刑事だね。でもあんまり融通が利かないと、彼女できないよ。商売柄、何処かで会うことがあるかもしれないけれど、その時はお手柔らかに』
商売柄って……。やはり泥棒なのか。それに、女性として? まるで自分が男だとでもいうような……。でも、まさか。抱き締めた時のあの細い肩は。あの柔らかい唇の感触は。俺を散々振り回しておいて、このまま俺の前から姿を消すのか。君は一体何者なんだ!
十無は何が何でも、もう一度彼女に会いたかった。会って確かめたかった。あの夜のことは全て偽りだったのか、と。
しかし、同時に会うのが怖いとも思っていた。もし、万が一、彼女が男だったら。どうしたらいい?
皮肉たっぷりの小馬鹿にしたような文面だったのだが、十無には皮肉が通じなかった。
十無は窃盗犯を追う刑事という前に、恋する男として彼女を追いかけていた。
北山留美を騙る彼女は、藤田邸のダイヤと共に消えたのだが、同時に東十無のハートをも盗まれたのだった。
結局、羽田空港では彼女を見つけ出せなかった。『同伴』の若い男も現れなかったと、午前十一時過ぎに東署に連絡が入った。
搭乗名簿には、当然のことだが、『北山留美』の名は無かった。
仮に二人が同一人物であるとしたら、変装の得意な人物ということになる。そうであれば、どこかで再び変装したという可能性もある。
藤田邸からは手掛かりとなるようなものは一つも出てこなかった。目撃者もいない。
念のため、園田豊子の居室も調べられたが、ダイヤは出てこなかった。
事件発生から三日が過ぎようとしていたが、何の進展もなく、捜査は暗礁に乗り上げた。
取り逃がしてしまった。これで、Dにも彼女にも会うことはないだろう。
手土産なしで東京に帰らなければならない。いや、手土産どころか、新たな事件まで背負い込んで、未解決のまま帰らなければならないのか。
Dについて分かったことといえば、複数犯、三人グループの可能性があり、そのうち二人、または一人が女ということと、Dの靴のサイズくらいか。しかし、足跡も彼女が仕組んだことで、事実とは違うかもしれない。
「トム、気落ちするんじゃないよ。Dという泥棒を確認できたんだ。後はじっくりと追い詰めるだけだ」
「はい……」
「……それにな、女なんてごまんといるんだ。あんた、見栄えがいいんだから、黙っていてもそのうちいい女ができるさ」
東署内の自動販売機の前で、丸さんは缶珈棑を二つ買い、廊下脇の椅子に座っている十無にその一つを渡して隣に腰掛けた。
丸さんなりに心配してくれているのだろう。そのぶっきら棒な慰めの言葉に、十無は少し気持ちが暖かくなって微笑んだ。
「後のことは俺達に任せろ。何か新しいことがわかったら連絡するから」
「はい……」
Dを見失ってしまった今、十無はすっきりしない状態で東京に帰らなければならなかった。
「もう旭川を発つのかい?」
「ええ、課長に挨拶してから行こうと思います」
「そうか……なあ、しつこいようだが女に気をつけろよ。あんた、純粋そうだから、ころっと悪い女に引っかかりそうで心配なんだ。女ってのは魔物だからなあ」
丸さんは立ちあがり、缶珈棑をくいっと空けて真顔で言った。
「余計な心配をかけさせてすいません。今回の件で散々だったので、当分、女性は懲り懲りです」
十無はおどけて肩をすくめた。
「トム、あんたは免疫がなさ過ぎる。気を悪くしないで聞いてくれよ。あんたみたいな純粋培養のお坊ちゃんは、署長あたりにいいとこのお嬢さんでも紹介してもらった方が身のためだ」
十無は違いますと、反論したかったが、年上の丸さんを立てて、肯定も否定もせず、苦笑いを口の端に浮かべて黙って聞いていた。
「……年寄りの戯言だがな。じゃあ、気をつけて帰りなよ」
丸さんは背中を向け、右手を上げてひらひらとさせながら、ゆっくりと刑事部屋に戻って行った。
ずけずけと勝手なことを言って行ったなと十無は思ったが、丸さんが言うと嫌味がなく、つい素直に聞いてしまう。
「でも、俺ってそんなに、見ていて危なっかしいかな」
