卒業式の前の日
大切な人は、消えてしまったのではない。
ただ、見える場所が変わっただけだ。
【一】
三月の夜は、まだ冷たかった。
桐島拓海は、台所の灯りが消えるのを待ってから、静かに玄関の戸を開けた。
「ちょっと散歩」
母の寝室に向かって小さく声をかけると、しばらくしてから「気をつけてね」と短い返事が返ってきた。
その声が少しかすれていたのは、もう寝ていたからだろうか。
それとも別の理由があったのか、拓海にはわからなかった。
外に出ると、息が白くなった。
中学校までは歩いて十分もかからない。
長野の地方都市の夜は早く、道を歩く人は誰もいなかった。
拓海はコートのポケットに手を突っ込んで、いつもの道を歩いた。
明日は卒業式だった。
三年間通った学校に、もう毎日来ることはなくなる。
それが嬉しいはずなのに、なぜかこの夜は胸のどこかに重いものがあった。
重さの正体を考えるより先に、足は学校のほうへ向かっていた。
校門は閉まっていた。
でも拓海は迷わず校舎の裏手へ回った。
フェンスの一部がゆるんでいる場所を、二年前から知っていた。
するりと体を入れて、誰もいない校庭に立つ。
体育館の窓に明かりがついていた。先生が卒業式の準備をしているのだろう。
拓海の目当ては別の場所だった。
校門の脇の、桜の木。
幹が太く、春になると校庭で一番最初に花をつける木だった。
その木の下に行って、根元に背を預けるようにして座った。
蕾はまだ固かった。明日の式には、間に合わない。
拓海は膝を抱えて、夜空を見上げた。
星が出ていた。
父さん、と心の中でつぶやいた。
声には出さなかった。
出し方が、もうわからなくなっていた。
父が死んだのは、拓海が中学一年の秋だった。
建設現場の事故だった。
午後に突然かかってきた学校への電話、呼び出されて廊下に出たときの担任の顔、
それから母に連れられて向かった病院
——あの日のことを、拓海は今でもはっきり覚えている。
覚えていたくないのに、覚えていた。
父は現場監督をしていた。
大きくて、声が大きくて、笑うと目が細くなる人だった。
拓海の学校行事には必ず来て、卒業式や運動会のたびに「校門の脇の桜の木の下で待ってるぞ」と言っていた。
小学校の卒業式のとき、父はその木の下で腕を組んで立っていた。
拓海が走り寄ると、頭をくしゃくしゃに撫でて、「よく頑張ったな」とだけ言った。
たったそれだけのことが、なぜかずっと胸に残っている。
中学の卒業式には、父はいない。
そのことが、この三年間でいちばんつらかった。
母に心配させたくなくて、誰にも言えなかった。
【二】
十分ほど経った頃、校庭の奥から足音がした。
拓海は顔を上げた。
作業服を着た男が、こちらに向かって歩いてきた。
四十代くらいだろうか。
現場帰りのような、くたびれた感じの作業着。
手には何も持っていなかった。
拓海は少し身構えた。
でも男は攻撃的な様子もなく、桜の木の前で立ち止まると、
「ここ、入っていいですか」と静かに言った。
妙な聞き方だった。
ここは学校の校庭で、入っていいも何もない。
でも拓海は黙ってうなずいた。
男は木の脇にしゃがみ込んで、蕾を見上げた。
「明日には間に合わんな」
その言い方が、どこかで聞いたことがある気がした。
拓海が黙っていると、男はそのまま夜空に目を向けた。
しばらく二人で黙って空を見ていた。
不思議と、気まずくはなかった。
「明日、卒業式か」
男が言った。
「……はい」
「そうか」
それだけで、また沈黙になった。
でも男の声には、何か温かいものがあった。
初めて会う人なのに、拓海には不思議とそう感じた。
「うちの息子も昔、こうしてたんだ」
男は独り言のように言った。
「卒業式の前の夜に、学校に忍び込んで。この木の下に一人で座って、空を見ていた」
拓海の心臓が、少し早く打った。
「……変な子ですね」
「そうだな」と男は笑った。
「でも俺は、そういうところが好きだったよ。一人で抱えようとする、そういうところが」
その笑い方を、拓海は知っていた。
笑うと目が細くなる。その笑い方を。
でも、どこで知っているのかわからなかった。知っているはずがなかった。
【三】
「建築の仕事がしたいんです」
気がついたら、口から出ていた。
男が拓海を見た。
「高校出たら?」
「いえ、高校はちゃんと行きます。その先のことです。現場で働きたくて」
一度も、誰にも言ったことがなかった。
母には言えなかった。
父の話をすると、母の顔が曇るのがわかっていたから。
でも心の中ではずっと、そう思っていた。
父みたいな仕事がしたいと。
男は驚いた顔をしなかった。
「いい仕事だよ、それは」
ただそれだけ言って、また夜空を見上げた。
「俺もそうだったから」
拓海は息を止めた。
そのとき、体育館のドアが開いた。
明かりを背に受けて、西田先生が出てきた。
