7・逃走と誘惑
川北美智の居室は、案の定、もぬけの殻だった。
手掛かりになりそうな目ぼしい物は何ひとつ残っていなかったのだ。
まんまとやられた。かなり以前から狙っていたのだろうか。用意周到に計画されている。状況からいって、あの家政婦と運転手はグルだったと考えるべきだろう。
「こりゃあ、俺たちの手におえないホシかもしれんな」
丸さんがため息をついた。
本庁が出張ってくることになるのか。それだけは避けたい。このヤマは何とか自分達で片をつけたい。
Dを目前にして、それも取り逃がした状態で、他の奴にこの件を引き渡したくない。
十無は気ばかりが急いていた。
二人は川北美智の部屋を出て、重い足取りで廊下を歩いた。
十無の携帯電話が鳴った。
「十無か? 若い女から連絡があった。どうしても直接話したいことがあるといっていたぞ。何処かで女を引っ掛けたのか?」
電話は刑事課課長である、叔父の東俊介からだった。十無が何と答えていいのかと絶句していると、課長は話しを続けた。
「まあ、それは冗談だが。北山留美という女性が、大至急連絡がほしいとのことだ。今回の事件に関係があるのか?」
「ええ、まあ」
またもや、十無は無意識に言葉を濁してしまった。叔父から彼女の携帯電話の番号を聞き、その場で電話を掛けた。
丸さんもじっと十無を見守っている。
十無は自分でも、鼓動が高鳴るのがわかった。また彼女の声が聞ける。そう思うだけで気持ちが浮き立った。
「刑事さん?」
待ち構えていたのか、呼び出し音が二度も鳴らないうちに、彼女の声が聞こえてきた。
「北山さん、何処にいたんですか?」
「和輝さんがしつこいから、ホテルはでたらめを教えたの。心配をかけさせてしまったかしら。ごめんなさい」
そういうことだったのか。十無は彼女が逃げたわけではないとわかり、ほっとしたと同時に顔が思わずほころんでしまった。
藤田和輝のしつこさから逃れたかった。そう彼女は言ったのだ。藤田和輝に好意を寄せているわけではなかったのだ。
「……さん? 刑事さん?」
「あ、すいません。考えごとをしてしまって」
「私、あのダイヤのことで、ちょっと引っ掛かっているんです」
「あなたがいなくなった後、ダイヤは偽物だと気がつきました。あなたは疑われていたんですよ?」
「違います! あのダイヤは私が見た時から偽物でした」
「なんだって?」
「私、宝石は少し詳しいんですけれど、あれは間違いなく偽物でした。でも、和輝さんの気分を害してはいけないと思って、あの場では何も言えなかったの。ごめんなさい。早くお知らせした方がよかったんでしょうけれど……」
留美は言葉を濁した。
北山留美の言葉を真に受けて良いのだろうか。行方をくらましている家政婦の川北美智がDだとしたら、北山留美は本当にシロなのか。わざわざ連絡をしてきた理由は何か。
十無は私情を挟まないように、冷静に判断しようと勤めた。
「何故、今頃そんなことを言うんですか? 藤田さんが寝入ってしまった時でも言えたじゃないですか」
「あの、それは……」
「このままでは、あなたも参考人として事情聴取しなければなりません」
「……だって、刑事さん……十無さんと会えなくなるでしょう?」
「――」
十無の頭は真っ白になった。
北山留美が言ったことを理解するのに、一分程度かかった。頭の中で、彼女の言葉が壊れたテープの様にリピートしている。
『十無さんと会えなくなるでしょう?』
