第五章-3 記憶の上書き
マンションの外に設置された小さな花壇を囲う石垣に座って、岡倉の帰宅を待つ。寒さからなのか、それとも激しい拒絶と恐怖からなのか、私の身体はずっと震えたままだ。岡倉が求めたものには何一つとして応えなかったくせに、こんな時だけ助けてほしいと願うなんて、どれだけ身勝手なのだと自分でもわかっている。それでも今の私には、独りで踏ん張る強さは残っていなかった。
「なんで外に居るの? どうしたの?」
帰って来た岡倉が驚いて手を差し伸べる。待ちかねたその手に縋りついた。
「私の部屋には……居られない」
こんな説明では何もわからないだろう。それでも問いを重ねることなく腕は引かれ、支えてもらいながら歩き出す。今も私の脚は震えていて、自力では歩けなくなっていた。
初めて入った岡倉の部屋は、私と違ってキレイに整えられている。エアコンが付けられ、その正面にあるソファに私を座らせて、待っていてと一度離れて行く。また独りになった私は、ソファの上で膝を抱えて丸くなり、彼が戻って来るのを震えながら待った。
「身体が冷えきってるから、まずこれを飲んで。飲める温度にしてきた」
甘い香りと湯気が上がるホットワインのマグカップが差し出される。危ないと思ったのか、岡倉の指先はマグを支えたままだ。助けてもらいながら空ける頃には、ようやく身体が温まってきた。それなのに、震えはまだ続いている。
「一晩経って、今日になってショックが来たの?」
マグを床に置き、隣に腰を下ろした岡倉が、心配そうに覗き込んでいる。
「届いたの」
「届いた? 何が届いたの?」
岡倉の言葉遣いはいつもと違って、まるで幼い子どもに話し掛けるようだ。おそらく私は明らかに様子がおかしいのだろう。
「倫からの手紙が。届いた。もう連絡も取ってなかったのに。どうして私に届くのか。わからない。それが部屋にあって。見たくないし、触りたくない」
岡倉の表情が一転して険しくなる。だが、語気を荒げることなく、やさしい話し方を続けてくれる。
「何かあなたを傷つけることが書いてあったの?」
わかりやすく抉る言葉が並んでいたのなら、きっとこんなに怖くはなかった。命を懸けるほど強烈な感情をぶつけられたから怖いのだ。キレイに並んだ小さすぎる文字たちが脳裏に蘇ってしまい、叫び出しそうになった私は、自分の指先を口の中へと押し込んで、その衝動を堰き止めた。
「ちょっ、何してるのっ!」
慌てた岡倉が手首を掴んで、口内から指を引き抜く。異様なものを見る表情が私の視界に映り、その背後に倫の笑顔が浮かび上がる。耳の奥の方で倫の鼓動音が蘇った時、私に刻まれた彼女の痕跡を全て消し去らないと、耐えられないと恐怖した。
「あなたの、心臓の音を、聴かせてほしい」
死者の心音を消すために、生者の心臓が今刻む音を求める。岡倉は困惑する表情を浮かべた後に、それでも腕を引いて私の頭を左胸に抱く。倫にそうしていたように、私は両腕を彼の背中に回した。
なんて違う身体なのだろう。頬を寄せた胸部にやわらかさはなく、まるで板のようだ。広すぎる背中のせいで、両手はかつて置いていた位置まで届かない。触れるもの全てが硬く骨ばっていて、そして倫から届いたあの甘い匂いとは全く違う匂いがする。だがその違いの全てが、私に刻まれた記憶を上書きして消し去ってくれる気がする。もっと、全ての残像を跡形もなく消してしまいたい。必死に記憶を辿り、他にも私に刻まれている残像はないかと探した。
いつも両手で頬を抱かれていたことを思い出し、岡倉の手を探して顔に乗せる。大きさも厚みも全てが異なる手のひらが、またひとつ記憶を封じてくれたと安堵する。最後の日にキスした記憶が蘇り、唇を求めて顔を寄せる。だが、触れる前に止められた。
「待ってくれ。何をしたいのかわからないし、俺が止まれなくなる」
子どもに話し掛けていたような余裕が消え、動揺している表情が見える。倫の勝ち誇った意地悪な笑顔とは、なんて対照的なのだろう。その違いに、私は救いを見た。
「止まらなくていいよ……シよう」
「いやっ、あなたは今明らかに、冷静な判断ができる状態じゃない。それを利用するのはよくないよ」
「全部壊していいから。私も、今まで何度もあなたのことを壊したよね。それが、ずっと気になってた。何年も苦しい思いをさせて、本当にごめんなさい」
大きく裂けた心の穴から、積み重なっていた負い目が一緒に溢れ出す。私が言いたいことは伝わったのか、それとも支離滅裂な戯言として捉えられたのかはわからない。でも今は、そんなことどうでも良かった。
小さく揺れ続けていた岡倉の視線が止まったのが見え、二の腕が痛いほどの強さで掴まれる。そして寝室へと続くドアに向かって引かれた。彼はきっと、自分の力が私にとって強すぎることを知らないのだ。触れられる時はいつだって痛みを伴うし、今も肩が壊れてしまいそうだ。
ベッドの上に倒され、それに続いて被さった身体の圧に恐怖を覚える。頭をシーツに押さえつける手の強さは完全に私の動きを封じ、私が知っているふれあうだけのキスとは異なる荒さで唇が重なる。大型肉食獣に生きたまま食べられる時、人はこんな恐怖に襲われるのだろうか。
それでも。倫が送りつけてきた恐怖と比べれば、同じ怖さでも中身がまるで違う。岡倉が与えてくれるこれは生命に溢れ、私を救ってくれる恐怖だ。
(大丈夫。きっと、これでもう、大丈夫)
