3・事件発生
二十三日の夜は無事、何事もなく過ぎたのだが、東十無にはちょっとした事件が起きていた。
いや、十無にしてみれば、どんな事件よりも大事件だったのかもしれないのだが。
十無は北山留美を直視できない事態に陥っていた。
自分でも情けないと思ったが、こればかりはどうしようもなかった。
彼女と顔を合わせて赤面する、声をかけられて言葉を詰まらせるといった具合だった。
女性が苦手だという意識からずっと脱却できずに、その事実から逃避していた付けが今、回ってきたのだ。焦れば焦るほど、彼女を意識してしまう。
俺は一体どうなってしまったのだ。
十無は今朝からずっと自問していた。意識の底では、それが何を意味するのか分かっていたのだが、否定したい気持ちがそれを認めようとしなかった。
今は勤務中だ、私情を挟むな。冷静になれ。
十無は必死に自分に言い聞かせたが無駄だった。北山留美を近くに感じる度、高鳴る鼓動。
もうすっかり忘れていた感情が、溢れるように十無の心に押し寄せて占領する。
彼女を避けながら、いつしか無意識に彼女の姿を目で追っている。
ティーカップを置く時、前屈みになった彼女の肩から、するりと流れる艶やかな黒髪。笑顔を見せる時に、左手が自然と口元に添えられる仕草。話しかける時、真っ直ぐに相手を見詰める澄んだ琥珀色の瞳。相手を包み込むような、透き通る細い声、ゆっくりとした話し方。その全てがどうしようもなく十無の鼓動を早めてしまうのだった。
この状態では仕事に差し支えてしまう。俺はこの場にいない方が良いのかもしれない。
藤田和輝、北山留美、そして丸さんと一緒に、昼食をご馳走になりながら、仕事に妥協を許さない真面目な十無は、そんな風に自分を追い詰めていた。
藤田のサークル仲間達は、午前中、スキーから戻るや否や、旭川市内のホテルに移ってもらった。始めは文句を言っていたが、藤田がホテル代は自分が持つからと言った途端、皆了承した。
タクシーを乗り合わせて別荘を後にした藤田の友人達を送り出しながら、友人とは名ばかりでいいカモにされている藤田に、十無は少しばかり同情したのだった。
だが、昼食の間中、しきりに北山留美に話しかける藤田和輝を見て、そんな気持ちはあっという間に何処かへ吹っ飛んだ。
こいつ、北山さんだけ残して、二人きりになって好都合とでも思っているんじゃないのか。危険があるのかもしれないのに。
十無は次第に苛々していく自分の感情を、勤めて顔に出さないようにしていたが、声は不機嫌丸出しだった。
「……北山さんも危険ですからここから離れた方がいいのでは」
「一人くらい大丈夫さ。俺が守ってやる。俺、結構体鍛えているから、泥棒の一人くらい俺が捕まえてやる」
藤田は自身満々だ。
「いや、犯人は一人じゃない可能性が……」
「こんなに刑事がいるんだから、何も危険はないだろう? 日本の警察は優秀だからな。予告状出すような間抜けな泥棒をまさか逃がすことはないよな?」
この野郎! 人を小ばかにしたようなことを言いやがって。
ふてぶてしい、嫌味な藤田の言葉に、十無は喉元まででかかった罵声を飲み込んで頭に血が上るのを辛うじて抑えた。
「藤田さんね、何か起こってからでは遅いんですよ? 相手は予告状を出すような大胆な輩です。我々としては、念には念を入れて、安全確保に努めたいわけです。ご理解いただけませんでしょうかな?」
一緒に食事を摂っていた丸さんが、見かねて助け舟を出してくれた。
「そうよね、やっぱり私がいると足手まといですね。興味本位で刑事さんの手を煩わせてはいけないわよね。我が儘を言って、ご迷惑をおかけしてごめんなさい」
「いいじゃないか、大丈夫だって」
「でも、刑事さんの言う通りだと思うの」
留美は少し残念そうにしていたが、それ以上に藤田があからさまに落胆の表情を見せていた。
ここを離れるよう勧めていたはずの十無も、顔には微塵も出さなかったが、藤田同様、落胆していた。
あんなにここに残るといっていた彼女が、素直に応じたのは意外だった。やはり、恐ろしくなったのだろうか。
