鏡写しの殺意
はじめまして、丹沢ガクと申します。
本作をお目に留めていただき、誠にありがとうございます。
あなたの日常は、どれくらい正確に回っていますか?
毎朝決まった時間に出て、決まった電車に乗り、決まった風景を見る。
もしもその退屈で完璧な日常の風景の中に、たったひとつだけ「不気味な違和感」が紛れ込んでいたら——。
本作は、一切の狂いを許さない几帳面な男・時任秤が、通勤ホームで見かけた「ほんの僅かな異物」から、不気味な事件の真相へと引きずり込まれていくサスペンス・ミステリーです。
静かに狂っていく日常の緊張感と、ラストに繋がる緻密なロジックをぜひお楽しみください。
それでは、時任の「完璧で不快な朝」へお付き合いいただけますと幸いです。
『鏡写しの殺意』
著:丹沢 ガク
【プロローグ】完璧なる秒針
午前六時三十分。
目覚まし時計の電子音が鳴り響く、その一秒前に時任秤は目を開ける。
天井を見つめたまま、一回、二回、深呼吸をする。体内のサイクルが意識の覚醒と同調したことを確認してから、彼はゆっくりと布団を上げた。
時任にとって、日常とは完璧に調律されたオーケストラでなければならなかった。
一音の狂いも、一秒の遅れも許されない。三十八年の人生の中で余分な雑音を削ぎ落とし、完璧に組み上げられたそのルーティンこそが、彼の平穏を保つ唯一の骨組みだった。
ベッドを下り、右足からスリッパに足を通す。
洗面所へ向かい、歯ブラシに洗顔フォーム……ではなく、正確に一センチ押し出した歯磨き粉をつける。磨く順番は右上の奥歯からと決まっている。
鏡に映る自分の顔は、毎朝変わらず無機質だ。髪をセットし、アイロンのシワひとつない白シャツに袖を通す。ネクタイを結ぶ手元にも迷いはない。結び目のディンプル(窪み)は、正確に中央へ刻まれる。
午前七時0分。
玄関のドアノブを「右手」で回し、時任はアパートの外へ踏み出した。
五月のみずみずしい朝の空気が頬を撫でる。
時任の歩幅は常に六十五センチだ。決まったテンポでアスファルトを蹴り、決まった角を曲がる。
通勤路の途中、線路を渡る手前に小さな踏切がある。
毎朝七時八分、時任がその手前に差し掛かると、カンカンカンと警告音が鳴り響き、遮断機が下りる。通過するのは上りの各駅停車だ。遮断機が上がり、再び歩き出せるようになるまでに要する時間は、正確に「四十二秒」。
……不快だ。
時任は無表情のまま、心の中でわずかに眉をひそめる。
この四十二秒のタイムラグだけが、彼の完璧な朝における唯一の「ノイズ」だった。ダイヤの乱れではない。何年も前から、この時間にこの踏切が開かなくなるのは確定しているルールだ。分かってはいる。だが、立ち止まることを強要されるこの四十秒余りの足止めだけが、彼の神経をかすかに逆撫でしていた。
(……まあいい。計算に入っている遅延だ)
遮断機が上がり、時任は再び右足から歩みを進める。
腕時計の針を見るまでもない。すべては計画通り、一秒の狂いもなく進行している。
午前七時十五分。
時任の視界に、いつも通りの駅前ロータリーと、見慣れたコンビニの自動ドアが入ってきた。
今日も、完璧で、退屈で、美しい一日が始まるはずだった。
第二章:『一円と左手』
午前八時三十分。
自席のデスクに座り、パソコンの電源を入れる。
ディスプレイの角度は、キーボードの端に対して正確に九十度。デスクの上には余計な書類一枚すら置かれていない。
だが、今朝の時任の脳内処理速度は、いつもの八割程度にまで低下していた。
キーボードを叩く指先に、かすかな迷いが生じる。
目の裏にこびりついて離れないのは、今朝七時二十五分、向かいのホームで目撃したあの異様な光景だ。
(右手に缶を乗せ、左手でスマホを操作していた……)
ただ持ち手が逆になっていただけだ、と処理しようとするたび、激しい拒絶反応が起きる。
あの男は二年間、一度たりとも持ち手を変えたことはなかった。
人は日常の無意識な動作において、驚くほど強固な「癖」に従う。スマホを持ち替えるという単純な動作ひとつをとっても、そこには相応の合理的理由が存在するはずなのだ。