「おい、トム、どうした?」
微動だにせず、携帯電話を耳に当てたまま固まっている十無に、丸さんが心配顔で声をかけ、十無はやっと我に返った。
「と、とにかく、居場所を教えてください」
「私から行きます。藤田さんの自宅でいいのかしら?」
「いえ。じゃあ、東署へ来てください。私から連絡しておきますから、そこで担当の者に話してください」
「……私、十無さんにお話したい」
「それは……」
十無は嬉しいと同時にかなり困惑していた。
こんな状態で彼女にあったら冷静さに欠けてしまい、自分はまともに仕事ができないのではないか。北山留美と会ってはいけない。
そんな判断をしている一方で、会って彼女と話したい、側にいたいという強い欲求がこみ上げてぶつかり合っていた。
「だめ、ですよね。私、知っていることを黙っていたんですもの。刑事さんにご迷惑ばかりかけて。嫌われても当然ですよね」
「いや、そうではありません」
「じゃあ、会ってくれます?」
北山留美の声のトーンが上がった。
嬉しそうな彼女の声に、思わず十無は「わかりました」と返事をしていた。
「……北山留美がここへ来ます」
電話を内ポケットにしまいながら、十無は丸さんと目を合わさずにそう言って、電話でのやり取りを伝えた。勿論、十無に会いたいという彼女の言葉は伏せて。
十無はじっと自分を観察しているような丸さんの視線を感じた。
その視線は、まだ隠していることがあるのではないかと言いたげだった。
「しかし、連絡してくるというのは奇妙だな。まあ、何にしても、協力しにわざわざ出向いて来るんだから、クロではないかも知れんなあ。だが、シロとも言い切れない、グレーゾーンだ。北山留美は注意しておいた方がいい。くれぐれも」
「……」
そんなことはわかっていますと、十無は言いたかったが、あんたの考えていることは全てお見通しだよと、言わんばかりの丸さんの忠告に、言葉を返せなかった。
そうこうしているうちに、藤田夫妻が帰宅してきた。
「そんな、まさかあの娘が……」
「ああ、奥様。気をしっかり」
藤田夫人は若い家政婦が行方をくらましたと聞き、顔色を失い、居間のソファにくず折れるように座り込んだ。家政婦の園田が、その傍らで夫人の肩に手を置き、慰めの言葉をしきりにかけている。
藤田氏は、そんな夫人を横目に、真っ先に寝室の金庫前へ走った。
そして、金庫が空だということを確認すると、信じられないというように、目を丸くして額に玉の汗をかき、動揺を隠せないでいた。
「ばかな、どうしてここへ……別荘のダイヤは狙わなかったのか?」
「藤田さん、息子さんがダイヤをこっそり持ち出していることを知っていたんですか? それに、狙われることを知っていたような口振りですね」
後についてきた十無が背後から声をかけたのだが、藤田氏は飛び上がらんばかりに驚いた。
「せ、倅はしょっちゅうあれを持ち出してしまうんでね。困った奴です」
「高価なダイヤだと聞いていますが、無用心ではありませんか?」
「うむ……」
藤田氏は押し黙ってしまった。
「実は、別荘にあったダイヤを拝見しましたが、硝子玉でした」
十無はわざと、予告状のことには触れずに言った。
藤田氏の汗が、一層、吹き出たように見えた。
「それは、倅が無くしては大変だから……」
やはり、藤田氏は初めからダイヤは偽物だと知っていたのだ。だが、それだけのことであれば、こんなに動揺はしないだろう。
「Dという泥棒をご存知ですね?」
