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さよならは言わない ―あなたはいつも、すぐそこにいる― 人はどこから来てどこへ行くのか。なぜ、生まれ変わるのか。  作者: かーすけ


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2/5

最後の定食

愛情は、味に宿る。

そしてその味は、食べた人の体の中で、永遠に生き続ける。

【一】


 十月の昼下がり、村上孝は一人で「まさ屋」の引き戸を開けた。

 半年ぶりだった。母の葬儀のとき以来、この店に入るのは。

 六坪ほどの小さな定食屋だった。

 カウンターが五席、小さなテーブルが二つ。

 壁には色あせたメニューの短冊が貼られたままで、隅の棚には母が集めていた小さな招き猫が並んでいた。

 四十年間、何も変わらなかった店内が、今は物だけが残って、がらんとしていた。


 孝は段ボール箱を床に置いて、店の中をゆっくりと見回した。

 東京からここまで、新幹線と在来線を乗り継いで四時間かかった。

 今日は片付けだけして、夜の便で帰るつもりだった。

 業者に頼むことも考えたが、それはできなかった。

 母が四十年間守ったものを、他人に任せることが。


 カウンターの中に入ると、出汁の香りがした。

 昆布と鰹の、あの香りだった。

 孝は思わず立ち止まった。

 おかしい、と思った。

 母が倒れたのは半年前の三月だ。

 それからずっと厨房は使われていない。

 なのに、どこからその香りがするのか。

 壁に染み込んでいるのだろうか。

 四十年分の出汁が、この店の細胞の一つ一つに沁み込んでいるのだろうか。


 孝は厨房に入った。

 大きな寸胴鍋が、コンロの上にそのまま置かれていた。

 磨き込まれて、底が少し黒ずんでいる。

 母が毎朝五時に起きて、この鍋で出汁を引いていた。

 昆布を水に浸して、火にかけて、鰹を入れて、丁寧に漉して。

 子供の頃の孝は、その音で目を覚ますことが何度もあった。

 トン、トン、という包丁の音と、出汁の香りで。

 孝は鍋に触れた。

 冷たかった。

 当たり前だ。

 でもその冷たさが、胸に刺さった。


 母、村上幸子がこの店を始めたのは、孝が八歳のときだった。

 父が早くに体を壊して働けなくなり、幸子は一人で家計を支えるためにカウンターだけの小さな定食屋を開いた。

 料理の修業をしたわけでもない。

 ただ、毎日丁寧に出汁を引いて、季節の食材で一汁三菜を作り続けた。

 それだけだった。

 でもその「それだけ」が、四十年間続いた。


 孝が高校を出て東京へ行くとき、母は「大丈夫よ、お客さんがいるから」と笑って見送った。

 心配するな、という意味だったのか。

 それとも——お前がいなくても大丈夫、という意味だったのか。

 今になって、孝にはわからなかった。

 東京で二十年以上、正月に一度か二度帰るだけだった。

 いつでも電話できると思っていた。

 いつでも会いに来られると思っていた。

 三月の朝、厨房で倒れた幸子は、病院に着く前に逝った。

 享年七十六歳。

「まさ屋」の厨房で、割烹着のまま。

 孝が東京から駆けつけたとき、母はもういなかった。


【二】


 カウンターの椅子を一つずつ拭いていると、引き戸が開いた。

 四十代くらいの女性が立っていた。紺色のジャケットを着た、きちんとした印象の人だった。

 店の中を見渡して、何かを確かめるように、それから孝に目を向けた。

「あの、まだ——」

 言いかけて、止まった。

 段ボール箱と、ガムテープと、雑巾を持った孝を見て、状況を察したのだろう。

「片付け中で」と孝が言うと、女性は「わかってます」と静かに答えた。

「ただ、最後にどうしても入りたくて。幸子さんに、もう一度だけ会いたくて」

 孝は少し戸惑った。

 でも断れなかった。

 この場所に来たくて来た人を、追い返すことができなかった。

「どうぞ」

 女性は中に入って、カウンターの一番奥の席に座った。

 迷いのない座り方だった。

 ずっとここに座ってきた人の座り方だった。