彼女とは住む世界が違う。これで、彼女と会うこともないだろう。俺にはきっとその方が良いのだ。また波風のない、いつもの生活に戻るだけだ。そう自分に言い聞かせてみたが、十無は何か心に引っかかり、空虚感が残った。
北山留美は昼食を済ませた後、市内のホテルへ移動した。
留美と別れ際、藤田は連絡先を聞きだしていた。ちゃっかり、東京の自宅の電話番号まで聞いていたようだった。
「これで泥棒を逃がしたら、刑事さんの面目丸潰れだな」
藤田はタクシーを見送りながら口の端で笑い、二人の刑事に嫌味を言った。
その夜、張り込み要員の私服警官が二人、増員された。それぞれ四方から、邸宅の周囲に目を光らせていた。深夜一時を過ぎた頃、皆の緊張はピークに達していた。
藤田は緊張した顔つきで何をするでもなしに、居間のソファにじっと座って時計と睨めっこし、管理人夫婦は自室で普段通り就寝していた。
丸さんは二階の部屋から外の様子を伺い、十無は金庫がある部屋のクローゼットに身を潜めて待機していた。
いよいよ、予告状された午前二時になる。厳重に警官が警備している中、いったいDはどういう手を使ってくるのか。
Dが現れれば、今夜、奴の顔を拝むことになるだろう。
藤田の話ではDは女だという。北山留美が窓の外に見た髪の長い女。そいつがDなのか?
各持ち場にいる刑事達との無線でのやり取りでも、住宅街はしんと静まり返って、人の気配はなく、異常なしとのことだった。
午前一時五十九分。十無は腕時計で時間を確認した。このままDは現れないのではないか。それとも、やはりただの悪戯なのか。または真犯人がいるのか。
そんなことを考えていると、長く感じられた午前二時までの時間が、すでに二分ばかり過ぎていた。
「丸さん、変わりないですか?」
「ああ、何も起こらんねぇ」
緊張感のない丸さんの穏やかな声が無線から、返ってきた。外にも確認したが変化はなかった。
悪戯なのか。十無は首をかしげ、クローゼットから出た。
予告状を真に受けた俺が馬鹿なのか。待てよ、ダイヤを確認したのは二十四日が最後だ。藤田と北山さんも一緒に見た。で、丸さんが来て俺はその場を離れ……。
北山留美!
色々と思い起こしていくうちに、十無は青ざめた。
「丸さん、大至急ここへ藤田を呼んできてくれ!」
十無は無線に向かって叫んで、二人をじっと待った。待っている間、時間が数十分に長く感じるほどに焦っていた。
「刑事さん、何かあったのか?」
丸さんと藤田は強張った顔で、走って部屋に飛び込んできた。
「藤田さん、金庫を、早く中を改めてください」
言われるままに、藤田は金庫のダイヤルを慎重に回して、重い扉を開いた。
「大丈夫だ、ダイヤは盗まれていない。なんだ、やっぱり予告状なんて誰かの悪戯だったんだ」
藤田は安堵の笑みを浮かべ、ビロードの袋を右手でぶらぶらさせた。
十無はその手から袋を取り上げて袋ごと床に落とし、ベッドサイドにあったランプを乱暴に掴んでランプの真鍮の柄でかつんと叩いた。
パリン。
砕けるような小さな音がした。
袋の中を確認するまでもなく、その音が、それはダイヤではないことを告げていた。
「おい、これは硝子玉だったのか? 刑事さん、ここにいたんだろ? どうして盗まれるんだよ! あんた、ただ黙って盗まれるのを見ていたのか?」
十無の襟首を掴み、藤田は怒鳴りながら詰め寄った。
「落ち着け、誰も現れなかった」
藤田の腕を造作なしに、ぐいと捻ってよけ、十無は無表情に言った。
「すると、あのお嬢さんか」
丸さんが目を見開いて、はっとしながら口を挟んだ。
「考えたくはないが、その可能性が高い」
「まさか、そんな……」
藤田は二人の話を聞いて、ベッドによろけるように座り、呆然とした。
「二十三日にダイヤを三人で確認していた時、私は丸山が来てその場を離れました。そのあとあなたは北山留美さんとどんなやり取りをしたのか教えてくれませんか」
