第二章-2 藝祭
カレンダーが九月になり、高校生活が戻って来た。その初日、私は登校するなり隣のクラスを覗き、倫の姿がそこに在ることを確認する。夏休みの間も、毎朝のインスタチェックを欠かすことはなく、時々投稿される作品を見てはホッとしていたのだ。
彼女が渡すと言った翼を受け取る気など毛頭ないし、そんなことを言い出すこと自体イカレてると思っているが、同時に、彼女の自殺願望を心配している私も居るのだ。どこか狂っている天才が放つ魅力を、完全に無視することは難しい。だが、会話をしたいとは思えず、距離を保ったまま生存をチェックするに留めている。それがちょうど良いと思えた。
夏休みが明けるとすぐに上期の期末試験ラッシュが始まったし、大学の学園祭もスタートするので、私たちは大忙しだ。考えても解決しない問題に、心を奪われている場合ではない。他の美大の先陣を切って開催される東京藝大の学園祭には、試験中だろうと行かざるを得ないと、岡倉と私は土曜日の朝早くに上野に向かって出発した。
横浜から外に出ることがないので、東京の地理にとても疎い。上野とは一体何線にある駅なのかも知らなかったが、藝大一家の岡倉が上野東京ラインで連れて行ってくれた。上野駅から大学に向かって歩いていると、巨大なオブジェが公道を行進しているのが目に飛び込んでくる。上野と言う街は狂っているなと思っていたら、岡倉が解説を始めた。
「あれが藝祭名物の御輿だよ。学祭に合わせて、街も協力してアートフェスが開催されるんだ。藝大の一年生は、美術学部も音楽学部もごちゃ混ぜの四グループに分けられて、全員参加で作るんだって。うちの兄貴と姉貴も夏休み返上で作りに通ってたよ。御輿を担いだり、周りでパフォーマンスしてるのも一年生」
「えー、強制参加なのか。共同作業は苦手なんだけどなぁ……って、私は藝大には受からないだろうけど」
いきなりネガティブな気持ちになったが、麒麟らしきオブジェを乗せたその御輿は、躍動感があるフォルムで見ていて楽しい。細部もクオリティ高く作られていて、近づいてもチープさがない。歩く間に他の三体にも遭遇したが、どれも完成度が高く、そこはさすが藝大生と言うべきか。音楽学部による生演奏と共に御輿が進む様は、これこそが祭りの原点のように感じられて、見応えがあった。
御輿を堪能した後にやっと大学の敷地内に到着し、本来の目的である展示作品を見て回る。デザイン学科の作品だけではなく、絵画や日本画、工芸、そして彫刻などの作品もスルーせずにちゃんと見る。建築学科が作った家具の展示もあった。
岡倉父からアドバイスを受けた後、私の中には迷いが生まれている。愛を理解できない私が進路にアートを選んで大丈夫なのかと、時々考えてしまうのだ。今も藝大生の作品を見ながら、そこに作り手の愛は存在するのかと探してしまう。だがその一方で、本当に愛などという正体のわからないものが必要なのだろうかと、懐疑的でもあるのだ。それに、アートのために人間の生臭い感情を理解したいとも思えない。岡倉父と話したせいで、私の中にはノイズが発生していた。
見学の途中で何度も高校の見知った顔と遭遇する。社交的で人懐こい岡倉は歩みを止めて、二言三言言葉を交わし、私と交流がなさそうだと判断すれば、『彼女は二組で一緒の木暮さん』としなくてもいい紹介をする。その都度『こんにちは』と言わなくてはならないため、無駄に体力が削られていく。模擬店での昼休憩を挟み、やっと展示を全て見終えて藝大を後にした時、これでもう挨拶しなくて済むとホッとしたほどだ。
駅への道を戻る途中、岡倉はスマホを出して、スケジュールアプリを起動している。
「武蔵美と多摩美も行くよね? 今月末と来月だっけ?」
「ん? 藝大以外は受けないんだよね?」
「うん。俺は受けないけど、木暮さんは行くんでしょ? 付き合うよ」
「いや。なら、一人で行くからいいって」
