第四章-3 戦友の帰還
九月頭の藝祭を何とか終えて、やっと夏休みらしい休みを一週間だけ味わうと、またすぐに夏季集中講義の後半戦が始まった。今度はデザイン科の生徒は受けておくべきカリキュラムであり、気持ち的には新学期が始まったような真剣勝負だ。
全ての講義の履修が終わった日、岡倉から食事に行こうと誘われた。学内ならまだしも、外で二人きりで食事をするのはどうなんだとも思ったが、私が配慮してやることでもないし、打ち上げをしたい気分もあったので承諾する。てっきり学生御用達の安い店に行くと思っていたら、いかにもデート用と思われる店に連れて行かれた。
「え、ここ? 常に貧しい私としては、もっと安い店の方がありがたいんだけど」
入る前に一度ごねたが、今日は奢ります、予約もしてあるのでと言われて、岡倉は譲る気はなさそうだ。諦めて店内に足を踏み入れると、薄暗いし、外から中が見えづらい半個室席が並んでいて、私たちには場違いではないか。しかもその半個室の中は、向かい合う席ではなくテーブルを囲んでL字に座る形式で、しかも狭い。奥の席に押し込められると、岡倉の身体が壁となり出られなくなってしまったし、居心地悪く感じるほど、距離が近かった。
「ここ落ち着かないよ。なんでこんな店を予約したの? もしかして、デートで来る予定だったのの代打?」
「まさか。そんな失礼なことしませんって。でも確かにデートで来たことはある。今日はね、あなたに意地悪したい気分だったので、嫌がりそうだと思ってここにしたよ。で、何飲む? 俺は酒を飲むけど」
意味がわからないことを言いながら、岡倉はタブレットに手を伸ばしてオーダーの入力を始めている。十八歳で成人と法律が変わっても、アルコールは二十歳からのままだ。大学生ならほとんど皆手を出しているのだろうが、私は食費に余裕がないので飲酒の習慣はない。
「ノンアルのビールにする」
「え、飲まないの? まぁいいや、俺が一人で酔っ払って、ウザ絡みするから」
岡倉は苦笑しながら、一緒にオーダーを入力してくれる。集中講義が終わった乾杯をした後は、私はただ座って、出てくる料理を食べているだけだ。今日は一体何の会なんだろうと心の中で首を捻っていると、三杯目のハイボールを空けてダルそうになってきた岡倉は、テーブルに片肘をつき頭を支える姿勢をとる。飲みたがった割には、あまりアルコールに強くなさそうだ。そろそろ引き上げた方が良いのではと思えた。
「あのさ……」
突然隣から、今までとは雰囲気が変わった声がする。『うん?』と相槌を打って視線を向けると、岡倉は赤みを帯びた瞳で、じっと私を見ていた。
「幸せになったら、デザインができなくなった」
「あー……」
今日まで続いた集中講義で彼が描いた作品は、どれもこれも今まで見た中で最悪の駄作ばかりで、私は連日、岡倉はもうダメになってしまったのかと寂しい気持ちを抱いていたところだった。コンディションに関係なく描ける人もいるのだろうが、彼は絵のクオリティがメンタルに大きく左右されるタイプだ。
「そうだね。良くなかったよ」
傍から見てもそうだったと相槌を打つ。それを聞いて岡倉は、唇の形を小さく動かすだけの笑みを浮かべた。
「高一からずっとさ、俺に友達以上の興味を持たないあなたを好きで居続けるのが、ほんとシンドイって何度も思ってた。でも、大学生になったら何かが変わるかもしれないって、それを心の支えにしてたけど、あなたは全く変わってくれなくて。もう耐えられない、諦めようって決めてせっかく楽になったのに……その代償でデザインがダメになるって、一体どういうことなんだよ」
全部私のせいなのかと呆れながら、酔っ払った相棒の愚痴を黙って聞いている。私はまだスランプと言う苦しさを体験したことがない。この沼から這い出る方法は、本人が自力で見つけるしかないのだから、アドバイスとして掛ける言葉もなかった。
「とりあえず、水を飲んだ方が良いんじゃないか?」
チェイサーを指差すと、岡倉は素直に手を伸ばして一気に空け、グラスを戻す。そして、一度大きく息を吐いた。
「なので、カノジョに土下座して、お別れしてもらいました。自分でも人としてサイテーだとわかってるけど、やっぱりまだアートから脱落したくない。だからまた、あなたのストーカーに戻ることにしました」
「……は?」
意外な展開に理解が追いつかない。幸せになることを最優先事項に選んだのではなかったのか。そしてなぜ、別れるだけではなく、わざわざ私の所に戻って来る必要があるのか。だが、首を捻りながらも、私は岡倉が人並みの幸せよりもアートを選んだことについては、嬉しいと感じているのだ。やっぱり普通のツマラナイ子ではなかった、自らの意思で戦場に戻って来てくれたと心が浮き立つ。私の顔には無自覚な笑みが浮かんでいた。
「ねぇ、なんで笑ってんの? それどんな感情よ? 怒らないから、正直に言ってみ?」
「え、笑ってたか。ごめん。いや、このままあなたが平凡なデザインしかできなくなったら、あまりにも残念すぎるから、アートを選んで戦いに復帰してくれたのが嬉しいって思った。いつも私や他の人のことを『アーティスト様』って茶化して、自分は違うと思ってるんだろうけど、岡倉くんも立派なアーティスト様だったんだなって。おかえりなさい」
言えと言うなら、遠慮なく今の気持ちを伝える。喜ぶ私とは対照的に、岡倉は苦虫を噛み潰したような表情で頭を横に振る。そして落胆を隠さず、重い溜息を吐いた。
「やっぱり、俺が別れたことなんてどうでも良くて、アートを優先したことだけを喜んでるんだよね。もう本当にさ、俺の優先順位が低すぎるこのアート馬鹿を好きな立ち位置に戻るのがツラ過ぎて、本当は戻りたくなんかないんだよ。……でもさぁ……なんか、ツライから描けそう。だし、完全に死んでたインスピレーションが騒ぎ出して、今は描きたくて仕方ないんだよね。これって、ツラくないと描けなくなってるってこと? なんで俺はこんな地獄に連れて来られてるわけ? どうしてくれるんだよ」
恨み節が聞こえてくる。本当に申し訳ないが、声を出して笑ってしまった。一度でも創造する喜びを知ってしまうと、どんなにツラくても抜けられない麻薬だとはよく言うが、岡倉も立派な中毒患者ではないか。この泣き言の全てが、彼らしくぶっ壊れていて最高だ。一緒に戦う戦友は、やっぱりこいつしか居ないと強く思った。
「壊れたことを言ってる今のあなたが、今まで見た中でサイコーに好きだよ」
目を輝かせて喜びを伝えると、岡倉は恨みがましい視線で私を睨む。
「ほんと、男の心理を全く理解してなくて最悪。小学生か? 今後は開き直って包み隠さず口に出すけど、俺は今ね、こんなことになるなら藝大受験が終わった日にホテルに連れ込んで、腕力でヤッてしまえば良かった、あの日迷ってた俺の紳士的な自制は大失敗だったって、後悔してる真っ最中なんですけど」
今までの岡倉だったら決して言わなかったであろう雑な暴言が聞こえてくる。それを実行していたら、お前も五体満足では終わらなかったぞと、心の中で宣戦布告をしながらも、戦友の帰還を喜ぶ私は、ずっと笑っていた。