 田村静香と名乗った。

 二十年来の常連だと言った。

「二十年ですか」

「ええ。主人を亡くして、子供が小さくて、一番しんどかった頃から来てました」

 孝は手を止めた。

「幸子さんはね」と静香は続けた。

「何も聞かなかったんです。しんどそうな顔をしてても、根掘り葉掘り聞かなかった。ただ、だまって小鉢を一つ増やしてくれて。今日のはよく食べてね、って」

 孝は黙って聞いていた。

「帰り際にね、幸子さんはいつも同じことを言うんです。また来てね、じゃなくて。待ってるから、って」


 待ってるから。

 孝の胸に、その言葉が刺さった。

 母は孝にも、いつもそう言っていた。

 電話を切るたびに。

 正月に帰って、また東京に戻るたびに。

「待ってるから」と。

 孝はその言葉を、挨拶のようなものだと思っていた。

 深く考えたことがなかった。

 でも今になって思う。

 待ってるから、という言葉の重さを。

 七十六歳になるまで、その言葉を言い続けた人の重さを。


 静香はカウンターに肘をついて、ゆっくりと店内を見回した。

「変わってないですね、何も」

「四十年、変えなかったみたいです」

「そうでしょうね。幸子さん、ここが好きだったから。この空間が、自分の場所だって言ってました」

 孝は初めて知ることばかりだった。

 母がどんな言葉を常連客に話していたか。

 どんな顔で厨房に立っていたか。

 息子の孝が知っている幸子は、家の中の母親だった。

 でもこの店に来た客たちが知っている幸子は、また別の顔を持つ一人の女性だったのだ。


「息子さんのこと、よく話してましたよ」

 静香が言った。

 孝は顔を上げた。

「東京で頑張ってるって。自慢してました、いつも。ちょっと不器用なところがあるけど、真面目だから大丈夫って」

 孝は返す言葉がなかった。

 不器用なところがある。

 そうだった。

 孝は感情を言葉にするのが苦手だった。

 ありがとうも、ごめんも、なかなか言えなかった。

 母にも、ずっと言えないままだった。


【三】


「あの香り、まだしますね」

 静香がふと言った。

 孝も感じていた。

 片付けを始めてからずっと、出汁の香りが漂っていた。

 最初はそれほど気にしていなかった。

 でも今は——さっきより、濃くなっていた。

「昆布と鰹の出汁ですよね。幸子さん、毎朝五時に引いてたって言ってました。一番出汁だって。手を抜いたら、客に伝わるから、って」

「子供の頃から、家中がその匂いだった」

 孝はぽつりと言った。

「学校から帰ると、いつもしてた。腹が減ってて帰ってきたとき、玄関を開けたら出汁の匂いがして。それだけで、なんかほっとした」

「わかります」と静香は言った。

「私もそうでした。しんどい日に、この店の引き戸を開けたとき、この匂いがして。それだけで、少し楽になれた」

 香りが、また濃くなった。

 孝は厨房のほうを見た。

 誰もいなかった。

 コンロの火はついていない。

 鍋も空っぽのままだ。

 でも香りは確かに、厨房の奥から流れてきていた。

 昆布の深い香りと、鰹の温かい香りが、混ざり合って、ゆっくりと広がっていた。


 静香も厨房を見ていた。

 二人とも、何も言わなかった。

 孝の目の奥が、熱くなった。

 母が見えるような気がした。

 見える、というより、感じた。

 割烹着を着て、大きな鍋の前に立っている。

 背中を丸めながら、鍋の中を覗き込んでいる。

 孝が何度も見た、あの後ろ姿が、厨房の空気の中に、確かにあった。

 孝は唇を噛んだ。

 二十年以上、正月にしか帰らなかった。

「大丈夫か」と電話で聞いて、「大丈夫よ」という答えを聞いて、それで安心した気になっていた。

 本当に大丈夫かどうか、確かめに来たことは一度もなかった。

 厨房に立つ母の体が年々細くなっていることに、気づかないふりをしていた。


 ありがとうと言えばよかった。

 うまいと言えばよかった。

 もっと早く、帰ってくればよかった。

 そう思ったとき、孝の目からぽろぽろと涙が落ちた。

 泣くつもりはなかった。

 四十八歳の男が、と思った。

 でも止められなかった。