社交的な岡倉と今日一日行動を共にした結果、度重なる挨拶にすっかり疲れてしまったのだ。これをあと二回もやるなんて冗談じゃない。しかもきっと、藝大よりも多くの同級生たちが、武蔵美と多摩美の学祭には行くだろう。岡倉は不満そうな声を上げたが、私は彼を横目で見ながら、首を横に振り続けた。やっぱり私はソロ活動が性に合っているし、一人の時間が必要だった。
岡倉とは学校でも行動を常に共にしているわけではなく、必修科目で終わった日の放課後は、基本的に別行動だ。彼は友達も多く、よく男同士で遊びに行っている。今日も上期が終わった打ち上げにカラオケに行く相談をしている声が、同じ教室にいると聞こえてくる。こういう遊びには誘って来ないとわかっているので、すぐに下校した。
「木暮さーん、久しぶり」
帰り道で偶然、去年隣の席だった香川と出会う。今年はクラスが別れ、彫刻科を目指している彼女とは選択クラスも被っていないので、本当に久しぶりだ。私たちはそのまま並んで歩き出した。
近状を報告し終えた時、香川が意味ありげな笑みを浮かべる。
「ねぇ、岡倉くんと付き合ってるんだって? こっちのクラスで噂になってたよ」
一学年二クラスしかないので、二年目ともなるとたった八十人の同学年は、なんとなく全員把握しているものだ。それでも隣のクラスでなぜ噂になるのかと、まずそこに疑問に感じたが、藝大の文化祭で大量に挨拶したせいだと思い当たった。
「付き合ってるわけじゃないんだ。受験を協力し合うバディは組んでるけど」
「えっ、そうなの? 恋人関係じゃないの? 高身長のジェンダーレスカプで推せると思ったのに」
「恋人関係は……全く興味がないんだよね」
他人にどう思われようと興味もなかったが、一応訂正を入れることにする。もし岡倉を好きな誰かが居るのなら、そんな間違った噂に遠慮することなく、告白すればいいと思っている。だが、香川は納得できないと言いたげな表情を浮かべていた。
「でもさぁ。岡倉くんと仲の良い男子が確認したら、言葉を濁してたけど、否定しなかったって。向こうは付き合っているつもりなんじゃないの?」
岡倉らしいなと思ってしまった。彼は私との関係に於いて、外堀を埋める戦略を取り続けている。バディを組む提案、一緒に予備校に通う、親に好きな人だと紹介する、同級生が沢山来る美大の学祭に行ってわざわざ紹介する、そして今度も噂を否定しない。可能性がない私に変に期待されるのは、とても面倒だ。もちろん岡倉を嫌いではないし良いヤツだと思っているが、この既成事実を積み上げる戦略は鬱陶しいし、積み上げられても何も進展しないではないか。そして、一組で噂になったと言うことは、倫の耳にも届いているのだろうなと、そっちに意識が行った。
「そうかぁ、渡会倫が正解だったかぁ」
タイミング良く香川が倫の名を口にする。心を読まれたようで、驚いてしまった。
「倫がどうかした?」
「その話で教室の一部が盛り上がってた時に、渡会が見下すように笑って『馨くんは付き合ったりしないのに。わかってないなぁ』って呟いたのが聞こえたんだよね。恋愛関係じゃないって、度会は知ってたの?」
まるで倫の声が聞こえた気がして、私は言葉を失う。それに続いて、彼女の確信に満ちた、そして少し意地悪な笑顔までもが脳裏に浮かんだ。
「いや……クラスが別れてから一度も話してない」
「えっ、じゃあ憶測で断定したってこと? やっぱり渡会って変な子……って言うか、なんか怖くない?」
以前から倫を快く思っていない香川は、眉間に皺を寄せて不愉快そうにしている。私は力が抜けた笑みを浮かべるに留め、同調も反論もしなかった。
不快に感じていないのが不思議だ。倫が変わらず倫であることにどこか安心しているし、私のことを一番把握しているのは、今も倫なのだと突きつけられた気もしている。なぜ彼女は常に、私の本質を掴むのか。無事を見守るだけの安全な位置まで逃げた気になっていた。だが、物理的な距離は離れても、すぐ隣で私を見ているような錯覚に陥る。左腕に倫が巻き付いている感触までもが蘇った。
香川が言ったように、それは『怖い』ことなのか、それとも全く別の……例えば『嬉しい』と感じるべきことなのか、今の感情がどの方向を向いているのか、自分のことなのに全くわからなかった。




