第四章-6 実体のない故郷
早期選考が終わると季節が冬へと変わる。旧校舎で講義があると、隙間風がひどくてとても寒い。すっかり冷えてしまった身体を、岡倉と学食のラーメンで温めていると、二人のスマホが同時に震える。食べることを優先して無視していたが、通知のバイブは断続的に、途切れることなくスマホを揺らす。二人同時と言うことは、デザイン学科か高校のグループラインのどちらかだろう。好奇心を抑えられなかった岡倉が、途中で箸を置いてスマホを取り出した。
「ぅおっ!」
変な声が聞こえたので、視線だけを向ける。岡倉は絶句した表情でスマホを凝視していた。
「ねぇ、度会が四季賞のグランプリを獲ったって。高校のグループラインが、その話題で大騒ぎ」
「えっ!」
それは作家を目指す人の登竜門と言われている権威ある新人賞で、絵画科なら誰でも喉から手が出るほど欲しい賞だ。油彩を始めたのは知っていたが、まさかこんなに早く、しかも一流の新人賞を受賞したとなると、グループラインが蜂の巣を突いたような大騒ぎになるのも納得の大事件だ。私も食べている場合ではなくなり、スマホで四季賞のサイトに飛んだ。
「マジかぁ。あいつ、本当に化け物だなぁ。美大には進まず自力で四季賞獲るか」
岡倉の呟きが遠くに聞こえる中、私は倫の受賞作品に辿り着く。それは『ツバメ』と名付けられた作品だが、ツバメの姿は作中には描かれてはいない。海側の空高くから横浜の街を俯瞰した構図なので、ツバメの視点ということなのだろうか。窓掃除のバイトで見慣れた空からの景色ではあるが、悠々と風に乗って飛んでいる雰囲気ではなく、街に向かって引きずり込まれるような、暴力的な破滅の印象を見る者に与える。
「これって、落下してるよね?」
「だよね。玉がキュッとなった」
その感覚はわからないが、やはり私だけが感じた過剰な感想ではないと言うことだ。胸の奥深くから不安が徐々に染み出て、私の心を覆い始める。誰もが羨むほど順風満帆に活躍の場を広げているにも拘らず、倫はもしかしたら今もまだ死に囚われているのか。それとも……絵にすることで飛びたい欲求を昇華していたり、単にモチーフにしているだけなのか。
「難しい顔して固まってるよ、どうしたの?」
岡倉の声でハッと現実に引き戻される。視線を上げて、一度肩の力を抜いた。
「あ、いや。なんで視点の主にツバメを選んだのかなって」
そんなことは微塵も考えていなかったが、思いついた尤もらしい言い訳で会話を繋ぐ。岡倉はもう一度スマホを見つめて首を傾げた。
「景色の中に桜が咲いてるよね。何ヶ所か淡いピンクになってる所ってそうじゃない? ツバメって、春の季語のひとつだからそれだったりするのかな」
季語を語るとは意外だったが、岡倉母が俳句を詠むらしい。確かに指摘された通り横浜の街は桜に彩られているから、その解釈は正しいのかもしれない。
もし万が一、まだ自殺願望を抱えているのだとしたら、今の倫は一体誰に翼を渡したいと願うのか。きっともう私ではないだろう。噂に聞いた真偽不明の恋人かもしれないし、私が全く知らない誰かの可能性だってあるだろう。今近くに居ることを許されている人は、絶対に彼女の手を離さずに、この世界に引き留めてほしいと強く願った。
年が明けてすぐ、四季賞の入賞作品展が協力画廊のギャラリーで開催されたので、私は一人で展示を見に行った。スマホの小さな画面で見るのとは違って、三十号の実物はやはり迫力が全く違う。吸い込まれて落下する感覚を、一層強く突きつけられる。これを描いた時の倫の心境が特定できず、言いようの無い不安が私の胸を覆う。
彼女の自殺願望を知っている人は、私の他にも誰か居るのか。誰も居ないのなら、私が声を掛けた方がいいのだろうか。それともとっくに過去の友人に過ぎない私は、出過ぎた真似はしないで、今周りにいる人たちに任せるべきなのか。
正解がわからず、ギャラリーの入り口に置かれた入賞展の立て看板の写真を撮ってインスタに上げる準備をする。そしていつもは何も書かないコメント欄に、何度も書き直した末に『入賞おめでとう。翼を外したいと思う時があるなら、話がしたいです』と記す。上手い言葉が見つからなかった。