右手の掌を強張らせ、激痛に耐えるように缶を乗せていた理由。
それは、右手を「使えない状態」に陥ったからに他ならない。
「……時任さん、ちょっといいですか」
声をかけてきたのは、二歳年下の同僚・佐々木だった。手には提出されたばかりの経費清算書が握られている。
「この先月の営業二課の出張費なんですけど、一円だけ合わないんですよ。まあ、一円くらいなら雑損失で落としちゃって大丈夫ですよね?」
佐々木は苦笑いを浮かべながら、軽く書類を差し出してきた。
時任は無言のまま、ゆっくりと佐々木を見上げる。その瞳には、氷のような冷たさが宿っていた。
「一円『くらい』?」
「え? あ、はい……たかが一円ですし、処理の手間を考えたら……」
「佐々木君」
時任は低く、淡々とした声で言葉を継いだ。
「一円の計算違いは、単なる一円のミスではない。その背景には、千円の入力ミスと九百九十九円の重複計算が隠れている可能性がある。一箇所の狂いを放置することは、全体の崩壊を容認することと同じだ」
「は、はあ……」
「再提出だ。一分一秒、一円のズレも僕のデスクの上には存在させてはならない」
時任は書類を一顧だにせず追い返した。佐々木は困惑と少しの不満を顔に滲ませながら席に戻っていく。
時任にとって、これは意地悪でも何でもなかった。ただ「計算の合わない式」が存在することが、生理的に耐えがたいだけなのだ。
——正午。
昼休みを告げるチャイムが鳴り、オフィスから人が減っていく。
時任は決まった時間に自席で弁当箱を開け、スマートフォンのローカルニュースアプリを立ち上げた。
画面をスワイプしていく中で、ある見出しに時任の指がピタリと止まった。
『昨夜、市内マンションで男性刺殺体を発見——警察、近隣の目撃情報を求める』
発生時刻は昨夜の午後十時頃。現場は時任の通勤路線から二駅離れた住宅街にあるマンションの一室だった。被害者は独身の男性会社員。室内には荒らされた形跡があり、警察は殺人事件として捜査本部を設置したという。
記事の後半に書かれた「警察発表」の一文に、時任の目が留まる。
『凶器の刃物による傷口の角度や深度から、捜査本部は犯人を左利き、あるいは左手を主に使った人物とみて捜査を進めており——』
時任は無感情に画面を見つめた。
(左利き、か……)
その瞬間、今朝の男の痛々しい右手が脳裏をかすめた。だが、時任はすぐに首を横に振る。
単に手のひらを痛めた男と、昨夜の殺人事件。この二つを結びつけるには、まだ変数が多すぎる。警察が傷口から「左利き」と判断したのなら、それが最も確率の高い仮説なのだろう。
(……いや、待て)
時任の思考エンジンが、かすかな引っかかりを感じて回転を始めた。
仮に、警察の言う通り犯人が「左利き」だったとする。
左手で刃物を握り、被害者を襲った。その際、激しい抵抗に遭ったと仮定しよう。
被害者が必死に暴れ、凶器を奪おうとしたり、素手で殴りかかってきたとしたらどうなるか?
犯人は身を守るため、あるいは凶器を固定するために、空いている「右手」で被害者の身体や刃物の刃そのものを強く押さえつける可能性がある。
……いや、逆のパターンはどうだ?
もしも犯人が**「右利き」**だったとしたら?
右利きのアマチュアが刃物を持って人に襲いかかる際、柄を握る手には異常な力が入る。
刺突の衝撃、あるいは相手が身を捩った瞬間、握っていた手が滑り、自らの右手の掌を凶器の刃で深く切り裂いてしまうケースは、犯罪心理学や法医学の事例でも決して珍しくない。
そして、右手に激痛を負い、使いものにならなくなった右利きの犯人は——残された「左手」で不器用に追加の攻撃を加えるか、あるいは左手で凶器を抜き取ることになる。
その結果、現場に残されるのは「不自然な角度で刺された傷口」だ。
事情を知らない鑑識官がそれを見ればどう判断するか?
——「犯人は左手を使った=左利きだ」と、誤った前提(前提条件のミス)を導き出すのではないか?
