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翼の心音  作者: 松岡織


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第三章-1 誰にも見つからない場所


 吹っ切れた私はそのままの勢いで下期を突っ走り、あっという間に三年生になった。ついこの間高校に入ったと思ったのに、受験までの残り時間がもう一年を切ってしまったとは驚きだ。冬期講習、春期講習と続いた予備校は、相変わらず浪人生に完敗した成績で終わったが、事実は事実として受けとめるしかない。三年の選択授業では、もう数学も理科も捨て、全てのコマを美大受験用の科目で埋めて退路を断つ。その全振りは快感だった。

 希望進路別にクラス分けされたので、受験する生徒が多い絵画とデザイン学科だけで一組が埋まる。それ以外の生徒は全員が二組だ。去年と同じく、岡倉とは同じクラス、倫や香川とは分かれた。

 そして五歳下の弟が中学に入った途端、家の雰囲気が一変した。小学生まではどちらかと言うと内気な性格だと認識していたのに、突然激しい反抗期が訪れたのだ。『うるせぇ、ババア!』と定番すぎる怒鳴り声が聞こえて来た時には、本当にそんなことを言うヤツがいたのかと、自室で課題をやりながら笑ってしまった。筋が通らなくて理不尽な、母だった人の言うことを大人しく聞いている方が心配なので、この反抗期は良いことだと心の中で拍手を送る。弟の怒鳴り声や、何かが倒れる音が聞こえてくる度に『いいぞ、もっとやれ』と心の中で声援を送った。

 だがこの反抗期を楽しんでいたのは私だけだったようで、元母は心の逃避のためか、聞いたこともない名前の新興宗教に入ってしまったらしい。父からその話を聞いた時、私は心底呆れ返った。

 迷惑さえ掛けなければ、好きに生きれば良いと思ってはいるが、宗教トラブルの多くは金銭絡みだ。大丈夫なのかと父に問うと、うちの家計は父が管理していて、母だった人が自由になる金額は大きくないらしい。そのうち飽きるだろうから、適当に聞き流して対処してくれと言われた。

 父は常に安定している性格だと思うが、家庭に関してはいつもどこか他人事で、問題の根本的解決をするつもりはないのだ。面倒ごとには場当たり的な対応だけをして、嵐が静まるのを待つ。それがいつもの彼の対処方法だ。

 それが最善の策だと彼が判断したのなら、私が口を出すことではない。だが、きっとこの先何年経っても同じことを繰り返す未来しか見えず、一日でも早くこの家を出て行きたいと改めて思った。


 独りで戦う気も関わるつもりもないので、父を倣ってやり過ごすことにしたが、ゴールデンウィークが終わってすぐに事件は起きた。学校から帰宅すると、母だった人はキッチンで料理をしている。そこを通らないと自室に入れない私が背後を横切ると、呼び止められた。

「馨。今度の日曜は出掛けるから、空けておきなさい」

 この人は命令形で話すことが多い。なぜ命令する権利があると思っているのか。弟を真似て『うるせぇババア』で振り切ろうかとも考えたが、私は足を止めてしまった。

「土日は課題があるから」

 拒絶した途端料理の手が止まり、驚くような速さで顔が振り向く。目が吊り上がっているので、怒っているのだろう。

「たまには素直に『はい』って言いなさい! 日曜は絶対に来させるからね!」

「来させる? どこに?」

 なんだか変な言い方だ。祖父母が体調を崩したなどの話なら手伝うのもやむなしかと考えていたが、どうもそうではないらしい。

「道場よ。うちの子どもが二人共反抗的で、何ひとつ言うことを聞かないって相談したら、下等な動物霊が憑いているかもしれないから、連れて来るように言われたの。日曜は道場に偉い先生がいらっしゃるから、絶対に見てもらうわよ!」

 開いた口が塞がらないとは、まさしく今の私だ。この人は本気でそんな話を信じているのだろうか。控えめに言ってもかなりバカなのではないか。私はぽかんと口を開けて、この愚かな女の怒りで歪んだ顔を眺めている。

「いいわね? わかったわね?」

「……あのさ」

 そんな話を真に受けて一緒に行くと思われたことが、無性に腹立たしい。私が発した声には怒りが滲んでいた。

「日本は宗教の自由が保障されてるから、あなたが何を信じようと勝手にすればいいけど、私を巻き込むのはやめてくれ。迷惑だ」

 こんな女に構うなと理性が止めているのに、激しい拒絶の感情が迸り出てしまう。こんなことを言えばますます怒り狂うことは、今までの経験上知っているのに。案の定、母だった人は、怒りのあまり震え始めた。

「なんなの、その癪にさわる言い方はっ! あなたを助けてあげようとしてるのに! そんなこともわからないなら、死んだ方がいいわよ!」

 ほら、やっぱりだと、私の中の理性が選択ミスを指摘する中、目の前では信じられない光景が展開される。彼女は手に持っていた包丁を、私に向かって投げたのだ。

 包丁は一メートル手前のフローリングの床に突き刺さる。私は反応できずに、その非日常な光景をただ見つめている。一拍遅れて、全身にゾワッと鳥肌が立った。

「……今、何をしたのか、わかってる?」

 自分でも驚くほど冷たい声だ。包丁を投げた本人も硬直している。

「警察、呼ぶから」

 傷害未遂か虐待か、理由なんてなんでもいいから、とにかくこの頭のおかしな女をどこかに連れ去ってくれないか。本当に通報してしまおうかと思うほどに、同じ空間に存在すらしたくない。彼女は警察と聞いて、顔を引き攣らせた。

