第三章-4 別れと旅立ち
夏休みが終わって、学校での凌ぎ合いが再開する。岡倉は完全に復調して、また一位を奪い返されるようになった。バディは解消しないしガードも止めない、離れると逆にメンタルがヤバいと訴えられたので、結局関係はそのままだ。結果が伴ったので、私もそれで良しとした。
倫との付き合いを止めろと重ねて言われることもなかった。その代わり、少しでも傷つけられることがあれば、絶対にすぐ話してほしいと約束させられる。あまりにも食い下がるので形だけは同意したが、私は傷つくよりもきっと楽しんでしまうと思っている。
そもそも、高三の下期は目が回るほどの忙しさで、傷ついている余裕などないのだ。高校最後の期末テストの合間に、共通テストの教科選択や申し込みもしなくてはならない。しばらく疎かにしていた一般教科の勉強だって必要だ。やることはいくらでもあった。
それでも木曜の放課後になると、私は倫に逢いに行く。何も話すことなく、ただお互いの体温に身を委ねるだけの時間だ。秋から冬へと移り変わる季節の変化は駆け足で、暖房などない照明室の中は、週を重ねるごとに寒さが増していく。それでも倫の身体は、変わらず温かかった。
残り少なくなったカレンダーを眺める度に、この時間は本当にもう終わってしまうのだと、胸の奥をひっかかれているような感傷を知る。間違いなく名残惜しいのに、なぜか引き止めたいとは思えない。潔く散ってしまう一瞬の煌めきだからこそ、大切な時間であり価値があるのではないか。
岡倉に聞かされた中学時代の噂のように、途中で突然打ち切りを告げられる終わり方も良いと思っていたが、結局倫は、冬休みに入る直前まで私を受け入れ続けた。
「馨くん、今日でさよならだね」
私の顔を覗き込んで微笑み掛ける。今日の表情は威圧的でも意地悪でもなく、これが渡会倫という少女の素顔だと感じた。
「うん、そうだね」
とうとう最後の日が来たんだなと、この瞬間を噛み締める。今まで知らなかった新しい感覚が、私の中に静かに広がっていくのがわかる。
「今、感じていることを教えて?」
この感覚を言葉で表現するのは、私たちには相応しくない。代わりに心に浮かぶ色を探した。白に近い淡い淡い紺色、藍白や白藍が混ざり合いながら水面に揺れる様が、きっと一番近いと感じる。濁りのない透明感のある色の中で終わりを迎えられたことに満足を感じ、私はその色が織りなす景色を倫に伝える。
「そう……。最後まで馨くんらしいなぁ」
倫も頭の中に同じ景色を描いているのか、楽しげに微笑む。そしてすぐに続けた。
「私ね、馨くんが居なかったら、きっと一年で学校を辞めてたと思うんだ。同じ時に、同じ場所に居てくれてありがとう」
意外な話が始まる。先を問う表情を浮かべると、倫の笑みが深まった。
「高校から美術を専門にやろうとするなんて、面白い子にたくさん会えるんだろうな、私と同じ景色が見える仲間が見つかるかもしれないなって期待してたんだけど、普通の子ばかりで、ここにも私の探していた人は居ないのかって諦め掛けてた。でも、あなたが居たの。アート以外、何も欲しがってない、むしろ捨ててしまいたいと思ってる人だって、すぐにわかったよ。普通科の進学校にだって入れたんでしょ? それなのに、基礎も身についてない初心者の段階で、あなたは美術の世界に飛び込んで来た。最初は拙かった作品が、どんどん成長していくのを見守るのはとても楽しかったよ。この学校に来たからあなたに会えた、来て良かった」
温かい視線で私を見下ろし、今日も倫は額を寄せる。彼女が薄くつけているいつものバニラの甘い香りが、ふわっと私を包み込んだ。
「私の絵を育ててくれたのは、倫だと思ってるよ」
「それは違うかな。表現することを覚えたのは、馨くん自身の力だよ。私はあなたを、こっち側に誘っただけだから」
彼女が前にも使った『こっち側』。それはとても抽象的なものだ。それでも私は、現実から切り離されたこの空間の存在を確かに知っているし、倫が言わんとしている意味もきっともうわかっている。そこを知ったからこそ、表現が変化してくれたのだ。育ててもらったと改めて感じたが、もう口には出さなかった。
「今日を最後に……もう会わないつもりなんだよね?」
答はわかっていても、これが今生の別れになると思うと、やはり確認してしまう。笑う息遣いが顔をくすぐった。
「私のことをわかってくれてるんだね。うん、もう会わないよ。それに、馨くんが私を見るのも、卒業式が最後。あなたが思い描く私の姿は永遠に高校生のままで、決して大人にはならないの。あなたを愛した今の私を覚えていてね」
触れ合っていた額を離して、至近距離から倫は私の瞳を真っ直ぐに覗き込む。そして最初で最後の、唇が触れ合うだけのキスをした。倫にとっての愛は呪いと同義語だ。私たち二人だけが知る作品を彼女はたった今完成させて、筆を置いたのだ。倫と共有した時間は、私の記憶に鮮烈な爪痕を残した。
年が明けると全てが受験一色になった。霙が降る日に共通テストを受け、先行する武蔵美と多摩美の試験を受けに行く。そして二月の中旬、私はついに武蔵美の現役合格を勝ち取った。精魂尽き果てた状態での合格の知らせはやはり嬉しく、高校受験の時とは比べ物にならない安堵感に包まれた。岡倉に報告を入れると、すぐに通話が掛かってくる。
『おめでとうっ! でも、もちろん藝大も受けるよねっ?』