「いや、知らん」
即座に否定したが、藤田氏は瞬く間に青ざめた。
知っていたのは一目瞭然だった。とすれば、後は考えられるのはこれしかない。十無は藤田氏に鎌を掛けてみた。
「藤田さん、Dに目をつけられるように、わざと息子さんがダイヤのことを言いふらすように仕向けましたね?」
「いや、そんなことは……」
「ダイヤに多額の保険金をかけていませんか?」
「……」
藤田氏はうなだれたまま、否定しなかった。恐らく、偽物をDに盗ませて保険金をせしめる魂胆だったのだろう。
「これは立派な保険金詐欺です。今回は他の物が盗まれ、本当に被害者となってしまったので目を瞑りますが、もうこんな危険な真似はしないでください。いいですね? それに、息子さんにも早くそのことを伝えてください。泥棒に入られて偽物にすり替えられたと思い込み、気を落としています」
そんな十無の忠告が耳に入ったのかどうか、藤田氏は相変わらず青ざめている。
「ところで、この金庫には何が入っていましたか?」
「五千……五十万円の現金です」
「五千万円ですね?」
「とんでもない! 五十万です!」
藤田氏は大きく首を左右に振り、力強く否定した。
今回もまた、脱税の金か……。
十無は部屋の入り口に立ってことの成り行きを見守っていた丸さんに、顔を向けて苦笑し、小さくため息をついた。
「藤田さん、もう一つ確認したいことが。ダイヤは無事ですか?」
藤田氏は十無の言葉にはっとして、顔を上げた。
「直ぐに確認してください!」
青ざめた顔を一層青くして、藤田氏は寝室を飛び出し、隣の書斎へ走った。
藤田氏は書棚の一角にある本を四、五冊まとめて取り出し、その奥に姿を現した、隠し金庫を開けた。
「ああ、大丈夫だ!」
ダイヤが無事だとわかると、ようやく、藤田氏の顔に笑みが戻った。
「ほう、これは、うまくしたものだ。本の後ろに隠し金庫とは」
丸さんが感嘆の声を上げた。
「小さい金庫でしょう? このダイヤのためにしつらえたんです」
ほっとしたのか、藤田氏はこのよくできている金庫を自慢げに十無と丸さんに見せてくれた。
「あのお、刑事さん、北山留美さんという方が、お見えになりました。それと、奥様は他のお部屋で休んでいてよろしいですか?」
開け放しのままの書斎に、家政婦の園田が顔を出した。
「今行きます。居間に通してもらえますか。奥さんは休んでいて構いませんよ」
十無はそう返事をし、藤田氏にここで待っているよう伝えて軽く会釈をして、丸さんと共に居間へ行った。
家政婦の園田豊子が北山留美に紅茶を出し、軽く会釈をして下がるところだった。
北山留美は大きなソファに埋まるように座り、部屋を見回していた。
藤田邸は中央に豪勢なシャンデリアが吊るされ、幅広の階段がその横に大きく陣取り、曲線を描いて二階へと繋がっている。
調度品や家具、壁も木目調ではなく、白い塗り壁だったが、藤田夫妻はこのつくりがよほど気に入っているのか、別荘とほぼ同じつくりだった。
北山留美も、それに気づいて見回していたのだろうか。豪勢なシャンデリアをじっと見つめている。
「あ、十無さん。ご迷惑をおかけして本当にごめんなさい」
十無の姿を見るなり北山留美は慌てて立ち上がり、深々と頭を下げた。
「北山さん、もういいですから頭を上げてください」
そして十無は一緒に居間へ来た丸さんをちらりと見て、「すいませんが、私のことは東と呼んでいただけますか?」と、苦笑しながら小声で付け加えた。