倫の性格が高校時代のままなら、こんな『普通の子』がするような声掛けは侮蔑の対象以外の何物でもなく、落胆させたかもしれない。だが私は倫が期待したような天才の仲間ではなく、『普通の子』側の一員なのだ。例え落胆させてでも、声を掛ける方を選択した。
いつも通りすぐに『いいね』だけが押される。もう私の手は必要とされていないのか、それとも本気で飛ぶつもりなどなく、ただのお節介だったのか。倫からの反応は、いくら待ってもそれで終わりだった。
三月から始まった本選考を乗り切った岡倉は、大学四年の六月、本当に電広の内定を勝ち取った。大学受験に続いてここでも一本勝負に勝利した彼こそが本番に強いと思ったが、本人は『俺の実力じゃなく、親父のフォローの勝利。歴としたコネ入社ですよ』と謙遜したが、それでもガッツポーズをして見せた。
「そんなのどうでも良いよ。受かって良かったし、意味のない留年もしなくて済んだ。本当に安心したよ」
自販機で買った缶コーヒーを手に、学食のテーブルを挟んで向かい合う。私たちはどちらからともなく缶を差し出して、乾杯をした。
「それ、本気で言ってる? これで社会人になっても、ずっと俺に付き纏われるけど。あなたは喜ばないと思ってた」
自嘲を含んだセリフと共に、岡倉は複雑な表情を浮かべる。銀座のカフェで父親にフォローを頼んだ時に、私の選択はもう終わっていると彼は知らない。私たちは地面に縛られた不自由な存在で、空を無限に飛び回る翼を持った鳥にはなれないのだ。今の気持ちを絵に描けと言われたら、倫の作品とは逆に、この重い地面から空を見上げ、羨む構図で描くだろう。
「ううん。本当に嬉しいよ」
それでも私の口からは、笑みと共に彼を受け入れる言葉が出る。岡倉は真顔になった後、ゆっくりとその表情を変化させた。
「や。何、その不意打ち。予告なしに変なスイッチ押すなって」
バッグからハンドタオルを出して、顔に当てている。本当に泣き虫だなぁと思いながらも、岡倉が泣き止むまで一緒に座っていた。
大学生活の集大成として最後に卒業制作が待っている。ここで『可』以上を取れないと卒業できないし、たった六日間とは言え、全卒業生の作品が、大学構内や大学美術館、そして東京都美術館にも展示され、上野の街は校外からも多くの人が観に来るアートフェス会場になる。
作家を目指す人は卒業後も自分の作品を創り続けて行くのだろうが、広告に進む私は、これからはクライアント企業のために作品を創ってお金をもらう世界に組み込まれていくので、個人としての作品はこれが最後になるだろう。それならば、ずっと私を支えてくれた、照明室で体験した非現実的な心の空間を再現したいと、教授に企画を説明する。いくつかのアドバイスと共に許可を貰って、早い段階から制作を始めた。
一口にデザインと言っても、その表現の幅は広い。アートを始めてから今までに習った多種多様な表現手法 ―― 平面のグラフィックデザインのみならず、描写も立体も写真も映像もアニメーションも、それらを全て使って、なんとかあの超個人的な感覚を再現したい。そのためにはきっと、映像にするのが一番良いだろうと判断し、毎日毎日、ただひたすら絵コンテを描き続けた。
約三分の映像にストーリーはない。むしろ観る人が、ストーリーや意味を見出してしまっては、私の意図としては失敗なのだ。現実の肉体から意識だけがスッと離れて別の時空に移動してしまう、感覚だけが研ぎ澄まされた世界。私は何度もそこに旅して良く知っているはずなのに、再現しようとすると難しい。現実とそれが崩れる起と転。その二つをセットにした絵コンテを百案以上描いて、その中から十を採用として映像を作り始めた。
一部まだ手描きを含む、粗く組んだ映像を岡倉に見てもらう。彼は観終わると、イヤフォンを外して『ふぅ』と息を吐く。これも感想の一つだと思った。
「どんな感覚になった?」