(……まだ仮説の域を出ない)
時任は深く息を吐き、スマートフォンを閉じた。
一回の目撃と、一つのニュース記事。これだけで結論を出すのは、経理マンとして、そして理性を信じる者として早計に過ぎる。
確認が必要だった。明日、そして明後日の「観察」によって。
翌朝、午前七時二十分。
時任はいつもより三分早く改札口へ到着していた。
柱の陰に身を隠し、向かいのホームへと向かう乗客の群れを鋭い視線で追う。
いた。黒いスーツの男だ。
男は自動改札機へと近づいていく。
日本の自動改札機は、すべてICカードの読み取り部が「右側」に設置されている。右利きであれば、歩みを止めることなく右手でスムーズにタッチして通過できる構造だ。
男の動きを注視する。
男はICカード(スマホ)を左手に持っていた。
そして改札を通る瞬間、身体を不自然に右へ捻り、左腕をわざわざ胸の前で大きくクロスさせて、右側の読み取り部にタッチした。
その瞬間、男の顔が苦痛に歪んだ。
かばうように身体に引き寄せられていた「右手」が、衝撃でわずかに揺れ、ポケットの生地に触れたからだ。男は歯を食いしばり、冷や汗を浮かべながら改札を抜けた。
(確定だ)
時任の脳内で、カチリと一つ目のギアが噛み合った。
男は左利きではない。左利きなら、改札のタッチ動作に慣れているはずであり、あのように左腕をクロスさせる際に身体のバランスを崩すような不格好な真似はしない。
男は「右利き」であり、右手が使えないからこそ、あのような不自然な動作を余儀なくされているのだ。
さらに、ホームへ上がった男の追跡を続ける。
七時二十五分。いつもの立ち位置。
男の右手には、今日も缶コーヒーが乗せられていた。
だが、時任は更なる違和感に気づく。
男が持っているのは、二年間買い続けていた「赤い缶(微糖)」ではなかった。
「黒い缶(無糖)」——しかも、自販機の「あたたかい」のランプから購入したホットの缶だった。
(なぜ、ホットのブラックに変わった?)
時任は自らの脳内で高速計算を開始する。
理由一:冷えた缶は、傷口や炎症を起こした神経に激痛を与える。温かい缶であれば、患部を温めて痛みを和らげる効果(温熱効果)がある。
理由二:缶の形状だ。あのメーカーのホット缶は、アイス缶と違って表面に滑り止めの微小な凹凸加工が施されている。「握る」ことができず「乗せる」ことしかできない右手にとって、摩擦係数の高い温かい缶の方が落下のリスクが低い。
状況証拠が、次々と一つの解に向かって収束していく。
一、男は二年間、右利きとして日常を送っていた。
二、昨夜を境に右手が使用不能となり、改札でも不自然な左手タッチを強いられている。
三、右手の傷は「温かい缶」で痛みを紛らわせ、「摩擦のある缶」でしか保持できないほど深刻である。
四、その怪我を負ったタイミングは、近所で刺殺事件が起きた時刻と完全に一致する。
時任は、自分の右手にある冷たい缶コーヒーを一口飲んだ。
警察の計算式は、間違っている。
「犯人は左利き」という誤った前提のままでは、捜査線上にこの男が浮上することはないだろう。
そして、この男は明日も、明後日も、手を不自然に強張らせながら、時任の「完璧な朝の風景」の中にノイズとして居座り続けるのだ。
時任の瞳から、迷いが完全に消え去った。
(計算違いを放置することは、できない)
正義感などではない。
一円の狂いも許さない経理部員として、ただ「歪んだ数式」を正しい解へと戻したいという、狂気にも似た美学が彼を突き動かしていた。
第三章:『不調和な計算式』
退勤を告げる午後五時半のチャイムが鳴り渡る。
同僚たちが荷物をまとめ始める中、時任は寸分狂わず整頓された自分のデスクを静かに見つめていた。