心の中で何度も呪文のように唱えながら、背中に手を回して命綱のように縋り付く。足元まで迫っていた死の世界が遠ざかるのを感じた。
玄関が施錠された音に続いて、足音が聞こえる。意識を手放していた私が音に呼ばれて顔を向けると、岡倉がもう一度服を脱いで隣に潜り込む。背面から包まれる形で身体が寄り添った。
「震えてたのは止まったね。安心した。寒くない?」
「うん」
一往復だけの会話を終えると、また静寂が訪れる。岡倉の声の調子は怒っているように聞こえた。
「あなたのバッグから取った鍵で、勝手に部屋に入ったよ。渡会の手紙はズタズタに引き裂いて遠くに捨ててきたから」
「うん。ありがとう」
あれが部屋から消えてくれたことに心の底から安堵して、深い息を吐き出す。それを聞いた岡倉は、前に回した両腕に力を入れて強く抱く。今もその力は強すぎて、私の呼吸を圧迫している。それでもこの苦しさを、私は喜んで受け入れた。
「俺にはあの手紙に書かれてた意味はわからなかったけど、あいつはあなたに当てつけて死ぬって言いたかったわけだよね。そうだとしたら、何も変わってないのは、あの女の方だ。中学の時は同級生を破壊して、おとなしくなったのかと思ったら、最後の最後にまたこれか。死にたいなら勝手に一人で死ね。あなたを巻き込むなって、怒りでどうにかなりそうだった。ねぇ、いい? あれは、クラッシャーが壊し損なったあなたに向かって、最後に遠くから石を投げて来ただけだ。真に受けたら、あの女の思う壺だよ」
黙って岡倉の話に耳を傾ける。外敵と認定した時、この人はここまで激しい言葉で罵る攻撃性があったのかと、今まで知らなかった彼の一面を見ている。岡倉の仮説は、本当にそうなのだろうか。私は倫の世界観とシンクロし過ぎて、翼を贈られる意味と重圧を刷り込まれてしまっているだけなのか。考えようとしてもすぐに思考が停止してしまう。心が拒絶していた。
「それにそもそも、手紙を送った相手があなた一人かどうかなんてわからないからね。あの女は壊し損なった人全員に、一人でも壊せればって、似たような遺書を送った可能性だってあるんだよ。筋金入りのクラッシャーの言うことなんて、今すぐ忘れるんだ」
岡倉が話す倫は極端な悪人だ。だがこの説は私の耳に心地よく響く。このまま信じてしまえば楽だからなのだろう。
「うん」
言われた通り、何も考えることなく全て忘れてしまうことにしよう。残像は上書きして消してもらったのだから、これできっともう、倫の心音が私を追いかけて来ることはないはずだ。
「こっち向いて」
岡倉の手が動く。寝返りを打つだけで、身体のあちこちが痛みを訴えている。破壊された瓦礫の上に立っているのだから、この痛みは必然なのだろう。
顔が向かい合うと、岡倉の手が私の頬に添えられた。
「さっきから『うん』しか言わないけど、本当に納得できてる? あんな奴に心を引きずられないで。俺がずっとあなたの隣に居ることを、どんな時も絶対に忘れないでくれ」
後を追うことを案じているような言い方だ。そんな心配は無用だと伝えるために、微笑もうと唇を動かす。願った通りの表情になれたかどうかはわからなかった。
「大丈夫。落ち着かせてくれてありがとう。独りだったら、どうすればいいのかわからなかった。迷惑掛けて、ごめんなさい」
至近距離からじっと私の顔を観察した岡倉は、ようやく厳しい表情を解く。そして顔を寄せて額を重ねた。あぁ、そうだ。この行為にも上書きが必要だった。今度こそ、身体に残った倫の記憶が、完全に消えてくれただろうか。
「俺はね、やっとあなたが、生身の感情を見せてくれたと思うと、迷惑どころか嬉しいよ。こっちは散々醜態を晒してるのに、あなたは一度も弱みを見せなかったよね。でも、いざと言う時には俺を頼ってくれるんだとわかって安心した」
岡倉の声から攻撃的な怒りが消え、私の良く知っている穏やかさを取り戻している。出会った時にはまだ少年らしさを残し、大学時代にだって精神的な弱さと乱れを度々見せていたのに、いつからこんな包容力があることを言えるようになったのか。
私は岡倉のこの変化を、ツマラナイ大人になったとは思わない。彼の心音に包まれて眠ることを嬉しく思った。
倫の葬儀は身内だけで執り行われ、半年が経った頃、大きな会場を貸りてお別れの会が開催されることになった。高校のグループラインにその告知が出たが、まだ時々恐怖がフラッシュバックしている私は、行きたくなかった。岡倉が先回りして『絶対に行くなっ!』と、厳しい口調で強く命令してくれたので、それを逃げる口実にした。
あの日から、週末になると岡倉の部屋に泊まるようになった。時々魘されているらしく、夜中に起こされることもあるが、ちゃんと日常生活を送ることはできている。日々、脳のキャパシティをフルに使って企画を考えているし、あまりにも仕事の流れが速いので、余計な雑念が襲ってくる隙間時間すらない。忙しすぎる仕事が私の傷を癒してくれたのか、やがて魘されることもなくなり、岡倉が言うには笑うことが増えたらしい。
克服したのではなく、ただ逃げ続けただけだ。考えないことに徹し、倫の死の意味も、手紙が運んだ最期の想いも、全てを無かったことにした。葬儀もお別れの会にも行かなかったので、彼女は本当に飛んだのだと実感することすらしなくて済んだ。一方的に送りつけられた翼は受け取らず、逃げ切ったのだと自分に言い聞かせた。




