第四章-1 バイトを巡る攻防
私が住むことになった寮は、山手線の大塚駅からすぐの所にあり、大学がある上野までは十五分の距離だ。大学生なら学校を問わず誰でも入れる寮で、門限はなく男子禁制。シャワーとランドリーとキッチンが共用で、食事の提供はない。キッチンを使う人たちの間には交流の輪ができていたが、料理をしない私は挨拶をする程度だ。
各人の個室にはトイレと洗面所の他に机とベッド、そしてクローゼットと本棚が作り付けられている。睡眠が取れれば十分なので、布団の代わりに寝袋を買って芋虫になって寝ることにした。
直接会う時間が取れなかった岡倉には、寮生活をすることになったと通話で伝えた。横浜から一緒に通わないことにショックを受けた声が聞こえたが、私が親と上手くいっていないことを彼は察していたので、仕方ないとすぐに諦めてくれたのは助かった。
その岡倉とは入学式で二週間ぶりに会ったが、トレードマークだった肩までの髪を短く切り揃えていて、スーツ姿と相まって知らない大人のようで私は戸惑った。
「岡倉くんだってすぐにわからなかったよ」
入学式を終えて上野のコーヒーショップに入るなり、髪を指差して話題に出す。私の反応を見て、岡倉は笑った。
「でしょう? 俺もまだ鏡を見る度に『え、誰』ってなってるよ」
私も同じく、お前誰だよ状態だ。こうやって向かい合って座っていても、なんだか落ち着かない。髪が長かったおかげで中性的な雰囲気があったのに、それが消えてしまった。
「どうして切ったの? 受験の願掛けだったとか?」
「いや、そうじゃなくて。自分を客観的に見て、似合わなくなったから」
そうだろうかと眺めていると、私の表情を読み取った彼は少し寂しそうに微笑む。
「小学生の時に好きだったヨーロッパのサッカー選手が、中性的な体格の長髪で、華奢なのに大活躍してて、それが漫画の主人公みたいでカッコ良かったんだ。憧れて伸ばし始めたけど、残念ながら、俺は高校の三年間でがっしり方向に育っちゃったんだよね」
毎日一緒に居たので、体型の変化に気づいてなかった私は、改めて視線を向ける。親しくなった高一の時は、ひょろっと痩せたノッポくんだと思ったが、確かにいつの間にか体格が良くなっている。首はこんなに太かっただろうか、胸板も厚くなってると、男ならではの肉体的特徴に目が行く。
高校の三年間で少女から女性に変化した女子生徒も多かったが、興味がなくて全く気づかなかっただけで、男子も当然、少年から男性に成長していたのだと知る。
「木暮さんはあんまり変わらないね。出会った時と同じように今も少年っぽい。羨ましいなぁ。俺もそのタイプで居たかったけど、遺伝子が許してくれなかったから仕方ないね。大学はこの爽やか好青年路線で頑張ります」
高校時代と同じように、冗談口調で自画自賛をしている。中身は私が良く知っている岡倉のままであることに、なんだかものすごくホッとしてしまった。
大学の講義内容は主に二方向で、座学と実習に分けられる。デザイン科の座学は、一般教養に近いものから学問的なことまで幅広いカリキュラムが用意されている。岡倉が当然のように、相談しながら科目を選ぼうと提案してきた時、上手く断ることができず、全ての授業を一緒に受けることになってしまった。その結果、大学に居る間中行動を共にする羽目に陥り、独りの時間も欲しい私はすぐに後悔したが後の祭りだった。
同じ新入生を見渡すと、現役入学はほんの一握りで、年齢の幅が広い。最年少の私たちから見て、五歳上でもさほど珍しくないほどだ。そして、浪人生の壁は受験時代で終わってくれたと思っていたら、大学に入ってもまだ、この年上たちと同じ土俵で戦わなくてはならないし、教授たちには『美術高校を出たお前らは三浪と同じだな』と認識される。生きる場所としてアートを選んだ結果、きっとこの戦場は仕事に就いた先までずっと続くのだろうなと、改めて腹を括らなくてはならなかった。
それでも、入ってみたら藝大も決して居心地は悪くなかった。何よりもまず、どいつもこいつも自分勝手で、他人のことなど一切気にしないところが良い。全員が孤高の存在、または、自分ではそのつもりと言えばいいのか。倫が見下していた『普通の子』が見当たらないのだ。彼女こそ、藝大に来れば、同じ景色が見える仲間ともっと出会えたことだろう。
「ヤバい。もしかして俺以外は全員がアーティスト様じゃね?」
自分は常識枠だと信じて疑わない岡倉がそう嘆いていたが、確かに『アーティスト様』という茶化した表現は、良くも悪くも言い得て妙だ。ぶっ壊れてる性格破綻者があっちにもこっちにも居て、高校時代に輪を掛けて、動物園のような様相を呈している。この空気を私は好きだと感じた。
授業に慣れたら、次に考えることはバイトだ。話に聞いていた通り、実技クラスの課題はかなりヘビーだが、デザイン学科の作品は狭い場所でも創ることができるので、寮の自室でも対応が可能だ。大学から離れられない彫刻などの学科とは違って、時間のやりくりが比較的自由になるアドバンテージがある。
岡倉は駅ビル内の有名コーヒーチェーン店で働き始める。来てくれとしつこいので覗きに行ったが、白い半袖のポロシャツに緑のエプロンをつけ、いつもの人懐こい笑顔で接客する様子は、彼が宣言した爽やか好青年路線にピッタリだ。高校時代の私たちは、単価がもっと安いハンバーガー屋に行くのが定番だったのに、オシャレ方向に転身しやがった姿は、私の笑いを誘った。