 三月から半年間、ずっと閉じていた何かが、この香りの中で、ほどけていった。

 静香は何も言わなかった。ただ、黙って、孝の隣にいた。


 どのくらいそうしていたか、孝にはわからなかった。

 気がついたら、涙が止まっていた。

 そして——カウンターの上に、小皿が一枚置かれていた。

 孝は眼を瞬かせた。

 置いた覚えがなかった。

 静香も置いていない。

 二人ともカウンターの中には入っていない。

 なのに、白い小皿の上に、ほうれん草のおひたしが、きれいに盛られていた。


【四】


 孝は動けなかった。

 小皿を見つめたまま、息をするのも忘れていた。

 静香が小さく言った。

「幸子さんが、作ってくれたんですね」

 孝はゆっくりと皿に手を伸ばした。

 陶器は、温かかった。

 冷たい厨房の空気の中なのに、確かに温かかった。

 出汁を含んだほうれん草が、艶やかに光っていた。

 箸を取った。

 一口、口に入れた。

 出汁の味がした。

 昆布と鰹の、やさしい出汁の味。

 醤油の角が立たず、素材の甘みを引き出すだけの、余計なものを何一つ加えていない味。

 子供の頃からずっと知っているその味が、口の中に広がった瞬間、孝の胸の奥で何かがわれた。

「……うまい」


 声に出してしまってから、孝は気づいた。

 これだ、と思った。

 ありがとう、よりも前に、言いたかった言葉はこれだったのだと。

 母が作るものを食べるたびに思っていたのに、一度も言えなかった言葉。

 不器用だから言えなかったのか。

 言わなくてもわかると思っていたのか。

 それとも、当たり前すぎて、言葉にする必要を感じなかったのか。

 どれも本当で、どれも言い訳だった。

 うまい。

 それだけでよかった。

 ただそれだけを、言い続けていれば、よかった。

 静香も箸を取った。

 おひたしを一口食べて、目を閉じた。

「幸子さんの味だ」

 つぶやくような声だった。

「ずっと、この味が好きだった。何度、この味に救われたか」

 二人は黙って、小皿のおひたしを食べた。

 六坪の小さな店で、四十年分の出汁の香りに包まれて、母が最後に作ってくれた一品を。


 食べ終わると、厨房の香りが、少しずつ薄くなっていった。

 消えるのではなかった。

 引いていくのでもなかった。

 壁に、床に、カウンターの木目に、じわりとしみ込んでいくような、そういう薄れ方だった。

 四十年かけてそこに積み重なってきたものが、最後の一滴まで、この場所に刻まれていくような。

 孝は厨房に向かって、頭を下げた。

 言葉は出なかった。

 出なくていいと思った。

 母はいつも、多くを語らない人だった。

 料理で話す人だった。今日も、そうだった。


 静香が帰り際、引き戸のところで振り返った。

「幸子さんね、最後まで言ってましたよ。息子が東京で頑張ってるから、私も頑張れるって」

 孝は返事ができなかった。

「だから」と静香は続けた。

「あなたも、頑張ってください。それが幸子さんへの、一番の恩返しだと思うから」

 引き戸が閉まった。

 孝は一人になった。


 夕方の光が、ガラスの引き戸から差し込んでいた。

 埃の中に、小さな光の粒が舞っていた。

 ゆっくりと、それぞれが輝きながら、漂っていた。

 孝はカウンターに手を置いて、厨房を見た。

 誰もいなかった。

 でも、確かにそこに、母がいた。

 四十年間、毎朝五時に起きて、出汁を引いて、一汁三菜を作り続けた母が。

「大丈夫よ、お客さんがいるから」と笑い続けた母が。

「待ってるから」と言い続けた母が。

 この場所に、ずっといた。

 これからも、いるのだろう。


 孝はその日、片付けを途中でやめた。

 もう少し、この場所にいたかった。

 もう少しだけ、この香りの中にいたかった。

 東京への帰りの便を、翌朝に変えた。


 その夜、孝は「まさ屋」のカウンターに座ったまま、朝まで過ごした。 

 母が四十年間守ったカウンターで、

 出汁の香りの残る空気の中で、

 ただじっと、夜が明けるのを待った。

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