十無は不本意にも箱入り娘、もとい箱入り息子のように丸さんに言われ、不満そうに呟いた。
旭川に来てこの一週間、目まぐるしく色々な出来事が起こった。
Dの予告状、謎の美女、北山留美。行方をくらました川北美智と山本卓也。盗まれた現金、ダイヤ。
そのどれもが不消化で問題は山積していた。
旭川での手掛かりや目撃情報の収集は丸さんに任せるしかないが、東京で俺は、Dの尻尾をつかむことができるのだろうか。何の手掛かりもなく探しても、海に落としたコインを探すようなものだ。
十無は自然とため息が出た。
三月下旬、十無は後ろ髪を惹かれる思いで、春の気配を感じ始めた雪解けの街、旭川を空路、後にした。
午後六時過ぎ、日がかげってきていたが、離陸して間もなく、飛行機の窓から見えたのは、なだらかな丘陵地帯の田園風景に広がる、白と黒のまだら模様だった。
黒いところは雪解けを早めるための、融雪剤を散布した部分らしい。
青々とした夏の風景も良いが、これもまた絵になり美しい。
今度は仕事ではなく、観光で来たいものだと十無は思った。
座席は三分の一ほどの空席があり、隣には客がいなかったので、十無は隣の座席に脱いだコートを置いてゆったりと座った。
午後八時前には羽田に着く予定だ。約一時間四十分の空の旅。うとうとしている間に到着するだろう。
十無はこの一週間の緊張していた糸が切れたように、急激に睡魔に襲われた。
シートの背もたれを後ろに目一杯倒し、一分も経たないうちに深い眠りについた。
「……さん、刑事さん」
夢うつつの中で、十無は誰かに呼びかけられ、横になったまま重い瞼を開けた。
「刑事さん」
十無は状況が理解できなかった。十無の傍らに座っているのは、北山留美だった。
「きみ……留美さん?」
十無は飛び起きた。
そんな馬鹿な。ここに北山留美がいるはずがないじゃないか。俺はまだ夢を見ているのか。
その『彼女』は笑みを浮かべて、こちらを見ている。
朝一番の飛行機で、東京へ逃亡したのではなかったのか。
「いや、北山留美ではない。君は……何者だ」
少し冷静さを取り戻した十無は、刑事の顔で冷ややかに言った。
「私だって驚いているんだ。だって、同じ飛行機に刑事さんが乗っているから」
名前は名乗らず、にっこり微笑んでその『彼女』は言った。
偶然会った友達にでも話しかけるような口振りだ。警察から追われているという意識がないのか。どういうことだ。
よく見ると、その『彼女』は、見た目は北山留美だが、雰囲気が違う。悪戯っ子のように目を細めて笑う『彼女』は、今までの北山留美とは別人だった。
漆黒のロングヘアはそのままに、服装はスラックスにトレンチコートを羽織り、さながら男装の麗人といったところだ。
おしとやかなお嬢様ではなく、仕草がまるで少年のようだった。粗雑な言葉使いに、アルトの声。
じっと黙って動かずにいれば、初めて会った時の、守ってあげたくなるような深窓のお嬢様、北山留美なのだが。
この『彼女』の変容ぶりに、十無は驚きを隠せなかった。
「で、事件は解決したの?」
「解決したのかって、きみ……」
「ああ、まだなんだ、やっぱり」
「当たり前だ! 何を考えているんだ」
こんな蓮っ葉な奴に振り回されていたのかと思うと、十無は段々腹が立ってきた。
「おい、羽田に着いたら、このまま署に同行してもらうぞ」
十無はそう言って凄み、『彼女』の腕を掴んだ。
「痛いなあ、離してよ。ちょっと待って、どうしてそうなるの」
「お前、自分の立場がわかっているのか?」
「どういうこと?」
「窃盗容疑がある。参考人として来てもらう」
「ええっ、どうして?」
「お前に、Dではないかという疑いがある」
「Dって、あの女怪盗の? それはありえない。だって、私は男だから」
その『彼女』……彼はさらりと言ったのだが、十無はそれを聞き流せなかった。
「男なのか!」
ああ、俺は男相手に交際を申し込もうとしていたのか。それに、俺はこいつとキスまでしてしまったのだ。最悪だ!