「……刑事さんが部屋を出た後、俺、留美に『このダイヤは留美のものにしたいと思っている』って言ったんだ。そして、ダイヤを持っていた留美の手を上から握って、キスした。……じゃあ、俺はDと?」
藤田は狼狽している。
「まだ、そうと決まったわけではありません。可能性があるということです。彼女から聞いたホテルを教えてください。それと東京の住所も」
「わ、わかった」
藤田は住所を走り書きしたメモを十無に渡した。
うなだれている藤田をその場に残して、十無と丸さんは早速、市内中心部にあるホテルへ赤灯を回して急行した。
しかし、十無は藤田よりもショックを受けていた。
北山さんが、まさかそんなことを。それにDかもしれないとは。何かの間違いであってほしい。
十無はひたすらそう念じていた。
早く白黒はっきりさせたい十無は気が急いていた。
眠そうにしているフロント責任者を呼び、警察手帳を見せて協力を求めたが、そのような名前の客は利用していないという。人相も伝えたが、該当しそうな客はいないとのことだった。
「宿泊ホテルはでたらめを言っていたんですかねえ。逃げられたようですな」
丸さんは悔しそうに舌打ちをした。
二人は肩を落として車に戻った。
「後は、東京の住所を朝一で確認するしかないですね」
「多分、それも無駄かもしれんな」
「……そうですね」
藤田和輝に連絡し、張り込んでいた私服警官も帰して、二人は署へ戻って仮眠室で仮眠をとることにした。
数時間でも眠っておかなければならないと思ったが、十無はなかなか寝付けなかった。
北山留美はDなのか。
ダイヤを盗まれたということより、留美が泥棒かもしれないという事実のほうが、十無には衝撃的だった。
間違いであってほしい。彼女のか細い腕に、手錠をかけたくはない。彼女には無骨な手錠など、似合わない。
十無は神様に祈りたい気分だった。
翌朝、七時過ぎに一一〇番通報があった。
『ノビ』発生の知らせだった。
ノビとは、家人が寝静まったところに忍び込む、泥棒のことである。
ガイシャは、藤田建設社長宅だった。
顔を洗っていた十無と丸さんは顔を見合わせた。そして、食事も摂らずに素早く車に乗り込んで、現場へ車を走らせた。
三月末とはいえ、早朝はまだ吐息が白くなるほど冷え込む。暖気をしていない車内は、身が縮むような寒さだった。
その寒さが頭を冷やし、眠気をいっぺんに吹き飛ばしてくれた。
どうなっているのか十無にはすっかり見当がつかなくなっていた。
藤田建設社長宅にノビというのは、ただの偶然なのか。ダイヤがすりかわっていたことと関係があるのか。
「……で、今朝、起きたら扉が開いたままになっていて、現金がなくなっていたんですね?」
「はい」
十無は社長宅へ到着し、すぐさま状況の聞き取りを始めた。
二十代半ばくらいの住み込みの家政婦は、まだ気が動転しているようで、十無の質問にいちいち思い出しながらゆっくりとしか話せなかった。
藤田夫妻が旅行中で不在のため、家政婦はいつもより遅い朝七時に起きていた。そして、いつものように各部屋のカーテンを開けて回り、夫妻の寝室も同様にカーテンを開けたのだが、明るくなった寝室で、金庫扉が開け放されて空になっていたのを発見して、慌てて通報したのだという。
室内はまったく荒らされた様子はなく、玄関扉は施錠されていたということだった。警備会社と契約している防犯システムは丁寧に切られていた。
十無は家の中を見まわってみたが、窓も破られた形跡はなく、玄関のピッキングが、一番有力に思われた。
しかし、鑑識が調べても、玄関扉にはピッキングの痕跡は見つからなかった。
外部からの侵入がない。これはDの仕業ではななく、もしかすると内部の人間の犯行かもしれない。だが、夫妻が留守で、一体何が盗まれたのかわからない。盗まれた物は現金だけなのか。
十無は判断に迷った。
「藤田夫妻は、いつ旅行から帰宅予定ですか?」
「今日の午前十時頃と聞いています」
「今朝、この家には他に誰かいましたか」
「ええ。私の他にもう一人家政婦と、運転手がいました」
