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さよならは言わない ―あなたはいつも、すぐそこにいる― 人はどこから来てどこへ行くのか。なぜ、生まれ変わるのか。  作者: かーすけ


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3/6

犬と歩いた坂道

温度は、残る。

そしてその温度は、生きている人の手のひらから、次の温度へと、伝わっていく。

【一】


 一月の朝は、まだ暗かった。

 篠原麻衣が目を覚ましたのは、六時前だった。

 アラームはセットしていなかった。

 それでも体が起きてしまう。

 三ヶ月経った今も、毎朝この時間に目が覚める。

 チビと散歩に行っていた時間に。


 天井を見つめた。

 部屋は静かだった。

 以前は、この時間になると気配がした。

 布団の外でそわそわと動き回る気配。

 リードを持って玄関に向かうと、チビは小さく声を上げて飛びついてきた。

 今は何もない。

 その何もなさに、三ヶ月間、毎朝気づく。


 部屋の隅に、チビのベッドがある。

 丸い、くたびれたベッド。

 端のほうが少しほつれていて、チビがよく噛んでいた跡が残っている。

 片付けようとしたことは何度もあった。

 でもできなかった。

 ベッドを片付けたら、本当に終わってしまう気がして。

 首輪も、リードも、水飲み皿も、そのままにしてある。

 チビが逝ったのは、十月の夜だった。

 十四歳だった。

 柴犬としては長生きだと獣医に言われていた。

 最後の一年は歩くのもつらそうで、散歩は近所を少し回るだけになっていた。

 それでも外に出ると、鼻をひくひくさせて、風の匂いを嗅いで、うれしそうにしていた。


 最後の夜、チビは麻衣の布団の中に入ってきた。

 老いてからはあまりしなくなっていたのに、その夜だけ、するりと入ってきて、麻衣の腹の上で丸くなった。

 温かかった。その重さと温かさを感じながら、麻衣はいつの間にか眠った。

 朝、目が覚めたら、チビは冷たくなっていた。

 眠るように逝っていた。

 苦しんだ様子はなかった。

 麻衣の体の温もりの中で、静かに。


 泣いたのかどうか、麻衣にはよく覚えていない。

 ただ、その日から三ヶ月、涙が出なかった。

 悲しいはずなのに、悲しいのに、涙の出し方がわからなかった。

 感情が、体の奥の深いところで固まったまま、溶けなかった。


 麻衣はコートを着た。

 行くつもりはなかった。

 でも手がリードを探した。

 リードはフックにかかっていた。

 麻衣はそれを手に取って、それからそっと元に戻した。

 リードだけは、持っていけなかった。

 外に出ると、霜が降りていた。

 白く固まった地面が、街灯の光を受けて鈍く光っていた。

 吐く息が白かった。

 一月の空気は乾いていて、鼻の奥がひりひりした。

 足は自然に、坂道のほうへ向かった。

 毎朝チビと歩いた、あの坂道へ。


【二】


 坂道は静かだった。

 この時間に歩く人はほとんどいない。

 時折、遠くで車の音がするだけで、住宅街は眠ったままだった。

 麻衣はゆっくりと坂を上った。

 いつもはここで引っ張られた。

 チビは坂を上るのが好きで、麻衣より先に行こうとした。

 リードがぴんと張って、麻衣は「ちょっと待って」と言いながら歩いた。

 老いてからはその力も弱くなって、今度は麻衣がチビの歩幅に合わせた。

 一歩、また一歩と、ゆっくりと。

 今は、何も引っ張らない。

 手の中に、リードの重さがない。

 その軽さが、三ヶ月経っても体になじまなかった。


 坂の中ほどまで来たとき、上から何かが下りてきた。

 小さかった。

 四つ足で、とことこと、坂を下りてくる。


 麻衣は立ち止まった。

 柴犬だった。

 小柄で、赤毛で、耳がぴんと立っている。

 リードがついていなかった。

 首輪もなかった。

 どこの犬か、わからなかった。

 この辺りで見かけたことのない犬だった。

 犬は麻衣の前で止まった。


 顔を上げた。

 その目を見た瞬間、麻衣の胸の奥で、何かが動いた。

 丸くて、茶色くて、じっと見つめる目。

 何かを確かめるように、真っ直ぐに見てくる目。

 その目を、麻衣は知っていた。

 二十二年間、毎日見てきた目だった。

 違う、と思った。

 違うはずだ、と思った。

 でも犬は離れなかった。

 麻衣の足元で、くるりと一回転した。

 それからまた麻衣を見た。


 チビが散歩の途中で立ち止まったとき、いつもこうした。

 くるりと回って、「早く行こう」と言うように麻衣を見た。

 麻衣は息を吸った。

 犬がまた坂の上を向いた。

 そして歩き始めた。

 気がついたら、麻衣は犬の後ろをついて歩いていた。

 チビと歩いたのと、同じ速度で。


【三】


 坂の途中に、小さな公園があった。

 桜の木が一本と、ベンチが一つ。

 それだけの小さな公園だった。

 春になると桜が咲いて、チビがその花びらを不思議そうに見ていた。

 チビが老いてからは、この公園で必ず休んだ。

 麻衣がベンチに座ると、チビは麻衣の左足の脇に寄り添って座った。

 二人でしばらく、何も言わずに空を見た。

 冬の朝も、夏の朝も。


 犬が、そのベンチの前で止まった。

 麻衣は立ち止まった。

 偶然かもしれなかった。