頭の中では、今朝までに集め終えたすべての変数が、完璧な数式となって組み上がっていた。
——犯人は右利きである。
——犯行時、右手掌に自ら凶器で深い切り傷を負った。
——ゆえに現場の傷口は不慣れな左手による「偽りの左利き」を示している。
——男は毎朝七時二十五分、乗り換え駅の四番ホームに現れる。
証明は完了した。解は出ている。
だが、時任がその答えを胸の中で反芻していたその時刻、街の反対側では——時任の通勤路を乱した「その男」が、絶望の淵で冷や汗を流していた。
浅見達也の右手は、脈打つたびに焼けた鉄を押し当てられたような激痛を放っていた。
昨夜の光景が、呪いのように脳裏にこびりついて離れない。
雑居ビルの暗がりにある、被害者・吉岡の部屋。
会社でのミスの補填と、膨らみ続ける借金。藁にもすがる思いで投資の話を持ちかけてきた吉岡の元を訪ねた浅見を待っていたのは、冷酷な嘲笑だった。
『返す金がない? だったら奥さんの実家に肩代わりしてもらえばいい。嫌なら、会社の金を横領したって証拠を上に持っていくまでだ』
へらへらと笑いながらグラスを傾ける吉岡の顔が、怒りで視界から消えた。気づいた時には、テーブルの上に置いてあった果物ナイフの柄を必死で握りしめていた。
『おい、やめ——』
叫ぶ吉岡に飛びかかり、夢中で刃を突き立てた。
だが、素人の殺意はあまりに拙かった。
暴れる吉岡の身体に押し返され、油と血で滑った浅見の右手の掌は、刃の根元から鋭い刃先へと勢いよく滑り落ちたのだ。
——ブツリ、と皮膚と肉が削ぎ切れる肉厚な手応え。
「あぐっ……!」
叫び声を上げる暇もなかった。激痛が脳を突き抜ける。
右手が使い物にならなくなり、浅見はパニック状態で左手でナイフを奪い返し、無我夢中で吉岡の胸元を突き刺した。不自然な角度で何度も、何度も。
静まり返った室内。血の海の中で動かなくなった吉岡を見下ろし、浅見は恐怖で狂いそうだった。
凶器を鞄に放り込み、逃げるように部屋を飛び出した。
(捕まるわけにはいかない……。自首したら、人生が完全に終わる)
自宅へ戻り、洗い場で右手を洗うと、肉が裂けて白い骨が見えかけていた。溢れ出る血を抑えるため、包帯をきつく巻きつけ、粘着テープで強固に固定した。指を動かすことなど到底できない。掌を開くだけで激痛で意識が飛びそうだった。
だが、休むことなどできなかった。
ここで会社を休めば、警察に疑われる。いつもの電車に乗り、いつものように出社しなければならない。
翌朝。浅見は吐き気と戦いながら黒いスーツを着た。
いつもなら七時二十六分の各駅停車に遅れそうになると、焦って駅手前の踏切を無理やり横断し、電車の安全確認を誘発させてでも滑り込んでいた。だが今朝は右手が激痛で走ることすらできず、命からがらホームに辿り着くのが限界だった。
改札を通る時、いつもの右手でタッチすることができず、激痛に冷や汗を流しながら左腕を不格好にクロスさせてICカードをかざした。
右手には、自販機で買った「ホットの黒い缶コーヒー」を乗せた。アイス缶の冷たさは傷口の神経を狂わせる。温かい缶の温度で痛みを麻痺させ、表面の摩擦を利用して落とさないようバランスを取るのが精一杯だった。
向かいの三番ホームには、いつものように通勤客が並んでいる。
(大丈夫だ……バレていない。誰も僕のことなんて見ていない)
浅見は左手で不器用にスマホを操作しながら、必死に自分に言い聞かせていた。
警察の発表では、犯人は「左利き」とみられているらしい。吉岡を最後に刺したのが左手だったからだ。
(警察も騙されている。右手の怪我さえ隠し通せば、切り抜けられる……!)