やはり、必要以上に親しいと思われては差し障りがある。
「あら、ごめんなさい」
北山留美は両手を口に添えて頬を染めた。
そんな仕草にも十無は愛らしさを感じ、微笑んでしまいそうになったのだが、丸さんの目もありポーカーフェイスを通した。
十無は北山留美と向かい合わせに座ったのだが、丸さんは北山留美が座っているソファの背後に立ち、彼女を観察しているようだった。
「あの……今、家政婦さんから聞いたのですけれど、ここに泥棒が入ったって本当ですか?」
心なしか、十無は彼女の瞳がきらきらしているように感じた。また、推理小説かぶれの好奇心がうずきだしたのだろうか。
「昨夜のことです……」
「ええっ! じゃあ、Dという泥棒ですか?」
「それはなんとも……あと、北山さん、やはりダイヤは初めから偽物でした」
「まあ、やっぱり。これで私の疑いは晴れたのかしら」
「はい……」
十無は今のところはと、言いかけて止めた。彼女の背後にいる丸さんが、余計なことは言うなと目で合図していた。
「良かった」
そう言って、素直な笑顔を見せた北山留美に、十無はまだ疑いをかけなければならないのかと思うと、少し胸が痛んだ。
「ダイヤが偽物だと見抜くとは、随分、宝石に詳しいんですな」
彼女の背後から丸さんが声をかけると、北山留美はびくりとして、「ええ」と、ぎこちなく頷いた。
「母と一緒によく宝石店へ行くものですから」
「ほう、それで目が肥えているんですか。ところで、お嬢さんは目白にお住まいだとか。あの辺はいいですねえ、閑静な佇まいで。トム、あんたも東京だろう?」
「そ、そうですけれど……」
彼女に探りを入れるように、丸さんがいきなり十無に振ってきたのだが、それ以上言葉にならなかった。
北山留美の自宅は存在し、偽名ではないことも確認済みだ。丸さんは、他に何を確認しようとしているのだろうか。
「お嬢さんの自宅も大きいのでしょうな」
「いえ、そんなには……」
「お父さんは何をしている人でしたかな?」
「貿易会社です。でも、私、会社のことはよく知りません。父はあまり仕事のことは話さないので」
矢継ぎ早に質問する丸さんに、北山留美は少し困惑し、美しい顔を曇らせた。
「いやいや、すいません。お嬢さんのような方とお会いする機会がないもので、ちょっと興味がありましてね」
「いえ、いいんです」
後ろにいる丸さんに向かって、僅かに笑みを返した彼女の態度が、十無には怯えているようにも見えた。
「あの……東刑事さん、どうしてダイヤは偽物だったんですか?」
「息子さんが持ち出すことを藤田氏が予想していたようです。で、本物は別の所に……」
またもや、丸さんが口に人差し指を当てて、十無にそれ以上は話すなと合図した。
「……守秘義務ですね」
「はい……」
十無が言う前に、北山留美が悪戯っぽく肩をすくめて笑って言った。
「私、ここに泊まっています。何かお役に立てることがあれば、いつでも呼んでください」
十無は彼女からメモを受け取ったのだが、そのメモを見て動揺した。
そこにはホテルの電話番号や住所の代わりに、『今夜十時に、駅前ホテルPのバーで待っています』と、記されていたのだった。
「東刑事さん、お願いしますね」
十無が何も言えずにいると、北山留美が意味ありげにじっと見つめて念を押した。
「はい……」
十無は気の抜けたような返事をした。
刑事の俺ではなく、俺個人に会いたいということか。俺なんかと?