「では、その方々をここへ呼んでもらえますか?」
「わかりました」
パタパタとスリッパを鳴らし、若い家政婦は他の使用人を呼びに行った。
間もなく、体格のいい年配の家政婦が、若い家政婦に連れられてきた。
「ひょっとして、私達を疑っているんですか? 嫌ですよ、そんなことするわけないでしょ。第一、あんな金庫の鍵が、私らに開けられるわけがないでしょう?」
十無の顔を見るなり、五十代くらいの家政婦は、何も聞かれないうちから勢いよく話した。
「いえ、そうではありません。参考に、いくつかお訊きするだけですから」
十無は家政婦に圧倒されて、たじたじだった。この手のオバサンパワーが苦手な十無は、丸さんに助け舟を求めたが、任せたぞとでも言うように、ただニヤニヤしているだけで、丸さんは全く口を挟まなかった。
十無の説明に家政婦は一応納得し、なんだか嫌だわねえと、眉を寄せながら渋々応諾した。
「ところで、お嬢さん、運転手の方はどうしたんだい?」
若い家政婦に、丸さんが言った。
「どこにもいないんです。多分、藤田さんご夫婦を空港に迎えに行ったのだと思います」
「勝手にいなくなられちゃ困るなあ」
丸さんは頭をかいた。
仕方なく、十無と丸さんは年配の家政婦と一緒に別室へ移動し、いくつか質問することにした。
家政婦、園田豊子五十四才は、椅子にどすんと勢いよく座って勝手に話し始めた。
住み込み家政婦として、藤田家には十五年になるという。
そのことに触れると、夫を早くに亡くし、苦労した云々を長々と途切れなく話し始め、十無と丸さんを閉口させた。ようやく、今朝の話しにたどり着いた時には、二十分ばかり経っていた。
園田豊子は若い家政婦より十五分か二十分ほど後に起きたのだという。
「別に寝坊したわけじゃないんですよ。あの子が、カーテンと新聞は自分がやりますって言うから」
言い訳がましく、そう付け加えた。
「あの子って、もう一人の家政婦ですか?」
「まだここに来て間もないんですけれどね、そうねえ、一週間経ったかしらね。半人前だから、朝はしますからって」
頬に右手を当てて、本当に感心な子よねえと頷いている。
運転手のことを聞くと、無口で愛想のない人で、あの人苦手なのよねえという答えが返ってきた。
運転手は何か話しかけても頷くのみで、いつも無表情で何を考えているのかさっぱり見当がつかない青年だという。
「疑うなら、あの運転手だわ。ええ、そうですよきっと。来た時から、何かしでかしそうな感じがして、胡散臭く思っていたのよ」
園田豊子は眉間にしわを寄せて、あからさまに嫌悪感を露わにした。
運転手は去年の暮れから雇われているという。
とにかく無愛想で、どうして雇われたのかわからないのだと、園田豊子は首をかしげた。
運転手の山本卓也二十八才は、園田豊子の話しだと、身長百八十センチくらいで、いつも紺色の背広を身に着けているが、胸板の厚さがあり、鍛えられているように見えたという。普段、運転帽をかぶっており、髪は肩につきそうな長さで、無造作に伸ばしているとのことだった。
まだ雇われて間がない運転手。園田豊子の話を鵜呑みにするわけではないが、外部からの侵入の形跡が見当たらない現在、疑わしい人物はマークをするにこしたことはない。
十無は運転手が本当に旭川空港へ向かったのかどうか確認するため、警官を出向かせることにした。
「いや、参りましたね。あの家政婦、話し好きで」
「まったく。訊いたことの三倍は返ってきていたなあ」
丸さんと十無は顔を見合わせて苦笑した。
自室に寝ていたとう園田にはアリバイはない。だが、園田に金庫破りは無理だろう。暗証番号と鍵を手に入れていれば別だが。
次に、若い家政婦、川北美智にももう一度話しを訊くことにした。
二十五歳になる彼女は、気が弱いのか、二人の前に向かい合わせに座ると、おどおどとして伏し目がちになった。
「私に、まだ何か……」
彼女は耳にかかる程度の短めの髪を、しきりにいじっている。縁のある眼鏡をかけているが、よく見ると、くっきりとした二重の、なかなかの美人だ。背丈も、百六十センチ後半はあるようだ。それを気にしているのか、常に背中を丸めている。
