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翼の心音  作者: 松岡織


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第一章-6 不穏な未来


 明日から冬休みに入る十二月の放課後、倫と共に山下公園近くのカフェへと向かう。イルミネーションを見に行こうと誘われて、陽が落ちるまでカフェ待機をしている。倫はパンケーキを選び、私はいつも通りのブラックコーヒーを頼んだ。

「馨くんは年末年始はどうするの? 家族で旅行に行ったりするの?」

「うちは仲が良くないので、家族旅行なんてリスキーなことはしないよ。だから私はファストフードでバイトする。夏休みもやってたんだ。倫の冬休みは?」

 美術系は本当にお金が掛かる。何から何まで父に依存するわけにもいかないし、ある程度は自由に使える軍資金も欲しい。一年生の間は長期の休みは全てバイトに充てることにしていた。

「制服姿で働く馨くんを見に行きたいけど、私はこの年末年始、かなりハードスケジュールに仕事をやっつけないといけないんだよね。ざんねーん」

 倫は悲しそうな表情を浮かべて嘆いていたが、フルーツと生クリームが山のように乗ったパンケーキが運ばれてくると目を輝かせ、生クリームの上から更にキャラメルシロップを掛けている。今日も彼女の表情はくるくるとよく動き、私はそれを鑑賞しているのだ。

「ハードスケジュールって、どのくらいの量の仕事?」

 普段は学業優先で仕事をセーブしている分、長期休暇にまとめてやると聞いていたので、その仕事量に興味が湧く。倫はパンケーキを頬張りながら、思い出すように視線を上げた。

「えっと、ラノベの表紙と挿絵が二作品。前にキャラデザしたゲームの続編が作られるんで、新キャラのデザインを六キャラ分。あと、企業さんのリーフレットの表紙と挿絵、地方自治体さんから頼まれた、ラノベの聖地巡礼用のイラストを五点。あれ? これだけで大丈夫だったかな……」

 想像の遥か上を行く仕事量で、私はぽかんと口を開けてしまう。それをたった十七日間で終わらせるなんてことが、可能なのだろうか。

「あ、もうひとつあった。ゲームキャラのラインスタンプもやらなくてはだった」

 その上まだ積み上げられる。当の本人は、頑張らないとなぁと言いながらも呑気な様子でパンケーキを口に運んでいるが、私は衝撃を受けていた。

 つまり倫にとってのこの仕事量は、あくまでも『ハードスケジュール』であって『無理難題』ではないのだ。確かにいつものインスタ当日アップを見ていても、相当手が早いのだろう。だが、これがもし私に課せられた仕事だったら、せいぜい一つか、全てが上手く行ったとしても二つ程度しか完成できないのではないだろうか。

 売れっ子のプロがそれだけの量を描いていると言うのに、修行中の私が、量でもその足元にも及ばないとは。逆でなくては駄目だろう。何倍も努力しなければ、差は離れていく一方だ。自分の甘さを痛感していた。

 その時ふと、倫は受験はするのだろうかと疑問が浮かぶ。学校と仕事で今も手一杯だろうに、これに受験勉強が追加されたら、寝る時間の確保も難しいのではないか。初めて進路について尋ねてみた。

「美大受験はしないと思う。準備が大変すぎるし、入った後も課題の量がすごいって聞いてるから。仕事との両立はさすがに難しいかな。美大の代わりにこの高校に来たってことで、もういいかなと思ってる」

 前から考えていたのか、悩む様子はなさそうだ。確かにこの高校の選択制のクラスは、美大のカリキュラムに近いものも多い。倫が受験用のクラスではなく、実践的内容のクラスを中心に選択しているのは、そんな理由からかと納得する。

 既にプロで結果を出しているのだから、美大でこれ以上の訓練など必要ないのだろう。正しい選択だと思う一方で、寂しさも感じる。今はクラスメイトの立場だが、卒業したら遠い世界の人になってしまうだろう。それぞれの道に別れていく『卒業』は、二年後に必ず訪れるのだ。私はいつになく感傷的な気持ちになっていた。


