嘘でも父を信じてみよう
その男はわたしの父だと言った。
わたしは男について行き、オープンカーの助手席に乗った。
車は海岸沿いを走った。
気持ちの良い風が潮の匂いを運び、髪をなびかせた。風よりも小さな音で控え目にステレオから音楽が流れている。
わたしは道路のはるか下に広がる海を見下ろした。波が岩に打ち寄せ白い泡となって消えて行った。何度も何度も波は寄せたが、その勢いは定まっていなかった。
男はどう見ても20代で、父というには若すぎる気がした。サングラスをかけて片手で運転をしていた。清潔そうな白いシャツのボタンを二つ開け、鎖骨のあたりにコイン型のネックレスをしていた。
男はわたしの名前を知っていた。孤児だということ、兄弟がいないことも知っていた。だが、それは男が父だという確かな証拠にはならない。
しばらく海岸沿いを走っていたが、停留所が見えると男がハンドルを切りそこに車を停めた。そしてシートベルト外したので、どこへいくかは分からないがわたしもそれに従った。
男は海が一望できる場所に置かれたベンチに腰掛けた。背もたれに寄りかかり、足を組み、くつろいでいる。わたしは身の置き所に困った。男の左隣に空いた一人分のスペースに腰掛けたいと思ったが、その勇気はなかった。
男はわたしがついて来ていて、背後で立ち尽くしていることを知っていたらしい。こちらを向かずに、わたしに声をかけた。
「きみを初めて見たという気がしないな」
初めて見た気がしない。それは裏を返せば、男は今日初めてわたしに会ったということを意味する。父を名乗ったのにおかしなことだ。
しかし話しかけられたということは、男がわたしの存在を認めたことになる。そこで初めて隣に座る勇気が湧いた。わたしは男の隣に腰掛けた。
距離は思っていたより近く、少し右には男の肘があった。しかし嫌ではなかった。
「僕は仕事柄、ほんとうに多くの人に関わる機会に恵まれているんだ」
男の低い話し声は、わたしの体の中で染み渡り、深く響く甘さがあった。
「多くの人に出会うとそのうちに、初対面で相手がどんな人間か朧げに分かるようになる。例えばそれは容姿や言動、身につけている物や、相手と会話する姿勢にあらわれる」
淡々と語るその声は聞き取りやすく、話には無駄がなかった。わたしは男の横顔を見ながら頷いた。
「大抵の人間は、歳を重ねるごとに人間関係に損得勘定を持ち込むようになる。そのせいで言葉に濁りの生じた人間をたくさん見てきた」
そこで一呼吸すると、海を見ていた男の視線がゆっくりとこっちへ向いた。
「きみの父親からは、その濁りを感じたことがなかった。もちろん彼だって損得勘定をしないはずがない。だが彼は相手が誰であれ常に敬意を表し、その良きところを見ようとしていた」
男は自分が父と名乗りながら、わたしの父の話をしている。だが男はわたしの父ではないだろうと思っていたため、その矛盾に対してわたしが困惑することはない。
「僕はそんな人間がいることを嬉しく思い、彼のよさを吸収しようと積極的に関わりに行った。僕よりかなり年上だったが、それでも僕をぞんざいに扱うことはなかった。彼は知れば知るほど好ましい人柄で、教養も深かった。彼のそばにいる事が自分にとって有益だと感じた僕は、しばらく彼との交流を絶やすまいとして何度も会いにいった」
男が父のことを話す目つき、声の柔らかさから、この人は本当に父を大切に思っていたんだと思った。懐かしそうに目を細めるその表情には、疑いようもない思慕があらわれている。
「彼はきみと暮らすことを切望していた。事情により、きみを幼い頃に引き離されたまま、彼は会うことさえも禁じられていた。孤児院に入っていることも知らなかった。だが彼はきみの暮らす孤児院をやっとのことで突き止めた。しかし……」
淀みない男の話に一瞬の躊躇いが見えた。
「孤児院に向かう前に、彼は病室から出ることのできない身体になってしまった。見舞いに行った僕は彼の話を聞き、どうしても君を彼の元へ連れてこなければならないと思った。孤児院の場所を聞き、君を彼と引き合わせようと約束した。だが、彼の身体がそれを許さなかった。容態が急変し、駆けつけた時には虫の息で、一目見て彼の命はもうすぐ消えると分かった」
父は死んだ……
話の中で父に好感を持ち始めていたわたしは、会うことの叶わぬ父を愛おしく思い、何故か涙をこぼした。
「そんな死に際で彼は僕に、かすれた声で言ったんだ。代わりに父になってくれと。僕は泣きながら頷いた。安心したような表情になると彼は、眠るように死んだ」
男はわたしの頬に流れる涙を親指の腹で拭った。濡れた頬に体温の暖かさを感じ、もっと涙が溢れてきた。
「僕は自由が制限されるのを恐れて、家庭を持つことを頑なに拒んでいた。今の生活がとても自由で充実しているという確かな自信があったからだ。だが彼は僕に家庭を持つことを強く勧めていた。父になれと頼んだのは、ただの彼の我儘ではなく、僕のためを思ってのことかもしれないと思った……」
男の目が微かに潤んだように見えた。あるいはそれはわたしの錯覚だったのかもしれない。だがその錯覚はわたしの心を芯からひどく震わせた。
「君の父が死ぬ前に僕は、彼を君と引き合わせる約束をしたと言ったね」
男はベンチの上に立ち上がり海を仰いだ。わたしも同じように、サンダルでベンチの上に立ち、海を見た。
「ここがちょうど、彼を散骨した海だ。生きて会わすことはできなかったが、これで少しは約束を破った僕の気も紛れる」
さっきまで見ていた海が、全く別の物として立ち現れる。父の骨が散骨された海。それは広く、暖かく、何かを伝えようとしているように見えた。
男は再びベンチに座り、足を組む。
「ここから先は君次第だ。頼まれたとはいえ、本人が嫌がるのに連れて行くつもりはない。この嘘のような僕の話を信じて共に来るか、元の孤児院での生活に戻るか、決めてくれ」
わたしは長い間正面から男の目を見つめた。波の寄せる音が聞こえた。
「一緒に行きます」
迷いはない。初めて男を見たその時から、心は決まっていたのかもしれない。男の言葉が全て嘘だとしても、その途方もない作り話に付き合ってみたいと思った。
わたしの言葉を聞いた男はふわりと笑った。風が二人の髪を揺らした。とてもきれいな笑い方をする人だと思った。
「その言葉を後悔させない」
男が強くはっきりとそう言ったのを聞いて、わたしは自分がとても安心するのを感じた。
生まれて初めて、未来をとても楽しみに思えた夏の日だった。