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翼の心音  作者: 松岡織


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第三章-2 アーティストの遊び


 二時間目から授業に出て、夕方に出張帰りの父と喫茶店で待ち合わせる。昨日の昼から何も食べていなかった私は、やっと戻ってきた食欲で喫茶店のナポリタンをガッつきながら、昨日の顛末を説明する。私自身の反応も正直に伝えると、父は苦笑を浮かべた。

「お前もさぁ、そんなに正面から戦わないで、もっと大人の対応で軽く受け流せないのかなぁ。そんな言い方されたら、母さんだって引くに引けないだろ? ちゃんと逃げ道を作ってやらないと」

 大人ではない私に、大人の対応を求められても困る。だが、父らしい感想だと思う。

「それができないんだ。拒絶する感情がどうしても制御できなくて、感情的になってしまった。この先も関係が改善するとは思えないし、したくもない。取り返しがつかないことになる前に、大学に入ったら家を出たい。家賃と生活費はバイトを頑張ってなんとかするから」

 これ以上耐える自信がない私は、強い口調で希望を伝える。全てを父に頼るわけにはいかないとわかっている。何のバイトをすれば自活するだけの金額が稼げるのかわからないが、自由になるには稼ぐしかないのだ。

「お前が想像してるほど、それは簡単なことじゃないんだよなぁ」

 父は腕を組んで考えた後に、スマホで調べながら、理由を解説をしてくれる。それは税金や健康保険など、私が全く理解していない国の仕組みの話で、説明を聞き終える頃には、父が主張する就職までは扶養家族でいた方が断然得だと理解していた。お金にまつわる話こそ、義務教育で教えてくれよと舌打ちしたい気分だ。家庭科の裁縫や料理などより、遥かに今を生きる私たちには重要な情報で、全員が知るべきことではないのか。

 ショックを受けている私を見て、父は『大人って面倒だろ?』と笑ったが、そこでもう一度腕を組んで熟考の時間を取った。

「まぁ、どうしても母さんとは一緒に住めないと言うのなら、家賃だけは貸してやるよ。奨学金みたいに、社会人になってから毎月返済してくれ。祐哉(まさき)も国立は難しそうだから、あっちも金が掛かるんだよ」

 弟の学費を一時的に流用させてもらう計画を提案される。家を出ることが最優先なので、もちろんこの案に異論などない。眉間に皺を寄せていた暗い視界が、一気にパアッと明るくなった。

「ただし、寮かシェアハウスな。一人暮らしはコスパが悪いし、お前は柔軟性が足りないから、就職前に社会性を身に付けた方がいい。そうじゃないと就活で苦労するぞ」

 社会性とか柔軟性とか、父が言うことのどれもがどうでも良かったが、一年後にはあの人が視界に入らない場所に行かれると思うだけで、世界の見え方が全く変わってくる。昨日の出来事は、母だった人をより一層嫌いになるには十分だったが、それをキッカケに家を出る流れを作れたことは、実質私の勝利ではないか。包丁を投げつけられた甲斐があったというものだ。

 確かに父の言う通り、大人は大人で面倒なのだろう。だが、子どもであるという理由だけで押し付けられる、耐え難い不自由さとどちらを取るかと言われたら、私は迷わず、義務が伴なったとしても大人の自由を選ぶ。不安定になっていた精神状態が、希望へと変化するのを感じた。


 家を出る算段がついて精神的に回復した後も、私は倫と会うために、週に一度の頻度で照明室に通った。三年になって少なくなった必修科目で終わる木曜の放課後に、それは自然と固定される。実技ではないので必ず定時に終わるし、なにかと絡んでくる岡倉は、男子友達と行動するのが恒例なので、詮索されずに好都合だった。

 倫に否定的な感情を持っている岡倉には、付き合いを再開したことは伝えなかった。後ろめたさはゼロではない。だがそれは、親しい友人に隠し事をしているという種類のもので、恋愛的な要素は皆無だ。私にとっての岡倉は、あくまでもバディなのだ。

 では逆に、倫と私の関係は一体何なのだろうか。友達なのかと考えてみたが、それも違うような気がする。友達でも恋人でもない、上手く説明がつかない関係。倫は命を託す相手として私を選び、私は受け取りを拒絶しつつも、生きている彼女の心臓が刻む鼓動に心を委ねている関係だ。

 一年生だった時とは異なり、照明室の中の私たちはほとんど会話をしない。無言でお互いの体温を求めて抱き合い、額を触れ合わせるのが終着点だ。大人だったら、キスやセックスをするのかもしれないが、まだ大人ではない私たちはそんなことには興味がない。