一緒に働こうと誘われたが、コーヒーショップの時給では、生活費を稼ぎたい私には効率が悪すぎる。私にもできる夜職か、もしくは土日でしっかりと稼げるバイトを探している。岡倉は私のバイト先にも当然のように介入してきた。
「え、夜職って、冗談だよね」
気が進まなかったが、黙って働いてもどうせバレるだろうと、夜の仕事を候補の一つにしていると伝えた途端、岡倉の表情と口調が一変した。
「稼がないと大学を続けられないんだよ。学費と寮費は出して貰ってるけど、食費を始めとする生活費や、大学で必要な資料や画材を買うお金は自分で稼がないと。扶養家族の限度額まで、効率良く働きたいんだ。それに夜職って言っても、エンタメ系のコンカフェとか、後は接客じゃなくて裏方で働けないかと思ってるだけだから」
岡倉が反対できない理由を盾に説明する。実家を出る時に、子どもの頃からのお年玉などを貯めておいてくれた私名義の口座は渡されたが、すぐに底をついてしまうだろう。細かいところまで気が回る性格ではない父は、食費が必要なことにはきっと気づいてもいないし、私もそれまで出してもらおうとは思っていない。
だが、岡倉はそれでは納得してくれなかった。
「男を接客する店で働くなんて、俺が許すとでも思ってるの?」
いつになく怖い声で詰められる。私は許可を求めたわけではなく、聞かれたから現状を伝えただけだ。保護者でもカレシでもないのになぜ許可が要るのか。モヤモヤした気分になっていたが、彼の反応があまりにもいつもと違って激しかったので、反論の言葉は飲み込む。高校時代からずっと、他の男との接触に、岡倉が過敏と言ってもいいほど無駄な神経を尖らせているのは知っているし、きっとそこは彼の地雷なのだろう。私は今まさに、その地雷を踏んでしまったようだ。
反論の仕方を探って黙っていると、岡倉は私を断罪する言葉を畳み掛けてくる。
「男相手でも大した違いはないと思ってるのかもしれないけど、それは間違ってるよ。そもそもあなたは、男というものを、俺のことも含めて全く理解していない。違う生き物なんだよ」
この地雷はなかなか収まってはくれず、まだ爆発を続けている。前から岡倉は男女をはっきりと区別する傾向にある。倫との付き合いは、傷つけられることさえなければ、『女の子同士のことだから』と寛容だったのに、男に関しては一切妥協しなかった。
「まぁ、それはおっしゃる通りで、私が話す男は、家族以外はあなたしか居ないから、そうなんだろうなとは思い……ますけど」
性別の違いが、本当に違う生き物と括るほどの差になるのかは疑問だ。事実私は男性性について理解していないが、正直興味もないのだ。だが、この返事は彼の溜飲を下げるに値したようで、岡倉はやっと厳しかった表情を緩めて、落ち着きを取り戻した声で続けた。
「何度も言ってるけど、あなたは粘着質な人間を引き寄せるから、接客業は絶対にやめてくれ。俺は自分がそうだからわかるんだよ。本気の男に襲われたら、女の子の力じゃ勝てないよ。ねぇ、ストーカーを増やしたいの? 俺だけじゃ足りないの?」
「……自分で言ってる」
笑う所なのだろうかとも思ったが、地雷を踏んだ直後でまだ鎮火していないので、真顔で呟くに留めておいた。引き寄せると繰り返し言われても、私に興味を持つ他人が居るとはあまり思えず、この説得は心に響かない。それなのにその後も岡倉は夜職NGは絶対に譲らず、それくらいなら自分が休学して働くなどと意味がわからないことを言い出したので、諦めざるを得ない状態に追い込まれる。他の高額バイトも申し込む前に絶対に相談するようにと、約束までさせられた。
「あなたは世間知らずなのに、危機感がなさすぎる。親元から離れてるんだから、一人で判断しないように。いい? わかった?」
恵まれた家庭で育った末っ子のぼんぼんに、世間知らずと責められてしまった。これだけ踏み込む権利が、当然あると考えているのはなぜなのだろう。親の庇護下を出た私を心配してくれているのはわかるが、度が過ぎやしないか。確かに岡倉と私は、二人三脚で美大受験を戦った戦友だ。信頼しているし、感謝の気持ちも大きい。だがそれでも、私は独りでもっと自由に動きたいのだ。私の地雷は今日は爆発しなかったが、きっと近い将来、すれ違っている立ち位置の折り合いがつかず、私たちは衝突するとしか思えなかった。
結局、私のバイト先は高層ビルの窓掃除に決まった。危険過ぎると岡倉はまた反対したが、夜職は譲ったのだから折れてほしいと今度は私が譲らず、渋々ながら合意を取り付けた。
ゴンドラに乗って五十階の高さから東京の街を眺めた時、私は倫と一緒にイルミネーションを観に行ったことを思い出した。鳥になって上空から横浜の街を見たいと話したが、まさかここで疑似体験ができるとは。もしかしたら、私の存在意識には空に昇りたい欲求があって、このバイトがやりたかったのかもしれない。
目の前に広がる風景は想像とそうは違わなかったが、風や太陽の強さは実際ここに立ってみないとわからなかったものだ。軽々と自由気ままに飛んでいるように見えて、飛び続けるのは並大抵なことではないと鳥の偉大さを知る。
そして、力尽きるまで空を昇り、最後は翼を外して落ちて行くと話していた倫の姿が脳内で再現される。最後まであの言葉の本気度はわからなかったが、高校も無事に卒業して大人になったのだから、もう大丈夫なのではないかと楽観視している。二度と会うことはないと告げられた私は、これからは一人のファンとして彼女を遠くから応援するしかないが、その距離を寂しいとは思わない。倫と私の物語はもう終わったのだ。そして、それで良いと思った。