緊張の糸はもう切れたので本当は受けたくないのだが、父との約束なので仕方がない。私学の武蔵美の方が設備も充実しているし、就職支援にも力を入れている。そして何よりも、岡倉と一緒の大学生活はどう考えても面倒だと、冷たい性格の私は薄情なことまで考えている。
「まぁね、受けるよ」
『両方受かったら? 藝大だよね?』
「うん。私の第一希望は武蔵美だけど、学費を出してくれるのは親だからね」
『だよね? 一緒に藝大生になろう!』
言外に同じ大学は希望してないと伝えているし、岡倉だってわかっているだろうにスルーだ。ラブホテルに行った後、急に開き直ったようにも見える。これならもう私が隣に居なくても大丈夫だろうと思いながらも、バディの最後の務めとして、一緒に東京藝大の受験に臨んだ。
三月頭の一次を揃って通過した。それだけでも、岡倉はともかく私としては意外だったが、すぐに二次試験の日がやって来る。
「手を抜かないで。ちゃんと全力で受験してよね?」
会場に入る前に釘を刺される。その鋭い指摘通り、私は完全に記念受験モードだったし、岡倉の付き添いのために来たようなものだ。だがいざ実技が始まると、私の心はすんなりと澄んだ空気の中に入っていく。明日は卒業式なので、これが高校生として描く最後の作品だ。もう二度と触れ合うことがない倫への惜別の想いを作品に乗せた。
卒業式の空は曇っていた。校庭の桜はもう七分咲きまで開花している。式が終わると皆が校庭に出て、親しかった友人同士が集まって別れを惜しむ。親が来ている生徒も多いようだが、私は日程を伝えなかったし、聞かれもしなかった。
岡倉家は両親が揃って出席し、母親にも紹介されてしまった。岡倉母は彼を『晃ちゃん』と呼び、今日はスーツにネクタイ姿の岡倉は、『お願い、木暮さんの前でその呼び方はやめて』と、反応に困るホームドラマを私に見せつける。超難関校の藝大しか受験しなかった彼が受かるかどうかはわからないが、合否に拘らず、ここで私たちの進路も分かれていく。きっと岡倉は大学生になっても会うつもりだろうが、大学が違えばどうしたって距離は離れていくものだ。私は心の中で彼に向かって『ありがとう』と伝える。それは同時に『さようなら』の意味だった。
一緒に食事に行こうという岡倉家の誘いは辞退して、私は視線で倫を探す。自ら命を断つことなく、今日という日を迎えることができて、本当に良かった。もしかしたらあの自殺願望は本心ではなく、私を巻き込むための仕掛けだったのではないかとすら感じてしまう。倫ならやりかねないだろう。
校門近くの桜の樹の下で、同級生たちと記念写真を撮っている倫を見つける。グレイのレトロなデザインの可愛いワンピースを着ている姿は、最後まで少女のように愛らしい。空を覆う雲とワンピースのグレイ、そしてその間に位置する桜の淡いピンクの配色はなんて完璧なのだろうと、私はこれが最後になる倫の姿を瞼に焼き付ける。
人としての感情が欠けた私にアートを表現する感性を与えてくれたのは、間違いなく倫だ。そして、人と共存して生きることを教えてくれたのは岡倉なのだろう。中学時代は友達など必要ないと拒絶していた私は、きっとこの三年間で大きく変化した。二人には感謝しかなかった。
卒業式から一週間が経った日の午後、突然スマホから音声通話の着信を知らせる音楽が鳴り響く。武蔵美の入学準備に入った私は、ちょうど代休を取って家に居た父に、自分で見つけたリーズナブルな女子寮について説明をしていた。スマホに視線を向けると、岡倉だ。父に断りを入れて、通話ボタンを押した。
『出たっ! 出たよっ! 見た?』
いきなり興奮した大声が耳に届く。
「え? もしかして藝大の合否? 待って、言わないで。今すぐサイトに行くから」
父への説明に使っていたタブレットで、東京藝大の合格発表サイトに飛ぶ。私たちはお互いの受験番号を公開し合っていたので、二本の指で画面をスクロールしながら岡倉の番号を探した。
「あっ、あった! うわぁ、すごいじゃん! 藝大に現役で合格するとは、さすがうちの学年のエースだなぁ、おめでとうっ!」
岡倉を以てしても簡単ではないと危惧していたが、この結果に胸を撫で下ろす。彼の性格では浪人生活のプレッシャーに潰されてしまうのではないかと心配していたのだ。
『ありがとうありがとうっ、全部木暮さんのおかげだよ! って、嬉しいけどなんで俺の番号を先に見てるのよ? あなたも合格してるんだって!』
そんなハズないだろうと、もう一度タブレットに視線を向けると、確かに私の受験番号も表示されている。岡倉が大声で捲し立てているので、スマホから漏れた声が父にも聞こえていたのだろう。『藝大も受かったのか?』と嬉しそうに身を乗り出してくる。
「……マジかぁ」
何浪してでも藝大を目指す人たちには本当に申し訳ないが、全てをリセットして第一希望の武蔵美に行くつもりになっていた私は、落胆の声を上げた。
合格発表から入学式までは二週間足らずしかなく、とても慌ただしかった。父は私が探してきた女子寮をそのまま受け入れてくれたので、急ぎ契約を終える。物を持たない私の荷物は段ボールたった三個で、入寮初日を受け取り日に指定して、宅急便で終わらせる手軽さだ。当日の朝、もうこの家に帰ってくることはないだろうと、母だった人に『じゃあ、これで家を出ます』と決別の声を掛ける。彼女は振り返ることもなく『二度と帰って来なくていいわよ』と返してきた。おかげでとてもスッキリした気持ちを抱いて、私を育んでくれた横浜の街を出て東京に向かって出発する。心の中でガッツポーズをしていた。