国語の担任で、三年間拓海のクラスを受け持った先生だ。
「誰かいるのか」
先生は声を上げかけて、止まった。
懐中電灯の光が、二人を照らした。
拓海の顔を見て、それから男の顔を見た。
先生の表情が変わった。
何かを見たような顔だった。
拓海には、先生が何を見たのかわからなかった。
でも先生は声を荒げなかった。
不審者だと叫びもしなかった。
ただ、懐中電灯を少し下げて、一歩後ろに引いた。
そのまま、何も言わずに、少し離れた場所に立って夜空を見上げた。
三人が、しばらく黙って空を見ていた。
後になって、西田先生はそのときのことをこう語った。
男の輪郭が、わずかに光を帯びているように見えた。
顔は知らない人だった。
でも——桐島が笑うときの、目の細くなるあの笑顔と、重なった。
父親だとわかった。
理屈ではなく、教師として三年間この生徒を見てきた目が、そう感じた。
だから何も言わなかった。あの時間は、邪魔してはいけないものだと思った。
【四】
男が立ち上がったのは、どのくらい経ってからだろうか。
「そろそろ行かないと」
拓海も立ち上がった。
膝の土を払いながら、男の顔を見た。
男は拓海に向き直って、少し間を置いてから言った。
「明日、胸張って行けよ」
「……はい」
「卒業おめでとう」
それだけだった。
男が踵を返して、校庭を歩き始めた。
その背中を見ながら、拓海の喉の奥で何かがほどけていくような気がした。
三年間、ずっと閉じていた何かが。
「——父さん」
声になった。なるとは思っていなかったのに、声になった。
男は振り返らなかった。
でも、その肩が、少しだけ揺れた。
そのまま夜の向こうへ、消えていった。
拓海は桜の木の前に立ったまま、動けなかった。
涙が出るかと思ったが、出なかった。
ただ、胸の重さが——三年分の重さが、どこかへ行ってしまったような気がした。
西田先生が静かに隣に来て、木の根元に腰を下ろした。
「座るか」
拓海も座った。
二人でしばらく、桜の蕾を見ていた。
「先生」
「ん」
「俺、建築の仕事がしたいんです。現場で働きたい」
先生は少し間を置いてから「そうか」と言った。
「いい仕事だな、それは」
また沈黙になった。
でも今度の沈黙は、軽かった。
夜が明け始めた。空の端が、少しずつ白んでいった。
長野の山の端から、朝の光が滲み出してくる。
その光の中で、桜の蕾が少しだけ、ほんの少しだけ、膨らんで見えた。
【五】
卒業式は、十時から始まった。
体育館に、在校生と保護者の顔が並んでいた。
拓海は母の顔を壇上から探した。すぐに見つかった。
母——桐島敦子は、いつも通りのグレーのコートを着て、端の席に座っていた。
拓海が目を向けると、少し頷いて見せた。
目が赤かった。
泣くつもりはなかったのだろうに、と拓海は思った。
母はいつもそうだった。
泣くつもりのないときに、泣いていた。
父が死んでから、母は何も言わなかった。
拓海に父の話をほとんどしなかった。
辛すぎて話せないのか、話さないほうが拓海のためだと思っているのか、拓海にはわからなかった。
でも時々、台所で一人でいるときの母の後ろ姿が、どこか遠くを見ているような気がした。
証書を受け取るとき、拓海は胸を張った。
昨日の夜、男に言われた通りに。
式が終わって、校庭に出た。
在校生が花道を作っていた。
拓海はクラスメートに混じって歩きながら、校門の脇の桜の木を見た。
花道を抜けて、母の元へ行った。
「おめでとう」
母は短く言って、それからうつむいた。
肩が小さく震えていた。
拓海は何も言わなかった。
ただ、母の隣に立った。
しばらくして母が顔を上げた。目を拭いて、それから桜の木を見た。
「あそこで待ってるって、いつも言ってたね」
母が言った。
「うん」
「小学校の卒業式も、腕を組んでここで待ってたね。あの人、本当に律儀だったから」
拓海は黙ってうなずいた。
「来てたと思う?」
母が拓海を見た。
泣いた後の目で、でも真剣に聞いていた。
拓海は桜の木を見た。
蕾は、今朝より少し膨らんでいるような気がした。
「来てたよ」
拓海は言った。
「昨日の夜、会ったから」
母の目が大きくなった。
でも何も言わなかった。
二人でしばらく、桜の木を見ていた。
風が吹いた。
冬の残りを含んだ風が、蕾をわずかに揺らした。
そのとき拓海には、風の中に何かが混じっているような気がした。
あの男の笑い方に似た、目の細くなるような温かさが。
母が、小さく笑った。
三年ぶりに見る、本当の笑顔だった。
桜はその年、卒業式の翌々日に咲いた。
拓海と敦子は二人で見に行った。
見上げると、満開の花が風に揺れていた。
「きれいだね」と母が言った。
「うん」と拓海は答えた。
花びらが一枚、ゆっくりと落ちてきた。
拓海の手のひらに乗って、それから風に運ばれて、どこかへ消えた。