呆然としたままになった十無の頭には、仕事中だという意識はすっかり消え去っていた。
「じゃあ、私はこれで失礼します」
彼女が立ち上って帰ろうとしたのだが、丸さんがそれを制した。
「一ついいですかね、お嬢さん。Dという泥棒のこと、どう思います?」
「どうって……女の泥棒だと聞きましたけれど、やっぱり怖いです」
「いえね、今回の事件はDと名乗る泥棒の仕業ではとあたりを入れていましてね。ただ、こちらとしては身近に共犯者もいると踏んでいるんですがね。どう思いますか。あなた、推理小説がお好きだとか」
「はあ、小説は好きですけれど、実際の事件について意見を言うなんて、とても素人の私には……」
丸さんは北山留美の表情を注意深く窺っていたが、彼女は戸惑っているものの、『身近に共犯者』と聞いても、顔色一つ変えなかった。
「そうですか。あなたの家も狙われるような立派なお宅なようだから、Dの噂を耳にしたことはありませんか?」
「いいえ、知りませんでした」
「お引き止めしてすいませんねえ」
丸さんは穏やかな笑顔を浮かべ、玄関先まで北山留美を送った。
「どうも、引っかかるなあ」
「何がです? 父親の職業も合っていたじゃないですか」
「だが、そんなことは調べておけばわかることだ」
「じゃあ、彼女は北山留美に成りすましている、別の誰かだとでも言うんですか? だとしても何のために? ダイヤを狙ってですか? 堂々と我々の前に現れてしまったら、ダイヤを盗むなんてことは不可能でしょう。そんな危険を冒してまで盗みますか。現金を盗んだ時点で一緒に逃げるはずです」
「それはなんとも言えんが、信用するには何か……」
「勘ですか?」
「まあ、そんなところだなあ」
明らかに容疑者と断定できる二人が、現在逃亡中なのに、北山留美を疑う理由があるのか。
共犯の可能性があるのではと、疑うことをやめない丸さんに、十無は少し苛立った。
「そんなに言うなら、彼女の自宅から写真を手に入れますか?」
「ああ、それがいいかもしれん」
十無は勢いで言ってしまったのだが、丸さんがすんなり同意したので、写真を取り寄せる羽目になってしまった。
面倒な仕事を一つ増やしてしまったと十無は思ったが、そんなことは苦に感じないほど気持ちは高揚していた。
北山留美と今夜二人で会う!
仕事一筋に打ち込んできた十無だったが、北山留美と出会って何かが変化していた。
色恋などにかまけていたら、ろくな目に遭わない。そんなことに時間を費やすのであれば、事件の一つでも解決できるよう、仕事に精を出していた方が充実した毎日を送れる。
十無は学生時代の苦い経験から、今までずっとそう考えていたはずなのだが、その考えが見事にひっくり返っていた。
いくら自分で否定しても、北山留美を目で追い、彼女の仕草や行動がいちいち気にかかるのだ。
説明し難い、こんな気持ちは初めてだった。愛しい人。十無は今まで、単にそう思える人に出逢っていないだけだったのだ。
そして、気持ちが浮ついた十無は重大な見落としをしていた。
北山留美には藤田邸に泥棒が入ったことを知らせていない筈なのに、十無が藤田邸にいることを何故知っていたのか。
恋に目覚めた東十無は、普段の冷静さを失い、そのことを疑問にすら思わなかったのだ。
その日の夜、もう三月も終わろうとしているのに、夜風は身を切るような冷たさだった。それどころか、雪も積もるほどに降りしきり、本当に春が来るのかと心配になるような空模様だった。
氷点下五度。タクシーを降りると、街角の電光掲示板の気温表示が目に付いた。気温を知ると一層寒く感じられ、東十無はコートの襟元を閉め直して肩をすぼめて歩いた。
一旦雪が解けた車道は、がたがたのまま凍り、道行く車はのろのろと進んでいる。
平日の夜、寒さのせいもあってか、街の中心部は繁華街へ飲みに繰り出す人も少なく、閑散としていた。
約束の時間、夜十時を回ろうとしていた。
十無は旭川駅前にあるホテルへ向かっていたのだが、ホテル前にタクシーをつけず、わざわざ道路二本分ほど手前で降りたのには理由があった。