「どうしたの?」
赤くなったり青くなったりしている十無に、彼は不思議そうに顔を覗き込んだ。
「涼しい顔をして、散々人をこけにして! 北山留美も一緒に泊まっていた男も、お前だな?」
「こけにしてるつもりはないけれど」
「じゃあ、趣味で女装をしていたとでも言うのか?」
「そう、私には女装の趣味がある」
彼は不敵な笑みを浮かべた。
「おまえ、Dの仲間なのか? 俺をかく乱させるためにこんなことをしたのか?」
「Dのことは知らない、会ったこともないし。噂は聞いているけれど」
「大体、どうして堂々と俺の前に現れるんだ!」
「だって友達を見かけたら、普通、声をかけるでしょ?」
彼は悪びれず、そう言った。
「俺はお前の友達でもなんでもない! おまえ、いったい誰なんだ!」
「ああ、ごめん。私はアリア、宜しくね、刑事さん」
「ありあ?」
「そう」
「苗字は?」
「いいじゃない、そんなこと」
「よくない、これは本名じゃないな?」
「私のこと女だと思ったのなら謝るけれど、だからって犯罪者扱いしないでよ」
「あくまでもしらを切るのか。まあいい、署でじっくり話しを聞かせてもらうからな」
「警察なんて行かないよ。何もしていないのに」
「しらばっくれるな! ダイヤを狙うために、藤田和輝に近づいてダイヤのありかを探っていたんだろう? まず別荘にダイヤがあるのか予告状で確認した。そして、偽物だとわかり、藤田邸にダイヤがあることをDに連絡して伝えて家政婦に扮していたDが盗みを働いた。だが、肝心のダイヤだけは別の場所にあり盗めなかった。それで警戒を緩めるために、俺を飲みに誘ったんだろう?」
「違う」
「何が違うというのだ!」
「……刑事さん、取引しない?」
「俺は、犯罪者と取引なんかしない」
「犯人を捕まえたいでしょ?」
「当たり前だ。だからこうしてお前を連行するんだ」
「だから、犯人はDじゃないって」
「他に真犯人がいるというのか?」
「そういうこと」
「話してみろ、聞くだけ聞いてやる」
「私のことをこれ以上詮索しないで、不問にしてくれたら教えてあげる」
自信たっぷりにアリアと名乗るその男が言った。十無が絶対この話に乗ってくると、確信しているような態度だ。
しかし、聞きだしてから約束を破ったからといって、文句を言われる筋合いはない。何も問題はないだろう。
「よし、いいだろう。本当に真犯人はいるのか?」
「うん……園田豊子が犯人」
「あの家政婦が?」
「ダイヤはね。現金は違う誰かだけれど」
「それはDだな?」
「豊田園子はDの騒動に、便乗したんだと思う。藤田邸で、彼女がお茶を持ってきてくれた時、寝る前に飲んだ梅酒が、睡眠薬入りだったって彼女から聞いたんだけれど、藤田夫妻が毎日習慣で飲んでいたとしても、Dがそんな不確かな方法をとるとは思えない。だって、泥棒が入ってごたごたした日の翌日の夜だよ? 誰かが勧めないと飲まないで寝てしまうこともある。確実に飲ますことができたのは、家政婦である彼女だけだ。藤田豊子のかかりつけの病院に問い合わせて、眠剤服用の有無を確認したほうがいいい」
「だけど、ダイヤは何処に隠した? 隅々まで探したが、彼女の部屋からは見つからなかった」
「そうだね、私だったら、シャンデリアにひょいと引っ掛けて隠すかな」
「え?」
「藤田邸の居間にも、豪華なクリスタルのシャンデリアがあったでしょ。刑事さん、ヒチコックの映画知らない? 『ファミリープロット』。きっと藤田豊子も、同じ手を使ったんだと思う」
なるほど。目の前にあって誰も気に留めない場所。ダイヤを隠すにはもってこいかもしれない。
でも、こんな得体の知れない奴の話を真に受けるのか。
十無が黙っていると、北山留美の顔をしたアリアは話を続けた。
「カードがあったでしょう? 別荘に届いたものと同じだった?」
アリアに指摘され、あっと思った。
カードは大きさも紙質も違っていて、藤田邸にあった方には『D』と印字されていた。