 私はこの時間を大切にしていた。どこか支配的な倫の笑顔を見上げ、甘い匂いを胸に深く吸い込み、触れ合う肌が伝える温かさと耳に届く心音。それらが、離れている間に毛羽立ってしまった心を熔かしてくれるのだ。現実から切り離されて、異世界にでも行ってしまったようなリアリティのない空間で、ただ黙って抱き合うだけの時間。倫が与えてくれているようでいて、そこに価値を見い出しているのは、私の中から湧き出る感覚的な何かだ。この時間を手放したくないと求めていたし、誰にもジャマされたくないと思っている。ずっとロジックを拠り所にしてきた私は、生まれて初めてそれを捨て、なぜそうしたいのか理由すらもよくわからない欲求に、素直に従う快楽を知った。


 この不思議な時間を手に入れてから、私の描く絵は変わってきた。意図して変えたわけではなかったが、ある時から自然と、描き始める前に心の置き所を探すようになったのだ。デッサンを描く時は、以前と同じようにロジックで捉えて計算する方式を採っていたが、表現を問われる色彩構成のクラスでは、自分の中に埋もれている『感覚』を掘り起こすことを覚えた。きっと一般的には『感情』や『メッセージ』と言うべきなのかもしれないし、岡倉父はこれを『愛』と呼んだのだろうか。だが、私にはそこまでの強い念はないのだ。感情として形作られるよりももっとずっと手前の、淡い空気のようなもの。その中に心を漂わせながら描くのが、ちょうどピタッと嵌まった。

 この感覚を覚えてから、目に見えて順位が上がった。今まで一度も達成できなかった、岡倉を抜いて一位を獲ることも増えてきた。二年間ひたすら積み上げてきたテクニックを表現に転化する方法を、ようやく見つけられたのかもしれない。

 大らかな性格の岡倉は、順位で抜かれても私に対する態度を一切変えなかった。それどころか、『表現力が急に伸びたよね』と褒めてくれる。変化の理由やキッカケを問われたが、とても感覚的なこの話を言葉で説明するのは難易度が高すぎて、上手く伝えられなかった。逆にこのところの岡倉が描く作品は、どれもこれも精彩を欠いているように見えて、気になっている。

「木暮さんは俺よりアーティスト度が高いから、実力がついたら表現で抜かれるだろうとは思っていたけど、ついにその時が来てしまったか」

 いつものハンバーガーショップで対面に座る岡倉は、達観したような言い方をする。その日の授業でも、私は彼の定位置だったトップを奪い取っていた。

「アーティスト度? 作家性って意味? 個人で発信したいテーマはないから、作家には向いてないと思うけど」

 私は自分の熱量だけで作品を作り上げるタイプではない。だが岡倉は、薄い笑みを浮かべて首を横に振った。

「作家向きって意味じゃないよ。木暮さんの存在そのものの話。最初から言ってるじゃん、あなたは特定の人種を惹きつける存在なんだって。まぁ、だから俺は、バディを組むと言う名目で早々にあなたを囲い込んで、俺以外の悪い虫を追い払ってきたんだけどね」

 見慣れた人懐こい笑みが戻ったが、今日の岡倉はどこか様子が変だし、言っていることも唐突だ。付き合っている噂を否定しなかったのも、きっと同じ理由からなのだろうが、そもそも、追い払う必要がある虫などどこにも飛んでいないではないか。一人で一体何と戦っているのだろうと、呆れてしまった。

 彼が葛藤している不安の正体を想像してみる。平気なフリをしていても、私に抜かれたことは、彼の心を乱してしまったのだろうか。一年生の初めから完成度が高かった岡倉の作品は、この二年で大して進歩していないように思う。私の受験対策がここまでスムーズに進んで来られたのは、彼が誘導してくれたおかげが大きいと感謝しているが、逆に彼自身は、作品に集中できていないのではないか。同じ教室で課題に取り組む時、私は岡倉の存在を忘れているが、彼はそうではないように見える。ラストスパートのこの時期に、重荷になるなど本意ではない。バディの解消を申し出るべきかと心が揺れた。

「来月からの夏期講習が怖いなぁ。俺、ほんとメンタルが弱いから、木暮さんが一緒に通ってくれてなかったら、とっくに逃げてたかもしれない。バディを組んでくれて、マジでありがとね」

 まるで心を読んだかのように、私が考えているのとは真逆の方向に話が進む。そんなことを言われてしまったら、一人で集中すべきだとは言い出せないではないか。仕方なく元気づける言葉だけを掛け、夏期講習に参加させることを優先するしかなかった。


 夏休み前の最後の木曜日。照明室で合流するとすぐ、今日の倫は会話を始める。しばらく会えなくなる今日くらいは、話をしたいと私も考えていた。

「馨くん。次に会うのは九月になってからだね」

 今日も倫の笑顔は意地悪だ。六週間のオアズケを与えることを、彼女は楽しんでいるに違いない。夏休み中にわざわざ外で逢うことはないだろうと、予想していた通りだ。

「我慢できる?」

 やわらかい両手が私の頬を抱き、顔を傾けて覗き込んで来る。意地悪を言う時の倫の瞳はいつも輝いているなぁと、私はそんなことを考えていた。

「わからない。けど、途中で恋しくなるかもしれないね」

 今ある物が無くなったと仮定しても、それはあくまで想像でしかない。この倫との時間は私の中で一体どれだけの比重を占めていて、そして依存しているのだろうか。どこか他人事のような答を聞いた倫の唇が、深い笑みへと形を変えた。