彼女は家政婦の制服と思われる、園田豊子と同じグレイのワンピースをきていたが、遥かに川北美智のほうが似合っているなと、十無はつい余計なことを比べてしまった。
十無は彼女を観察しながら質問を始め、丸さんはその横でじっと聞き役に徹した。
「以前はどちらで働いていましたか?」
「あちこち、コンビニのバイトをしていました」
「では、家政婦はここが初めてですか?」
「はい」
「園田さんは、あなたが朝のことはやるからと言ったので全て任せていたと言っていたのですが」
「いいえ、違います」
川北美智は顔を上げて頭を大きく横に振った。
「違う?」
「園田さん、新人が来ると何でも押し付けるらしいです。これ、奥様に聞いたんですけれど。若いうちは何でも進んでやらないとだめって。あ、園田さんには絶対言わないでください。私、ここにいられなくなりますから。折角、見つけた職なので」
「わかりました」
「奥様は、私がここに早く慣れてくれたら、園田さんに暇を出すといっていました。彼女、ここが長いので、色々あるみたいです」
「色々とは?」
川北美智は言い辛そうに、一呼吸おいて声を潜めた。
「……誰にも言わないでくださいね。園田さん、物をくすねるんです。たいした物じゃないんですけれど、野菜や調味料とか。一人息子がいて、まだ大学生らしくて、くすねた物を送っているみたいです。奥様も、多少は目を瞑っていたみたいですが、エスカレートしていて。でも、新しく入った家政婦は、大抵園田さんとうまくやっていけなくて、直ぐ辞めてしまうって」
川北美智は澄んだ瞳を二人に向けた。
「でも、奥様が女手一つで息子さんを育てていらっしゃるからって。……園田さん、捕まったりしないですよね?」
一通り話し終えると、ぺこりと軽く会釈をして、川北美智は部屋を出た。
「こりゃ、わからんな」
「ですね。園田豊子は、多少の動機ありですか」
「だが、本格的に盗みまでするかね?」
確かに、十五年働いてくすねていたものは、野菜などの食料品だけだ。ここまで大それた盗みをするだろうか。
そして、川北美智にも同様にアリバイはないのだ。
今のところ、状況からいけばホシは内部の人間という可能性のほうが有力だ。だが、本当にDは絡んでいないと言いきれるだろうか。
「別宅に来た、予告状、あの犯行予告の日付と同じ日に盗みがあったのは、偶然でしょうか」
「なんとも言えんねぇ」
丸さんも唸っている。
「ただ、言えることは、誰にもアリバイがないってことだな」
丸さんは、額の端を手で掻きながら言った。
確かにそうだ。今の段階で絞り込むのは無理だ。満遍なく目を光らせておく必要がある。
「プロの仕事には間違いない。三人の身元を洗ったら何か出てくるかもしれんな」
「三人?」
「そりゃ、北山留美、山本卓也、川北美智だろう? 皆、最近藤田家にかかわりを持つようになっている」
「川北美智も?」
「疑わしいものは全て調べておいたほうがいいからねえ」
「まあ、そうですね」
川北美智まで、調べる必要があるのだろうかと、十無は多少疑問に思ったが、ベテランの丸さんに従い、そう返事をしておいた。
突然、丸さんの携帯電話が鳴った。
「――何!」
温和な丸さんが、意外にも厳しい口調で思わず叫び、顔色が変わった。
運転手のことだろうか。十無はじっとやり取りを伺った。
「……山本卓也は、空港にはいなかった。藤田夫妻はこれからタクシーで自宅へ戻るそうだよ」
携帯電話を背広の内ポケットにしまいながら、丸さんはため息をついた。
「逃げた? 山本がホシなのか?」
「その可能性が強くなったな。乗っていた車があるかどうかも、念のため確認してもらうことにしたよ」
続けて、丸さんは署にも連絡を取り、近郊の高速道路でも、ナンバ―確認に当たらせてほしいと手配を要請した。
山本がホシだとしたら、単独犯だろうか。それとも、Dとのかかわりがあるのか。北山留美がいなくなったのは? 暗中模索する中、十無の気持ちは焦るばかりで、苛立ちが膨れ上がっていた。