鑑識でそれぞれのカードを詳しく調べたところ、使用しているインクは違っていた。指紋の検出はできず、ワ―プロ打ちされた文字の形は、どちらも標準的なもので同じ字体ということだったため、あまり問題にしなかったのだ。
「Dって、書いてあった?」
「……藤田邸のカードには書いてあった」
「それは、Dだということを強調するために書いたんじゃないかな。Dは自分からは名乗らない。『D』というのは、ダイヤをよく狙う彼女に対して、被害者の間で勝手につけられた通り名だから」
「そうか」
「旭川の東署へ早く連絡した方がいいと思う。と言っても、羽田に着くまでは無理だね」
アリアは意地悪くにやにやしている。
「今の話が仮に本当だとしても、現金のほうはDの仕業だろう? だとしたらお前も共犯だ。やはり同行してもらう」
「あーっ、最初から約束を破るつもりだった? そういうことをするなら、こっちにも考えがある」
「何をする気だ」
「警察へ連れて行くなら、刑事さんが私を押し倒したって話すから」
「そんな嘘、誰も信じるものか。それにお前、男だってさっき言っただろう?」
「ふーん、刑事さんだって女だと思ったんでしょ? 別に男だと言ってもかまわないけれどね。男なのに押し倒されたって言うから。東十無刑事、容疑者の女装した男を脅し、みだらな行為を強要。なんて、格好の三面記事だね。あのホテルのバーテンダーも、私達がいたのを、きっと覚えているね」
「脅す気か?」
「刑事さんが約束を破ろうとするから」
「わかった、わかったよ」
あることないこと、何を言われるかわかったもんじゃない。記事にならないまでも、署内中で好奇の目にさらされそうだ。
十無は仕方なく折れた。
「おい、その格好、どうにかならないのか。紛らわしい」
「あれ? まだ、私のことが女に見える?」
って、そのまんまじゃないか! と、言いたいところを、またからかわれそうなので、十無は言うのを堪えた。
「……おまえ、本当に男か?」
「女だと思うなら、女でいてあげるわよ」
アリアは十無ににじり寄り、肩に腕を回して、北山留美の高いトーンで甘く囁いた。
アリアの顔が十無の目の前、二十センチと離れないところに迫ってきていた。
しかし、その顔は清楚なお嬢様の表情ではなかった。まるで、獲物を狙う猫科の動物、女豹のような鋭い光を宿している瞳。
「私が女かどうか、知りたい? じゃあ、東京に着いたら試してみる?」
くるくると目まぐるしく変容するアリアの態度に、十無は思考が追いつかない。
十無は数秒間、硬直していたが、飛行機の揺れが我に返らせてくれた。
「な、何を……からかうな!」
赤面しながらも、十無は辛うじてアリアを払いのけた。
「ふふん、なーんだつまらない」
アリアは十無から離れて隣の座席に座り直し、ころっと態度を変えた。両腕を思いっきり振り上げて伸びをしながら、アリアは子供が拗ねるような表情を見せた。
投げやりな態度。大人びたことを言ってのける一方で、あどけない横顔。ちぐはぐな印象。
もしかしたら、未成年なのか。
だとしたら、幼さが残る気まぐれで突飛な行動も納得できる。時折見せる挑発的な態度も、一生懸命、背伸びをしているのではないか。
「……自分を粗末にしてはいけない」
思わず、十無はそんな言葉が口をついて出てしまった。
一瞬、困ったような、悲しいような複雑な表情をしたアリアだが、次の瞬間には、からからと笑い飛ばしていた。
「あははっ、何を言い出すかと思ったら、今時、補導員でもそんな臭いこと言わないね」
「おまえを見ていると、自暴自棄になっているように感じる。悪い仲間がいるのであれば、早く手を切れ」
「ふん、大きなお世話だ」
「きっと、家族が心配しているぞ」
「刑事さん、笑わせてくれるね。私の家族……義兄は今の状態をよーく理解しているよ。それどころか、どんどん『仕事』を回してくれる。今回の『仕事』だって、義兄が……」
アリアが途中で口をつぐんだ。
「酷い兄貴だな。弟を犯罪に巻き込んでいるのか」
「……別に、酷くない。義兄は私を大事にしてくれている。義兄は、大切な人。あの人の為だったら、私は何でもする」
