職場体験の日
私は、小さな谷あいの町にある中学校の2年生。毎年、2年生は7月に「職場体験」をすることになっている。
担任のO先生が「今日の自立の時間は、来月予定されている『職場体験』についてです。この学習は、皆さんに『労働とはどんなものか』を体験してもらうものです」と説明すると、
「先生、俺、サッカー選手になりたいです!」と男子が声を上げた。
すると「私は保育士!」「私は声優!」「漫画家!」「美容師!」と、教室は一気に騒がしくなった。
「静かに! これは“なりたい職業”を体験するものではありません。皆さんはいずれ社会に出て働き、お金を得て生活していくことになります。まずは『賃金を得るために働くとはどういうことか』を知るための体験です。この経験を通して、自分の将来設計のヒントをつかんでください」
先生はそう言ってクラスを落ち着かせた。
「本当は、皆さんが希望する職業を体験してもらえれば一番いいんだけど、ここは田舎なので、体験できる職種は限られています。一応、希望は取りますので、これから配る紙に第三希望まで書いてください」
配られた用紙を見ながら、私は胸が少し痛んだ。
みんなには夢がある。なりたい職業がある。
でも、私にはそれがない。
夢がないというより、私の人生設計はとても現実的だった。
「とりあえず高校を卒業して、家から通える職場に就職して、適齢期に結婚して、子どもを育てて、平凡に暮らしたい」
そんな程度のものだ。家には祖母が野菜を育てている小さな畑もあり、いつか私も野菜を育ててみたいと思っていた。
用紙の下の方に「H農園」という欄を見つけた。「小さな農家」と書いてある。ここなら過酷ではなさそうだと思い、第一希望に書いた。結果、希望どおりH農園に決まった。
体験当日。朝8時に昇降口に集合し、先生の話を聞いたあと、職場の方面ごとに役場の人が運転するマイクロバスに乗り込んだ。H農園は学校から遠く、私は最後に降ろされた。
「A中学校2年2組のM代と申します。今日は一日、職場体験でお世話になります。よろしくお願いします」
学校で教わったとおりに挨拶すると、園主のHさんが「よく来たね」と迎えてくれた。時刻は9時を少し過ぎていた。
「せっかく来てもらったけど、うちはキュウリの収穫がまだ始まってなくてね。今はそんなに忙しくないんだ。奥の座敷に荷物を置いたら、まずはお茶でも飲んで休んでいきなさい」
拍子抜けしつつも従った。急須で淹れてくれたお茶を飲みながら、Hさんは独り言のように話し始めた。
「自分はサラリーマンを定年退職して、家に残された田畑で農業をしているんだけど、この規模じゃ生計は立たないんだ。奥さんと息子の収入に助けられながら、収支がトントンになるくらいでね」
午前も午後も、体験したのは翌日出荷するジャガイモの袋詰めだった。コンテナのジャガイモを一つずつ量り、同じ重さのものを集めて300g以上にし、ラベルを貼った袋に詰めて口を閉じる作業だ。
作業をしながら、Hさんはまた独り言のように話した。
「自分は長野県の農業試験場に勤めていたんだよ。両親が亡くなってからは、勤めながら田畑を維持してきてね。定年後も臨時職員として働く選択肢はあったけど、誰かに使われたり、同じ職場の人に気を使ったりするのが嫌でね。通勤も遠かったし、家で細々と農業をやることにしたんだ」
午後3時になると、またお茶の時間になった。午前と同じようにお茶を飲んでいると、Hさんが私に尋ねた。
「M代さんは、将来何になりたいんだい?」
一番聞かれたくない質問だった。
「まだ決まっていません……」
下を向いたまま答えると、Hさんは明るい声で言った。
「そりゃあいい。おじさんなんて、中学や高校の頃は雑誌記者になりたかったんだ。大学も文学部に行ってね……それがどこでどう間違ったのか農学部に進んで、農業試験場に就職しちゃった。大学を卒業する頃なんて、どんな仕事があるかほとんど知らなかったよ。知らない仕事の方が圧倒的に多いんだ」
「若いころの夢どおりの仕事に就いてる人なんて、ほんの一握りだよ。憧れていた仕事に就いてみたものの、想像と違って転職する人だっている。だから今は焦らず、フリーにしておいていいんだよ。運命に任せて進んでいけばいい」
迎えのバスに乗る私に、Hさんは「今日はお疲れ様。人生は長いよ。慌てなくても大丈夫」と声をかけてくれた。
バスの中で、私はなぜかHさんの言葉を思い返していた。そういえば英語のH先生も、教師になる前はコープデリの運転手をしていたと言っていた。
私の親は、いつから今の職業に就きたいと思ったのだろう。そんなことを考えているうちに、バスは学校に着いた。
帰り道、N子はショッピングセンターのバックヤードでの体験を楽しそうに話してくれた。私は相づちを打ちながらも、心の中ではHさんの言葉が響いていた。
焦る必要なんて、ないのかもしれない。
私の生き方が否定されなかったことで、少しだけ心が軽くなった。