「逢いたくなったら、その気持ちを作品に込めてインスタに上げて。そうしたら私も、馨くんの想いに応える絵を描くよ。私たち二人にしかわからない会話をしようよ」

 新しい遊びを発明した子どものようにキラキラとした表情だ。私たち二人にしか通じない、互いの気持ちを絵で表現するアイデアを聞いて、私にも笑みが浮かんだ。

 岡倉は私にアーティストと言う言葉を使ったが、それは私ではなく、きっと倫のことなのだ。新しい世界を創造し、そこに他者の心を巻き込んでいく。その生き方をアートと呼ばずに何と呼ぶのか。

 調和を良しとする社会では、倫はきっと歓迎されない異分子だろう。支配的で意地悪だし、自分勝手な気持ちを一方的に押し付けて、相手の都合などお構いなしだ。だが、それこそが倫という少女だし、だからこそ、人々を虜にする作品たちが生まれるのであれば、いくらでも狂ったことをやり続ければ良いと思う。常識的な言動や他者への配慮を覚えた結果、作品のエッジまで丸くなってしまっては本末転倒だ。

「それ、いいね。やるよ」

「馨くんならきっと、この遊びの良さをわかってくれると思ってたよ。やっぱり間違いなく、あなたは私がずっと探していた人だったんだなぁ」

「……翼は受け取らないからね」

「うん、聞いてる。でもね、それが私の愛だから」

 倫はここでも私の希望は一切聞かないし、一ミリも自分を曲げてはくれない。小さな溜息をつきながらも、私はここでもまた出てきた『愛』と言う単語が気になった。

「倫にとっての愛ってどんなもの?」

 私には理解不能な形のない想い。果たしてこのアーティストは、それをどう捉えているのか。問われた倫は考える時間を取っている。きっと彼女のことだから、『相手の幸せを願うこと』とか『自分よりも大切に想うこと』なんて平凡なことは言わないに違いない。私は答を期待して大人しく待っていた。

「呪い。かな」

 その言葉を聞いた瞬間、噴き出してしまった。まさかそんな方向から答が返ってくるとは、全く想像していなかったのだ。

「そうかぁ、なるほど。私は倫に呪われていたのか。なんか、ものすごく納得しちゃったなぁ」

 倫の言動全てを呪いだと思えば、とてもしっくりとくる。いくら拒絶しても翼を渡すと言い張り、私の主張が一切受け入れられないのは、彼女の行動が呪いであるならば当然だ。謎が解けた清々しい気持ちに包まれている私の声は、笑みを含んでいる。倫も楽しそうに『ふふふっ』と笑い声を漏らした。

「私の呪いでもっと馨くんを縛りたいなぁ。他のことなんて何ひとつ考えられなくなるくらいの強い呪いを掛けたい。あ……ヤバーい。今、新しい作品のイメージがどんどん湧いて来てる。馨くんと話してると、アイデアの女神が降臨することが多いんだよね。今日帰ったら、絶対に徹夜して描いちゃうな」

 威圧的な雰囲気が消え、インスピレーションを得た喜びで倫の顔は綻ぶ。天才が作品を生み出す源になれるのなら、好きなだけ私を呪って踏みつければいいんじゃないだろうか。私たちは平穏を求める世界の住人ではない。そんなものよりも、もっとずっと価値を感じるもののために生きているのだ。

 照明室を出て駅での別れしな、巻きついていた左腕から倫が離れる。

「夏期講習も、あの男子と一緒に通うの?」

「うん。バディを組んで、受験の協力をしてるんだ」

 今まで一度も岡倉について触れることがなかったので、存在ごと無視を決め込んでいるのかと思っていた。一年生の時には、香川と漫画の話をしただけで怒っていたことを思い出す。

「あの子ってさぁ……普通の子だよね? 作品を見て上手いとは思ったけど、こっち側の子じゃないなってわかった。馨くん、物足りないでしょう?」

 勝ち誇った可愛い笑顔は、とても倫らしい。そりゃあ、ぶっ壊れてるあなたと比較すれば、岡倉に限らずほとんどの生徒は、私も含めて普通の子だろう。

「大事な仲間なんだよ」

 こんなありきたりな返事は求められていないとわかっている。案の定、倫はつまらなそうに唇を尖らせた。

「じゃあ、また九月にね。頑張れよ、受験生」

 それ以上岡倉の話を続けることなく、彼女の自宅がある路線の改札へと歩いて行く。揺れるスカートの裾を眺めながら、その小柄な後ろ姿を見送る。倫のやり方に慣れてきた私は、岡倉に対する不満の種を植えられたのだと気づき、苦笑を浮かべた。


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