浅見は激痛に耐え、血の滲む包帯をかばいながら混雑する車内へと乗り込んでいった。
向かいのホームの黄色い点字ブロックの上から、一人の男が自分を氷のような冷たい瞳で見つめていることなど、知る由もなく。
次に行うべきは「処理」だった。
時任は自席の固定電話を見つめた。ここから警察へ電話をかけることなど容易い。しかし、経理マンとしての警戒心がそれを制した。会社の電話、あるいは個人のスマートフォンから通報すれば、当然ながら警察から事情聴取を求められることになるだろう。
「なぜそう思ったのですか?」
「なぜ毎朝その男を観察していたのですか?」
そんな無駄な取り調べに貴重な時間を費やすことなど、時任のスケジュールにとって耐えがたい損失だ。何より、「日常のノイズを消したいだけだ」という彼の動機は、一般の警察官には到底理解されないだろう。正義の味方ごっこをしたいわけでもなければ、感謝状が欲しいわけでもない。
(匿名で、必要十分な「数字と事実」だけを提示すればいい)
時任は鞄を手に取ると、一切の無駄のない足取りでオフィスを後にした。
会社を出た時任は、いつもの通勤ルートをわずかに外れた。
駅へ向かう途中の路地裏。古い煙草屋の軒先に、ポツンと取り残された緑色の公衆電話ボックスがある。スマホが普及した現代において、利用する者など皆無に等しいその場所こそが、時任にとって最もノイズの少ない「送信ポート」だった。
ポケットから十円硬貨を取り出す。
投入口に滑り込ませると、チャリリと無機質な金属音が響いた。
受話器を上げ、110番のボタンを順番に押す。
『はい、110番警察です。事件ですか、事故ですか?』
受話器の奥から、警察官の声が聞こえた。
時任は表情ひとつ変えず、ハンカチ越しに当てた受話器に向かって、淡々と、しかしハッキリとした口調で話し始めた。
「昨夜発生した、〇〇マンションでの男性刺殺事件についての情報提供です」
『……名前と、現在地を教えてください』
「匿名です。貴署の捜査本部に『致命的な前提の誤り』があります。一分で話しますから、メモの準備をしてください」
『ちょっと待ちなさい。貴方、何者——』
「時間を無駄にしません」
時任は警察官の言葉を容赦なく遮り、機械のように冷徹なトーンでまくし立てた。
「警察は鑑識結果から『犯人は左利き』と発表していますが、それは論理の破綻です。犯人は右利きです。昨夜、犯人は凶器の柄を握った手が滑り、自らの右手の掌を刃で深く切り裂いた。だから現場の傷口は不慣れな左手による『偽りの左利き』に見えている。違いますか?」
受話器の向こう側で、息をのむ気配がした。悪戯電話をいなす怠惰な空気は一瞬で消え飛び、張り詰めた緊張感が電線を伝わってきた。
『……おい。君、いったい——』
「証拠を提示します。〇〇線〇〇駅、午前七時二十五分。四番ホームの乗車位置に立つ、黒スーツの男です。男は二年間、右手にスマホ、左手に缶コーヒーを持ち、右手のICカードで改札を通っていました。彼は明確な右利きです」
『……っ!』
「ですが今朝、男は左手にスマホを持ち、左腕をクロスさせて改札にタッチしました。右手の掌に、傷口の痛みを和らげるための『温かいブラック缶コーヒー』を乗せて保護していた。怪我の発生時間、左右反転の動作、すべてが昨夜の事件と一致します」
受話器の奥から、ガサガサと無線を呼ぶ音と、ペンが紙を走る凄まじい音が響いた。
『その男の特徴は……!』
「明朝、七時二十五分に四番ホームへ捜査員を派遣してください。右手を不自然に強張らせ、左手でスマホを操作している黒スーツの男。男の右手の包帯を剥がせば、そこには凶器で切った深い切り傷があるはずです」
『待て! 貴方は一体——』
ツーーーー、ツーーーー。
10円分の通話時間が切れ、無機質なシグナル音が響いた。
時任はゆっくりと受話器を戻し、公衆電話のフックに手を置いた。
冷たい夕風が、電話ボックスのガラスを揺らす。
時任は大きく息を吐き出し、自分の両手を見つめた。手痺れも、震えもない。完璧な計算を解き明かした後の、静かな達成感だけが胸を満たしていた。
(これで、数式は正しく書き直された)
警察が動くかどうかは、彼らの知性次第だ。だが、あれだけの具体的データを与えられて動かないほど、日本の警察は無能ではないだろう。
時任はスーツの乱れを整えると、再び六十五センチの正確な歩幅で、駅前の雑踏へと消えていった。
第四章・エピローグ:『調律された朝』
翌朝、午前六時三十分。
目覚まし時計の電子音が鳴り響く、その一秒前に時任秤は目を開けた。
呼吸を整え、布団を上げ、右足からスリッパに足を通す。