十無を見つめるアリアの瞳に、鈍く暗い陰りが見えた気がした。
華奢な体に異常なほどみなぎる決意。彼にそこまで言わせ、こんなにも彼を悲しそうな表情にさせる義兄とは、何者なのか。
二人にはそんなに深く強い絆があるのか。
十無はその会ったこともない『義兄』に、嫉妬のようなものを感じていた。
自分ではそうと自覚がないまま。
「ああ、刑事さんが変なことを聞くから、つい余計なことを話しちゃった。刑事さん、話を引き出すのがうまいね。あ、それが仕事か」
アリアはまた、おどけた態度に一変した。
十無にはそれが、傷口を無理に隠そうとしているように思え、痛々しく感じた。
彼は今の生活から脱したいと、救いを求めているのではないか。
「おい、アリアとか言ったな。お前の人生は誰かのためにあるんじゃない。お前のためにあるんだぞ」
「刑事さん、またお説教?」
「はぐらかすな」
十無は顔をそらそうとするアリアの両腕を掴んだ。
やっぱり、細い腕。本当に少年? 女性ではないのか。
十無は俯いた彼の顔を見つめた。
化粧をしたきめ細かな白い顔。紅潮している頬。つけ睫毛なのか、長い睫毛が瞳を覆っている。黙っていれば何処をどうとっても、女性なのだが。
「刑事さん、腕、痛い」
「ご、ごめん」
「ほら、もう羽田に着く」
十無の肩越しに窓の外を覗き見ながら、アリアが話を逸らした。
暗い窓の外、地上には空をも照らし出すほどの、人工の明かりがまばゆい光を放っていた。
「空には星が見えないけれど、地上には沢山の星があるみたい」
アリアは遠い目をして呟いた。
アリアの横顔が寂しそうだった。
守ってあげたい。
十無は思わず、そんな衝動に駆られた。
彼はその華奢な体で、虚勢をはって生きてきたのだろうか。犯罪に誘う悪い仲間にもまれ、片意地張って生きてきたのか。
素直な表情を隠し、大人をけん制して誰にも頼らずに。
警察官として、青少年を更生させたいという単なる責務を超えた感情。これは同情なのか。それとも……。
ぼうっとしている十無を、アリアが不思議そうに見ていた。
「刑事さん、座席ベルトしたほうがいいんじゃないの」
「え? ああ……」
いかん。俺は何を考えている。どうしたというのだ。外見に惑わされるな。彼は男だ。いや、それ以前に被疑者だ。彼の更生は、俺が心配するより少年係に任せればいいのだ。
間もなく、飛行機は着陸態勢に入り、ゴオッという音と共に着地し、ゆっくりとブレーキがかかった。
機内の乗客は、早々に荷物を手元に置き始め、降りる用意を始めた。
「刑事さんの荷物はこの鞄だけ?」
「そうだ。おまえは?」
「送ったから、何もない」
「どこへ?」
「自宅だけど」
「住所は?」
「内緒。それより、早く旭川に電話したら」
「言われなくてもするから、余計な心配をするな。お前にはまだ訊きたいことが山ほどある、逃げるなよ」
「しつこいなあ」
アリアは大袈裟なため息をついた。
十無はタラップを降りながら、携帯電話で旭川東署の叔父に連絡を取って事情を伝えた。
「課長に頼んだから、後のことは大丈夫だろう。さて、次はお前だ」
「捜査協力者に向かって、そういう口の利き方はないと思うけれど」
「お前の疑いが晴れたわけではない」
「融通が利かないなあ」
空港の建物までバスで移動する間も、十無はがっちりとアリアの側についていた。
アリアも観念したかのように、大人しく並んで歩いていたのだが、店が並ぶ、人ごみの中を歩いていた時、アリアが突然走りだした。
「おいっ! 止まれ!」
そう叫んでも止まるはずもなく、十無も慌てて追いかけた。
電車の改札口を通っているのを見つけ、十無も乗車券を買おうと販売機に駆け寄りながら、財布を入れていた懐に手をつっこんだ。
「ない!」
懐にあるはずの財布がなかった。
「まさか、あいつ!」
そう、十無が寝ている間にアリアが掏り取っていたのだ。
「くそっ、やられた」
アリアを乗せた電車は、十無の目の前を悠々と走り去ったのだった。