「えーっと、違う方向に目まぐるしく意識が刺激された。変調の激しいミュージックビデオ的でもある感じ。ジャングルの中にモルフォ蝶が出てくるシーンがあるじゃん。で、それを追う視点で進むと、突然大群がこっちにぶわって飛んで来たのがエモかった。一番好きなところかな」
岡倉のコメントを私はメモに残す。彼はメモのタイミングを測りながら、感想を続けてくれる。
「最初から最後まで、ずっと心臓の音がしてるけど、それを不安と受け取るべきなのか、それとも安心を感じるべきなのかがわからなかった。それと、讃美歌調の音楽と鼓動が重なってるところは、ビジュアルは生命を表現してるのに、サウンドはホラーにも取れて、視覚と聴覚の誘導する世界が一致してないよね。それが狙いだったら成功してるし、違うなら失敗してるね」
ずっと一緒に戦ってきた私たちは、お互いの作品に遠慮なく意見する。なんの忖度もない感想をもらえるのは本当にありがたいことだ。岡倉はいつも『俺は褒められて伸びるタイプだから、いくらでも褒めてほしい』と良い点を聞きたがる。だが私は逆で、ダメな所こそたくさん聞きたいと思う。彼もわかっているので、もう一度頭から映像を再生しながら、的確なコメントを続けてくれる。
「今までのあなたの作品とは随分と毛色が違うよね。なんて言うか……アーティスト様が芸術を爆発させてる感じ?」
有名な言葉を借りて、茶化して笑う。私もつられて笑顔になった。
「今回は卒業できればいいんだ。これを最後にアーティスト様は卒業するから、思いっきり振り切ってる。成績も、他人の評価も全部くそくらえ、創りたいものを全部ぶち込むぞっ! って感じかな」
「マジか、卒業が掛かってるのに攻めるねぇ。俺は有終の美で優を狙うけどね。でも留年だけは勘弁してね。あなたが卒業できなかったら、俺も留年しなくちゃならなくなるでしょ?」
付き合い留年前提なのがそもそも頭がおかしいが、それ以外は至極御尤もな意見なので反論はない。岡倉の卒制は海外の詩の絵本化だ。絵本とは言っても、絵を描いただけには留まらず、視覚的なギミックをふんだんに盛り込んだ、いかにも『クラフト』と呼べる作品を創っている。試作品を見せてもらったが、考え抜かれたとても丁寧な造りだった。職人的手作業がこんなに得意だったのかと、今まで知らなかった一面に感心するし、この作品が留年することは決してないだろう。私たちの学生生活の終わりが、確実に近づいていた。
年末年始も休まずに作業をして、私はなんとか提出期限ギリギリに卒制を終わらせた。岡倉は宣言通り『優』を取り、私は『良』だった。かなり自分勝手に創ったので、『良』ならば『ありがとうございます』だ。そのまますぐに一月末からの卒業制作展の展示に進む。私は映像だけではなく、映像を観るためのミニシアターとして、二人座れば一杯になるサイズの繭のようなブースも制作した。繭の中の薄暗い空間に二つの椅子を置き、サウンドを聴くためのヘッドフォンも設置する。
セッティングを終えた公開前日に、一人椅子に座って映像と音に浸る。どうしても再現したかったこの感覚を創ることが叶って、それに何よりも満足している。きっと私の心は、今もまだあの照明室に囚われているのだろう。もう四年が経ったというのに、あの時の感覚が忘れられない。だがひとつハッキリと自覚しているのは、失ったから再現したのではない。別れを告げるために創ったのだ。
ループで繰り返される三分の映像に記憶と感覚を殴られながら、まだこの楽園に残って居たいのかと自問自答する。四年経っても引きずっているこの愛着は一体何なのか。私の故郷は実家でも横浜の街でもなく、実態のないこの異世界なのだと実感している。
だがいつまでも留まっていては、まるで、生まれたくないと駄々を捏ねている胎児のようではないか。自分でもいい加減にしろと思うし、気持ち悪い。
「ここにはもう二度と帰って来ないことにするよ」
繭の中で独り言を呟く。心のどこからも反論は聞こえては来ない。ヘッドフォンを頭から外し、リモコンで映像の再生を止める。映すものを失ったモニターが暗くなり、白抜きの細いゴシック体で『NO SIGNAL』とアラートが表示される。それが今の私の心にピッタリとマッチした。