 夜の(とばり)が下りるのを待って、私たちは横浜港に面した山下公園に向かって歩き始める。北に位置する海から吹いてくる冬の風は強く、そして冷たい。頬と耳が痛いと感じるほどだ。『ヤバいね』と笑いながら、二人揃って耳が隠れる形にマフラーを巻き直す。顔の下半分を長いマフラーでぐるぐる巻きにするこの巻き方は、私たちのクラスで流行っているのだ。マフラーを巻き終えると、倫はまた私の左腕に抱きついて身を寄せた。

「わぁ、すごいね!」

 隣から楽しそうな歓声が聞こえる。至る所で、海の色に似たエメラルドグリーンのイルミネーションが輝き始めている。横浜港に面したこのエリアでは、毎年多くの施設が参加して、大規模なライトアップが行われる。それは単に電球で街路樹を飾るだけではなく、あちこちに光のオブジェが出現し、音楽やプロジェクションマッピングなども取り入れた壮大なアートショーだ。私はもっと俯瞰的な構図で見たいと思った。

「これさ、上空からドローンに乗って見たいよね。早く人が乗れるドローンが実用化されないかなぁ」

 地上に立って眺めるだけでは、ほんの一部分しか見ることが叶わず残念だ。倫は私の言葉に笑った。

「ドローンかぁ。馨くんらしいけど、私は鳥になって自由に飛び回りたいな」

「えっ、ファンタジー設定OKなら、私もドローンより鳥の方がいい」

 倫が仕事でデザインした中に、背中に大きな翼を持つキャラクターが居たことを思い出す。確かにあのキャラのように自由に飛べるなら、この街中に張り巡らされたアートイルミネーションを心ゆくまで堪能できそうだ。だが倫は、彼女が時々浮かべる意地悪な表情で、マフラーから覗く双眸を細めた。

「だーめ。鳥になるのは私だけ。馨くんは地上で、私が飛んで行ってしまうのを見送る役目だよ」

 彼女特有の謎掛けのような言葉が返ってくる。意味がわからず、こんな時はいつもどう返事をすればいいのか困ってしまう。ただ今日の倫の声には、何かいつもとは違う、私の心に刺さる棘のようなものが混ざっていると感じてしまった。

「私は置いてきぼり?」

 この話題は切らない方がいいように思えて、なんとか見つけ出した言葉で繋ぐ。倫は上目遣いに私を見上げて、笑みを深めた。

「そう。だって馨くんは大人になってアートディレクターになりたいんでしょ? 私は大人になる前に、鳥になって空に還るつもりなの。だからね、今のうちに、少女の私を目に焼きつけておいて。私だけを見て。よそ見しないでね」

 どうやら私は墓穴を掘ったらしく、ますます理解不能に陥っている。これは本気で言っているのか、それとも私を揶揄(からか)って遊んでいるのだろうか。だが、今の彼女の言葉には不穏な空気が含まれている。まるで、大人になることを拒否しているように聞こえる。意味を探りたくてじっと見つめていると、倫は『あ、馨くんがフリーズしちゃった』と、可笑しそうに笑うだけだった。


 今問い(ただ)すのは諦めて、私たちは夜の散歩を続けた。山下公園から大さん橋を抜け、運河パークに辿り着く。その先に見えるみなとみらいの夜景は、先ほどまでの期間限定のイルミネーションとは異なり、常設の美しい夜景だ。高層ビルが山脈のように連なり、地上には赤レンガ倉庫が発する眩しいほどの光の洪水。幻想的な色に彩られた観覧車。そしてそれらの光全てが、運河の水面(みなも)に反射して輝いているのだ。夜景が有名な場所は国内外を問わずたくさんあるだろうが、私にとっての一番はやはりここだ。この景色を見る度に本当に美しいと思う。私は歩みを止めた。