洗面所で歯磨き粉を正確に一センチ押し出し、右上の奥歯から磨く。白シャツに袖を通し、ネクタイのディンプルを中央に刻む。
午前七時〇分〇秒、右手に持ったドアノブを回して外へ出た。
すべてはいつも通り。完璧で、寸分狂わぬモーニングルーティンだ。
……だが、時任の胸中には、かすかな緊張が走っていた。
今日、あの「計算式」の最終的な解が証明される。
自分が提示したデータに対し、警察というシステムが正しい処理を行ったかどうか。それが試される朝だった。
歩幅六十五センチで歩を進め、踏切の手前へと差し掛かる。
カンカンカンと警告音が鳴り響き、遮断機が下りる。いつもの「四十二秒」の足止めだ。
立ち止まり、腕時計の秒針を無感情に見つめながら、時任は待った。
四十二秒後、遮断機が上がり、時任は再び右足から歩みを進める。
午前七時十五分。
コンビニで右手でブラックの缶コーヒーを買い、電子決済を済ませる。
そして七時二十二分、乗り換え駅のホームへと続く階段を上った。
三番ホームの乗車位置。足元の黄色い点字ブロックの上に立ち、視線を向かいの「四番ホーム」へと向けた。
七時二十四分。
そこには、いつもの風景があった。
通勤客が列を作り、電車を待っている。
しかし——あの男、浅見の姿だけが、なかった。
代わりに、浅見がいつも立っていた位置の周囲に、私服姿の不自然な男たちが二人、鋭い視線を走らせながら佇んでいた。警察の捜査員だ。
そして、男は現れなかった。七時二十六分の各駅停車が滑り込んできても、あの「左右反転した不快な男」がホームに立つことは二度となかったのだ。
(処理は完了した)
時任は静かに目を閉じ、胸の奥から不快なノイズが消えていくのを感じた。
警察は時任の通報通りに動き、浅見を特定・拘束したのだろう。右手の傷を隠しきれなくなった男は、今頃取り調べ室で自供を始めているはずだ。
自分のホームに滑り込んできた電車のドアが開き、時任は四両目の車両へと乗り込んだ。
数日後の夕方。
オフィスで経理処理を行っていた時任のスマートフォンに、ニュースの速報通知が入った。
『〇〇マンション刺殺事件、三十代の会社員の男を逮捕——容疑者は犯行時に右手を負傷』
記事には、警察の捜査線上に浮上した男・浅見達也が逮捕され、自宅から血痕の付着した衣類と凶器が押収されたこと。そして容疑者の右手には、自らの凶器で負傷した深い切り傷が残されていたことが淡々と記されていた。
時任は画面を消し、静かに息を吐いた。
同僚の佐々木が「例の刺殺事件、犯人捕まったみたいですね! 犯人、右手に大怪我しててすぐにバレたらしいですよ」と噂話をしているのが聞こえたが、時任は一顧だにしなかった。
正義が勝ったから嬉しいのではない。
ただ、歪んでいた数式が正しく修正された。それだけの話だ。
さらに数日が過ぎた、ある晴れた朝。
午前七時六分。
時任はいつも通りのテンポで、踏切へと続く通勤路を歩いていた。
七時八分。いつものように、あの踏切の手前へと差し掛かる。
毎朝時任を足止めし、彼の完璧な朝における唯一のノイズとなっていた「四十二秒の踏切」。
——しかし。
カンカンカン、という警告音は鳴らなかった。
遮断機は上がったままであり、時任は何の足止めも受けることなく、すんなりと踏切を渡り切ってしまったのだ。
「……?」
時任は歩みを止め、珍しく驚きに目を見開いた。
腕時計を見る。七時八分十秒。いつもなら遮断機の前で立ち尽くしているはずの時間だ。
なぜだ? ダイヤ改正があったわけでもない。
時任は脳内で瞬時に思考を巡らせ、そして、ひとつの美しく恐ろしい結論に達した。
あの男だ。
浅見は毎朝、七時二十六分発の電車に遅れそうになると焦り、この踏切の手前で無理な横断を試みて電車の安全確認(徐行)を発生させていたのだ。あるいは、浅見の乗る前方の電車がわずかに遅れることで、この路線全体の信号待ちを引き起こしていた。
あの男という「存在」そのものが、時任の通勤路全体に四十二秒のタイムラグというノイズを生み出していたのだ。
男が去り、事件が解決したことで、世界は真の意味で「完璧な調律」を取り戻した。
時任の唇の端が、かすかに上がった。
(四十二秒の遅延すら消えた。……完璧だ)
午前七時十四分。
いつもより四十二秒早く駅前に到着した時任は、爽やかな朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
右手の中に握られた缶コーヒーは、心地よい冷たさを湛えている。
一秒の狂いも、一円のズレもない。
ノイズの完全に消去された美しく退屈な日常の中へ、時任は確かな足取りで没入していった。
(了)