「トム、電話ついでに確認したんだが、あのお嬢さんの自宅は実在したよ」
十無が考えていることを見透かしたように、丸さんが付け足した。
「北山留美ですか? じゃあ、Dとは関係ないかもしれませんね」
「身元がはっきりしただけだから、なんともいえんがなあ」
十無は、北山留美を容疑者からはずしたい思いが先走り、ついそんなことを言ったのだが、丸さんは十無のそんな気持ちがわかったのか、苦笑いしながら頭をくしゃっと掻いた。
十無はそれに気づいて少し恥ずかしくなり、真面目な顔をしてさっさと話題を逸らした。
「今は、山本卓也の足取りを追うしかないですね。彼のアパートへ行きましょうか」
「そうだな」
藤田邸に刑事と制服警官を数人残し、夫妻が帰宅するまでの間に、山本卓也のアパートを訪ねることにした。
彼のアパートは、藤田家から車で五分とかからない所にあった。
そこは、よくある二階建てのアパートで、住所ではその一階に山本と表札があるはずだった。
が、玄関横の窓に空き部屋の看板が出ていた。
「既に、引き払っていますね」
十無は隣の部屋のチャイムを鳴らした。
「はい……」
眠そうな顔をした、大学生らしき男が面倒臭そうに顔を出した。
「警察のものですが、隣の山本卓也さんについてお訊きしたいのですが」
「隣? もういないよ」
「いつ引越しされましたか?」
「さあ……俺もしょっちゅう友達のところへ泊まってるから」
「そうですか。何か覚えていることがあったら教えてほしいのですが」
「つっても、話したこともないし。……あ、一度、女が来てたことがあったな。それが、背が高くてモデルみたいな美人だったから、よく覚えてるよ」
「いつ頃ですか?」
「一、二週間前だったかな」
「何か特徴は?」
「髪が長くて、ミニのタイトスカートの、派手で水商売風だったな。足がいい感じで……」
その男はそれ以上のことは何も知らず、他にはこれといった収穫はなかった。
「山本を訪ねてきた女は、Dかもしれませんね」
「そういうこともありうるねえ。……背の高い女か。そういや、あの川北という家政婦も背が高かったなあ。でも、まさかねえ。犯行後もそこに残るような、そんな大胆なことをするかねえ」
「でも、直ぐいなくなるより怪しまれないということも……」
そう口にしてみると不安が急激に広がってきた。十無は無言で携帯電話を取り出し、藤田邸へかけた。
「……買い物に出掛けた? え? それはどこ? いや、だから、待てないんです。急いで、直ぐに会いたいんですよ!」
「でも、こちらに来て待っていた方が……入れ違いになるかもしれないし。もう帰ってくると思いますけれどねえ」
園田という家政婦が電話に出たのだが、のらりくらりと、要領を得ない返事が返ってきて、十無は苛立った。
「……環状線沿いの? ……わかった、ありがとう!」
ようやく聞き出した店名を告げると、丸さんはハンドルを乱暴に切って左折し、アクセルを踏み込んで車を店へ走らせた。
川北美智はスーパーにはいなかった。
ほぼ、いないだろうと十無は思っていた。途中で署にも連絡し、川北美智が運転していた車を報告して先に手配もしていたのだった。
だが、スーパーに着いて彼女がいないのを確認した十無は、気づくのが遅かった自分に腹を立て、悔しさが込み上げてきた。
「くそっ!」
飛行機で飛ぶか、JRか。それとも車を乗り換えて逃走したか。まだ、何処かに潜み、市内から出ていない可能性もある。
気がつくのがもっと早ければ……。悔やんでも悔やみきれない。あんな大人しそうな女がDだったとは。化けるものだな。女は怖い。十無はつくづくそう思った。
そして、十無の頭の中では北山留美が容疑者から外れたのだった。
「仕方ない、我々は藤田邸へ戻って、彼女の部屋を検分するとしよう。何か、手掛かりがつかめるかもしれん」
「はい」
丸さんの慰めるような言葉に、十無は笑顔で答えたので、丸さんは不思議そうに首をかしげていた。