丸さんが俺の後をつけている。
タクシーの背後にいる、一台の車が十無の視界に入ったのだ。
間違いなく丸さんの車だ。俺は信用されていないのか。
十無は丸さんの考えを確認したかった。
人通りが少なく影になるものもない、道幅の広い買い物公園を歩くと、一人での尾行は厳しい。ましてや、知った顔の人間をつけるのは容易ではない。
少し離れて、十無の背後を歩いていた丸さんが、観念して声をかけてきた。
「トム、わかっているんだろう? 降参だ」
「丸さん、人が悪いですよ」
十無が振り返ると、丸さんが走りよって来た。
「いや、すまん、すまん。だが、あんたのことが心配だったんだ。北山留美と会うんだろう?」
「……はい」
「あのお嬢さんは、危険だ」
「どういうことです?」
「トムは女に免疫がなさそうだからな。手玉に取られるぞ」
「まるで、女を知り尽くしているような口ぶりですね」
丸さんの口から意外な言葉を聞き、十無は茶化すように言った。
「仕事でいろんな女と接してきたが、北山留美は作り物だ。あれは、あの女の本当の姿ではない」
「どうしてそう思うんですか? 何か怪しいですか」
「彼女の行動は、全て計算しつくされているように見える。そこに、トム、あんたが引っかかった」
「え?」
意味が分からず、十無は聞き返した。
「言いづらいんだが……北山留美は、最初から、トム、あんたを丸め込もうと計画して近づいてきたんじゃないかい?」
「……そんなことをして彼女に何のメリットがあるというのですか」
まさか……彼女が何か企んで俺に近づいてきたというのか。
十無は丸さんの忠告を素直に聞く気にはなれなかった。
あんな清楚で大人しそうな女性が、そんなことをするものか。
「百歩譲って、丸さんの言うように彼女が良からぬことを企んでいたとしても、俺は大丈夫です」
「まあ、そうだな。大丈夫だと思うが、気をつけることだ。事件関係者と、特別な関係になることは避けた方がいい。これ以上の口出しはしないよ。じゃあ」
丸さんはそう言って、十無の肩を軽く叩き、路駐している自分の車へ、小走りに去っていった。
彼女に会えばはっきりすることだ。万が一、事件への関与があるのであれば、躊躇なく彼女を逮捕するまでだ。
自分でも、グレーゾーンの彼女に私的なかかわりを持つことに対していくらか不安を感じていたのだが、丸さんに指摘され、水を差された十無は、意地になって逆に開き直ってしまった。
俺は私情で仕事をおろそかにはしない。
十無は自分に言い聞かせるように、頭の中で何度か呟いた。
そんなことをわざわざ反芻するのは、裏を返せば自信がないということの現われなのだが、十無にはその自覚はなかった。
北山留美はホテル最上階のバーで、ブルーの液体で満たされているカクテルグラスを指先で弄びながら、ぼんやりと夜景を眺めていた。
「すいません、待たせましたね」
「もう来ないかと思いました」
声をかけると北山留美は首を傾け、目を細めて微笑んだ。
ショットバーには他に客はいなかった。一面硝子張りのため、カウンター席の一番端に座っていた彼女は、夜景をバックに一枚の絵のようだった。
服装のせいだろうか、今までの彼女とは何処か違う印象を受けた。
黒い布地の裾が足首まであるワンピースは、しっとりと体に吸い付くように体の線を強調し、肌が露わになっている部分はないのだが、妙に艶めかしい。漆黒の長い髪に真紅の口紅が、学生とは思えない、成熟した女を感じさせた。
そして、ハイネックの襟元には、プチダイヤのついたネックレスが美しく輝き、豊満な胸を引き立てていた。
「このネックレス、可愛いでしょ? 母からのプレゼントなの」
「え、ああそうですか」
つい、胸元に目線がいっていたことに、十無は赤面した。
「大学生にもなって、アクセサリーが親からのプレゼントだなんて、ちょっと寂しい女よね」
それに気づかないのか、北山留美は続けてそう言い、屈託なく笑った。