「ここから見る横浜の夜景が好きなんだ。これを見ると、この街に生まれて良かったなっていつも思う」

 隣の倫も足を止め、二人は同じ夜景を並んで見つめた。

「いいよね、幻想的で。この世の景色じゃないみたい」

 絡まったままの倫の腕がきゅっと絞られて、私たちはより一層身体を密着させる。確かに、どこか知らない世界に迷い込んでしまったような非現実感がある。その異世界の中を、私たちはまた歩き始めた。

「あのさ、さっきの……大人になる前に空に還るって話だけど……」

 今夜話さないと、冬休みが明けるまで倫と会うことはない。一度は引っ込めた話題だったが、やはり放置できずにまた問い掛ける。左腕に巻き付いたままの倫は笑顔で私を見上げた。

「うん、大人になるまでは生きないつもりなんだ。空高くまで一気に駆け上がって、酸素も薄くなってもう飛べないってギリギリの所まで行って、そして満足したら、翼を外して落ちて行くの」

 今もまた、倫が奏でる詩的なセリフは理解不能だ。満足とは何を指すのか。クリエーターとして作品を作り終え、もう満足だと筆を置くことなのだろうか。

「ねぇ、ちょっと待って。もしかして、自殺するつもりだったりしないよね?」

 騒がないように自分を戒め、抑えた声で真意を尋ねる。倫は笑顔のまま『んー……』と考える時間を取った後に、その可愛らしい唇を動かした。

「自殺なのかなぁ……私よりもっと高い所まで飛べる人に、私が外した翼も、そして私が歩まない大人の時間も、全てを託す儀式だと思ってるんだよね。それでね、馨くん。私がずっと探していた私の未来を託す人。あなたにしようと思ってるんだ」

 今、何を言われたのだろう。私は真顔で倫を見つめる。そもそも、この学校内ですらトップを取れない私が、天才の名を欲しいままにしている倫以上の高みになど辿り着けるはずもない。そして他人の人生を引き継ぐなど、あまりにも重すぎる。

「いや……」

 激しい拒絶が湧き起こり、身体が硬直してしまって声が上手く出せない。とにかく早く断りたいと、私は上擦った声を無理やり捻り出した。

「渡されても困る。受け取れない。それに、倫にも大人になるまで生きてほしいし、もっともっと作品を見たい。私には追いつけない高いレベルで、これからもずっと活躍してほしいと思ってるんだよ。倫より高くなんて、私には飛べないよ」

 倫を思っている風な言葉を口にしながらも、強い感情を向けられることが苦手な私の心は、少しずつ恐怖で塗られていく。大人にはならない、その前に自死を選びたいと考えるのは倫の自由だが、なぜその命が、私に託されなくてはならないのか。

「でもね、もう決めたんだ」

 私の訴えは一刀両断されてしまう。他人の話を聞かない王女様性格は今もそのままだ。微笑んでいるその顔は可愛くて、とても自らの死について語っているとは思えない。それがなお一層、私が抱く畏れを増幅させた。

「私は要らないって言ってるんだよ。どう生きようとそれは倫の自由だけど、命? 翼? は、受け取らない。なんで私に託そうとするんだ。私は倫が探していた人じゃないから、応えられる別の人を探してほしい」

 心の中が拒絶一色に塗られてしまい、もうオブラートに包んで丁寧に伝えることが不可能だ。今までになく強い口調で断ったのに、それでも倫の笑顔は動かない。私の左腕に巻き付いているこの生き物は一体何なのだろう。恐怖に駆られて腕を引き抜いた。

「一人で帰る。その話は二度と聞きたくない」

 倫を夜景の異世界に残し、私は走り出す。もし引き止められても足を止めなかっただろうが、そんな声は聞こえては来なかった。


 大晦日も正月もバイトに明け暮れた冬休みも、ついに最終日を迎える。休みの間、私は倫を頭の中から追い出して過ごした。考えたくもなかったのだ。だが、学校が再開されるとなると、どうしても夜景の中で聞かされたあの話に意識が向かう。その度に、胸の奥に重い石を抱いているような不快感を覚えた。