 でも、この場所を知っているような止まり方だった。

 迷いのない、ためらいのない、ここだという止まり方だった。


 麻衣はベンチに座った。

 犬が麻衣の左足の脇に、ちょこんと座った。

 ぴったりと、寄り添って。

 麻衣は前を向いたまま、動けなかった。

 坂の下に、住宅街の屋根が並んでいた。

 空が白み始めていた。

 東の端から、光が滲み出してくる。

 一月の夜明けが、ゆっくりと始まっていた。


 犬の体温が、麻衣の左足に伝わってきた。

 コートの上から、ズボンの上からでも、その温かさが感じられた。

 小さな体の中にある、確かな体温が。

 麻衣はその温かさを、知っていた。


 坂道を上ってくる足音がした。

 ゆっくりとした足音だった。

 佐々木留子が、いつものコートを着て、坂を上ってきた。

 七十二歳の留子は、どんな天気の朝でもこの坂道を歩いた。

 麻衣とチビとは、何年もここで顔を合わせてきた。

 留子はベンチの前で立ち止まった。

 麻衣を見て、足元の犬を見て、少しの間黙っていた。

「チビちゃんに似てますね」

 留子が言った。

 麻衣は小さく答えた。

「……似てるんじゃないと思います」

 自分でも、何を言っているのかわからなかった。

 でも留子は驚かなかった。

 ただ静かに頷いて、麻衣の隣に座った。

 二人でしばらく、黙っていた。

 犬は動かなかった。麻衣の足元に、じっと寄り添ったまま。


「十年前に、主人を亡くしましてね」

 留子が、空を見ながら言った。

「しばらくは何もできなかった。ごはんも食べられなくて、夜も眠れなくて。涙も出なかった。悲しいのに、涙の出し方がわからなくて」

 麻衣は留子を見た。

「ある朝ね、主人がいつも座っていた縁側の椅子に触ったんです。冬の朝で、冷えているはずなのに——温かかった。主人の温度が、まだそこに残っていた」

 留子は少し間を置いた。

「温度ってね、残るんですよ。その人がいた場所に、その人がいた時間の温度が。私はそれに気づいてから、やっと泣けた」

 麻衣は前を向いた。

 空が、もう白くなっていた。


【四】


 麻衣は手を伸ばした。

 犬の頭に、そっと触れた。

 温かかった。

 一月の霜の朝なのに、その小さな体は温かかった。

 麻衣がよく知っている温度だった。

 二十二年間、毎日触れてきた温度。

 朝の散歩の後、興奮した体の熱。

 夜、布団に潜り込んできたときの体温。

 最後の夜、麻衣の腹の上で丸くなっていた、あの温もり。

 その温度が、今、麻衣の手のひらにあった。

 麻衣の目から、涙が落ちた。

 三ヶ月間、出なかった涙が。

 チビが逝った朝も、火葬の日も、骨を拾った日も、出なかった涙が。

 一月の霜の朝、小さな公園のベンチで、見知らぬ老婦人の隣で、ようやく、出た。

 声は出なかった。

 ただ涙だけが、止まらなかった。


 犬が麻衣の手に、鼻先を押しつけた。

 冷たい鼻先だった。

 チビもいつもそうだった。

 体は温かいのに、鼻先だけいつも冷たかった。

 その冷たさを、麻衣は手のひらで覚えていた。

 麻衣は犬の頭を、ゆっくりと撫でた。

 耳の後ろを、顎の下を、背中を。チビがいちばん好きだった場所を。

 犬は目を細めた。されるがままに、じっとしていた。


 どのくらいそうしていたか、わからなかった。

 涙が止まるまで、留子は何も言わなかった。

 ただ隣にいた。それだけで、十分だった。


 空が、すっかり明るくなっていた。

「行っておいで」

 留子が静かに言った。

 麻衣にではなかった。足元の犬に向かって。

 犬が立ち上がった。

 麻衣を見た。

 一度だけ、あの目で、真っ直ぐに。

 麻衣は何も言えなかった。

 でも目を逸らさなかった。

 二十二年分を、その目の中に見た。

 小学六年生の冬に家に来た日のことを。

 一緒に眠った夜のことを。

 坂道を先に立って歩いていた日のことを。

 老いて、歩くのが遅くなっても、鼻をひくひくさせて風の匂いを嗅いでいたことを。


 犬は坂の上へ、歩き始めた。

 とことこと、迷いなく。

 麻衣は追わなかった。

 犬は坂を上りきったところで、一度だけ振り返った。

 それから、朝の光の中へ、消えていった。


「よかったですね」

 留子が言った。

 麻衣は涙を拭いながら、うなずいた。

 声が出なかった。でも、うなずけた。

 二人でしばらく、桜の木を見ていた。

 冬枯れの枝が、朝の光の中で細く伸びていた。

 春になったら、また花が咲く。

 チビが不思議そうに見ていた、あの花が。


 家に帰って、麻衣はチビのベッドを撫でた。

 くたびれた丸いベッド。

 端のほつれた場所を、指でなぞった。

 温かかった。

 冬の朝の部屋なのに、確かに温かかった。


 麻衣はベッドに顔を埋めた。

 チビの匂いが、まだそこにあった。

 薄くなっていたけれど、まだあった。

 しばらくそうしていた。

 泣きながら、でも不思議と、苦しくなかった。

 温かかったから。


 その年の春、麻衣は久しぶりに実家へ帰った。

 両親は驚いていた。

 チビが逝ってから、麻衣が連絡をほとんどしなくなっていたから。

「元気そうじゃないか」と父が言った。

「うん」と麻衣は答えた。

「会いたくなって」

 それだけで、両親は笑った。

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