十無は彼女の隣の席に着き、ビールを頼んだ。
「あら、バーに来てビール?」
「あまり詳しくないので……いけませんか?」
「いいえ、でもたまに違うものもいいでしょう? 次は私が選んでもいいかしら」
「お願いします。あの、北山さん、何故あんなメモを私に……」
「留美でいいです」
「……留美さん、何故」
「いけませんか?」
留美は十無の言葉を強い口調で遮り、熱を帯びた視線を十無に注いだ。
「いや、そうではないのですが」
いくら鈍感な男でも、その瞳が何を意味しているのかがわかるくらい、留美はあからさまにじっと十無を見つめた。
とうとう十無は、どうしたら良いのかわからなくなり、その視線から顔を背けて、苦し紛れにビールを一気に飲んでしまった。
丸さんの言うとおり、俺は今夜ここに来ない方が良かったのではないか。自信がなくなってきた。留美さんといると、何もかも、どうでもいいように思えてしまいそうだ。たとえ、彼女が犯罪に加担していたとしても。
北山留美には不思議な魅力があった。守ってあげたくなるような、はかない印象かと思えば、事件に首を突っ込む好奇心旺盛な一面もある。そして、今夜の妖艶で積極的な彼女。
十無が黙ったまま、空のグラスを握り締めていると、いつの間にか彼女の注文したカクテルが、二人の間に置かれた。
それは、蘭の花が挿され、パイナップルとチェリーが飾られた、鮮やかな赤いトロピカルカクテルだった。グラスの端にストローが二本立っている。
「ご一緒していい?」
「は、はい」
十無が頷くと、留美はストローに手を添えて、口をつけた。
「美味しい。十無も飲んでみて」
いつの間にか、十無と呼び捨てになっている。
言われるままに、十無もストローを口にした。留美も顔を寄せて一緒に飲んだ。
留美の顔が直ぐ間近にあった。色白の顔に伏せた瞳の、黒く長い睫毛が美しい。
十無はカクテルの味どころではなかった。
ストローに口をつけたまま、留美は伏せていた瞳を十無へ向けた。
お互いの鼻先がつきそうな位置から、十無を見つめる瞳。視線を逸らすにも逸らせず、留美の瞳に釘付けになった。
彼女を思うあまり、冷静な判断力を損なうのではないか。そんな、自分の気持ちが恐ろしい。
十無は蛇に睨まれた鼠の心境だった。
彼女の瞳から逃げ出したいが逃げられない。好意を抱いている女性に見つめられて、そんな気持ちになるのはおかしな話だが、今の十無にはぴったりの表現だった。
「私、ここのホテルに泊まっているの」
留美がそのままの姿勢で囁いた。
「そうですか」
「十無、私の言った意味、わかる?」
「意味、ですか?」
そう口にしてから、十無は自分でその答えをみいだして赤面し、正面の夜景に目を逸らした。
これは俺を誘っているのか。
夜景に重なって、ランプシェードに照らされた自分の姿が、窓ガラスに映って見えた。
肩に力が入り、ぎこちなく背筋を伸ばして座る男が、こちらを向いている。
俺はどうしてこうも女性が苦手なんだろうと、十無は自分のことが情けなくなった。
「……私のこと、嫌い?」
「い、いえ」
この場から逃げ出したい。
それが十無の正直な気持ちだった。
彼女をうまくリードできないもどかしさ。このまま彼女の言うように、部屋へ同行してしまいたい気持ちと、距離を置いて接するべきだと思う気持ちが、十無の中でうまく処理できずに混沌としていた。
そうこうしていると、四、五十代くらいの宿泊客らしい男三人が、賑やかに話しながら、少し離れた席に着いた。
時折、同じフロアにあるカラオケボックスから、騒がしい歌が漏れ聞こえもしてきた。
「静かにお話ししたいわ。ね、お部屋でゆっくり飲みましょう」
十無は返事こそしなかったが、留美が席を立つと一緒に席を立った。会計を済ませた時点でイエスと言ったも同然だった。
エレベーターに並んで乗り、ドアが閉まってから留美がそっと十無の腕に手を絡ませて頭をもたれかけてきた。
頭がくらくらしたが、お酒に酔ったせいではなかった。十無は背中にじっとりと汗が流れていた。