 子どもの時に感情を全て捨てたいと願ったのに、それを実現するのはやはり簡単ではない。特に『拒絶』という衝動が強く残っていて、消し去ることができないのだ。倫は完全に私の拒絶対象になってしまった。

 かねてより言動が普通の人とは違っていたが、あんな突拍子もないことを言い出すとは思わなかった。他人に命を押し付けようとするなんて、正気の沙汰とは思えない。そんな重すぎる物を託されるこっちの身にもなれと怒りが湧いてくる。あの場で感じていた恐怖は今や完全に怒りに変化して、私の中で渦巻いている。ここまで強い感情を自覚したのは、母親だった人を捨てようと決めた時以来だ。

 翌朝教室に入る時は本当に気が重かったが、倫は話し掛けて来なかったし、それどころか、私の方に視線を向けもしない。彼女の願いを断った私は、お役御免になったのだろうか。それならばそれに越したことはない。また改めて、命を託す相手を勝手に探せばいいだろう。無視されたことで、私の心には安堵が浮かんだ。

 だが、知らずに力が入っていたのか、放課後になるとドッと疲れを感じる。真っ直ぐ帰宅する気になれず、私は最後の授業で一緒だった岡倉をハンバーガーショップに誘った。

「木暮さんから誘ってくれる日が来るとは。でもその割には、学校出てからひとっ言も喋らないのはなんで? 俺なんかやった? もしかして怒ってるとか?」

 つきあってはもらったが、倫のことを相談したいとか、以前断った中学時代の話を聞きたいわけではない。それよりも私と同じ現実世界を共有している人と話すことで、私にとってのリアルはこっちだと確かめたかったのかもしれない。今日も軽い口調で話している岡倉を眺めていたら、やっと世界が正常に回り始めた安心感を得ることができた。

「今日は人の話が聞きたい日なんだ。なんでもいいから話してよ。デザインのことでも、岡倉くんのことでも。食べたいものや天気の話でも、何でもいいからさ」

 いつもと違う私に気づいたのか、岡倉はテーブルに両肘をついて上体を近づけてくる。へらっとした笑みを浮かべていることが多い彼にしては、真面目な表情だ。

「なんかあったの? 俺で良ければ話を聞くけど。どっかもっと静かな所に移動する?」

 同学年のくせに懐が深いセリフを吐きやがると感心していると、岡倉はハッとした表情を浮かべる。

「なんか今の言い方だと、相談に乗るフリしてホテルに誘ったみたいになっちゃったけど、そういう意味じゃないからね? さすがに高一じゃ早いと思ってるし、そっちは……えーっと、受験が終わった頃に改めて誘うからさ」

「……ははは」

 懲りずにまた変なことを言っているので、私は冷ややかな声で笑ってみせる。本気で言っているのか、私のためにおどけてくれたのかはわからないが、彼を取り巻く世界はいかにも高校生だし、ちゃんと未来に向かって伸びている。共にアートディレクターを目指し、美大を受験しようと頑張っている仲間だ。間違っても自らの手で未来を閉ざそうなんて、私たちは決して考えない。こっちが私の住むべき世界だと信じることができた。

「そうだ、冬季講習の話を聞かせてよ。グダってる場合じゃないからさ、私のモチベーションに燃料を投下してほしいんだよね」

「あー、それは俺も話したかった。よし、メタクソに打ちのめされた話を聞いてもらおうか。今の俺は、燃料が多すぎて火だるまからの真っ白な灰になってるよ」

 岡倉はすぐに提案にノッてくれる。今日なぜ彼を誘ったのか、その理由を私は知っている。きっとこんな風に美大受験の戦いに引き戻してくれるとわかっていたからだ。そう、私は常人には理解不可能な天才の戯言(たわごと)に振り回されている場合ではないのだ。

 ありがたいことに、岡倉はそれ以上踏みこんだ詮索はせず、私の願いに応えてくれる。倫が掻き乱した世界を正し、私を現実に繋ぎ止めてくれる人だと思った。


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