エレベーターを降りても、留美はそのまま腕を組んで歩いた。十無には廊下がいやに長く感じられた。
留美が部屋の前で鍵をバックから取り出す間も、十無はまだ迷っていた。
女性が一人で泊まっている部屋に、このまま足を踏み入れていいのか? 本当にいいのか? 被疑者の可能性もまだ捨て切れていないのに。
「どうぞ」
「……」
ドアを開けられても、十無はその場に立ったまま、部屋へ足を踏み入れようとしなかった。
「十無?」
「いや、やはり帰ります。本当は事件関係者と個人的に会ってはいけないんです」
「……まだ、私のこと疑っているのね」
「いいえ、決してそんなことはありません」
「いいんです。仕方のないことです。でも、私……十無のことが好きになってしまったの。迷惑かもしれないけれど」
「迷惑なんてことありません。でも、今は……」
「じゃあ、一つだけお願いを聞いてくださる?」
「何ですか?」
「キス、して」
そう言って留美は眼を閉じた。
自分が少なからず好意を寄せている女性が、目の前でキスを待っている。
十無は今まで経験したことのない状況に戸惑い、熱病にかかったようなもうろうとした状態になっていた。
キス、して。
彼女のその一言に、魔法をかけられたかのように突き動かされ、ぎこちなく留美の両肩に手をかけたまではいいが、十無の動きはそこで止まった。
「十無……」
留美が目を開け、不安そうに十無の顔を覗き込んで首をかしげた。
「すいません、俺……」
十無は赤面しながら、肩に置いていた手をゆっくりと下ろし、俯いた。
やはり、中途半端なことはできない。
「十無」
留美は俯いている十無の頬に、そっと左手を添えた。
留美の左手と自分の肌が触れ合った。留美の手の体温が、心地よく頬を伝ってくる。
十無は眩暈を覚えた。だが、それは嫌な感覚ではない。雲の上を歩くような、足が地に付いていない感覚。
留美は十無を見て優しく微笑んだ。十無はされるがまま、動けない。
留美の顔がごく自然に近づき、十無は瞳を閉じた。彼女を直ぐ側で感じる。
唇に柔らかな感触。
胸の奥が火をつけたように熱くなる。
長い時間、唇を重ねていたように感じたが、実際にはほんの数秒の出来事だった。
「私のこと、嫌いにならないで」
キスの後、顔を隠すように、留美は十無の胸に顔を埋めた。
「嫌いになんかなっていません。俺、留美さんが潔白だということを明らかにします。そして……」
そして、あなたにきちんとお付き合いを申し込みたい。十無はそう言葉を続けようとしたが、段々と声が小さくなり、言葉にならなかった。
「ありがとう、待っているわ」
十無の言わんとしていることを汲み取ったように、留美が顔を上げて嬉しそうに微笑んだ。
十無はホテルを後にして、冷え込んだ青白い夜の街を歩いた。タクシーを拾って帰宅することはできたのだが、高揚して熱く火照っている体には、冷たい風が心地よく感じられ、歩きたい気分にさせた。
恋愛など面倒なだけだ。そう思っていた自分が嘘のようだった。留美さんのことを思うだけで力がみなぎる。彼女のためであれば、寝食いとわず、奔走しても苦にならないだろう。
彼女への嫌疑をなんとか晴らしてあげたい。
そのためには、丸さんの進言通り、東京の北山留美の自宅から写真を手に入れて、本人であると証明しなければならない。
既に手配してあるから、明日にでもそれは確認できるだろう。身元がはっきりし、Dとの繋がりが皆無であれば、潔白は証明できる。
十無は心の底で、北山留美が容疑者一味ではという一抹の不安を抱えていたものの、彼女に対する思いのほうが勝り、警察の専売特許、疑うということを放棄してしまっていた。
今の十無には雪が所々に残る寒々としたもの悲しい雪景色も、綿菓子が街中に散りばめられた美しい光景に映っていた。
十無が仕事以外で、こんなにも気持ちを傾けて情熱を注いだのは、初めてのことだった。
それ故に、この後に十無が受けた衝撃と落胆は尋常ではなかった。