「当たる場所になんか投げてないわよっ! 親を警察に突き出そうとするなんて信じられない。なんてひどい娘なの! あなたに憑いてるのはね、下等な動物霊なんて可愛らしいものじゃないわよっ!」

 叫び声を上げて、料理途中だった物を放り投げ始める。まな板が大きな音を立ててシンクに落ち、切っている途中だったにんじんの欠片が飛んでいる。続いて横に置かれたボールを掴んでぶち撒け、切られた野菜が床に散乱する。私はその様子を眺めながら、動物霊じゃないなら一体なんなんだよと、冷めた心の中で呟いている。

 母だった人はそのまま叫び続け、二階の自分の部屋に向かって消えて行った。私はずっと同じ位置に立ったまま、大惨事になっているキッチンをただ眺めている。代わりに片付けてやる気など毛頭ないが、この場から動く気力もなくなったのだ。

 感情的になってしまったことが悔しい。理性が止める声が聞こえていたのに、なぜ反応してしまったのか。否定的な態度に出ればこうなるとわかっていたはずだ。これでは自ら進んで削られに行っているようなものだ。拒絶と言う衝動は、私の中にある最大の感情だ。制御しようと何度誓っても、消し去ることがどうしてもできない。

 ようやく気を取り直した私は、自室のベッドの上に倒れ込み、出張中の父にメールで報告を入れる。返事はすぐに来て、『包丁の怪我はなかったんだよね?』と『明日、なるべく早く帰る』と返してくれたことが救いだ。それでも、その夜は心を落ち着かせることができず、全く眠れなかった。とりあえず目を閉じて、一晩中静かに横になっている。何も食べていない内臓が時々音を鳴らし、私の身体は生きているのだなと考える。

 翌朝、学校に行くためにキッチンを横切ったが、弟も当然スルーしたようで、全てが昨日のままだ。包丁はまだ床に突き刺さっているし、変色して(しな)びた野菜が、今朝の私の心模様にピッタリだ。惨状を呈するキッチンを通り抜けた私は、心を乱さず無心でデザインしようと、それだけを自分に言い聞かせて家を出た。

 それなのに。朝のラッシュで気分が悪くなってしまった。顔は妙に冷たいのに冷や汗が出る。そして眼球が奥に引っ込むような症状に襲われ、瞼が痙攣して強制的に閉じてしまう。神経がおかしくなっているのだと判断した私は、意識して呼吸の速度を落とす。ゆっくりと数をカウントしながらリズムを整えることで、なんとか途中下車は免れて、学校の最寄り駅で降りることができた。

 あんなことで乱れてしまう精神の弱さが、本当に情けない。たかが、包丁を投げられただけではないか。身体に当たることはなかったし、怪我もない。だが、あの時の状態から判断するに、刺さらない位置に投げたという言い分を信じることなどできない。あの人は怒りの感情のままに、何も考えずに投げたのだ。

 だが、そんなことは通常運転だ。今回に限って体調が悪くなるなど、まるで未だにあの人に期待していたみたいではないか。とっくに私の方から切り捨てたのではなかったのか。自分の中に未練を見つけ、その滑稽さに吐き気がした。


 学校まではなんとか辿り着けたが、授業を受けるのは無理そうだ。保健室に行こうかとも考えたが、それよりとにかく独りになりたい。ふと思いついて、校舎の中にある講堂に向かう。入学式や卒業式に使われる設備なので、今日は人が来ることもないだろう。中に入って横たわりたいと観音開きの扉に手を掛けたが、残念ながら施錠されている。そこで力尽きてしまい、扉の前に座り込んで膝を抱えて丸くなった。

「馨くんっ」

 遠くから声が聞こえる。この呼び方は倫だろうかと、動いてない頭が伝えている。私は気絶でもしていたのだろうか。縁が切れた倫が呼んでいるなんてこれは夢に違いないと、また暗闇の世界に戻ろうとしたところで、今度は身体が揺らされた。

「大丈夫? 先生を呼んで来ようか?」

 再び緊張した声が届く。ここでやっと、これは夢ではなく現実なのだと理解して、なんとか顔を上げる。なぜか本当に倫が居て、心配そうに私を覗き込んでいた。眩しくて目を開けていられない。何度も瞬きを繰り返したが、また瞼が痙攣している。倫の両手が私の頬を抱いた。

「真っ青だよ。それにすごく苦しそう。保健の先生を呼んで来るよ」

 立ち上がろうとする倫の腕を、咄嗟に掴んで引き止める。騒ぎにしたくなかった。

「大丈夫。身体の問題じゃないから。落ち着けば収まる。このまま放って置いて。授業始まるよ」

 なんとか『ね?』と笑い掛けたつもりだが、視界に映る倫の表情を見るに、私は全く大丈夫そうには見えないのだろう。倫は考える時間を取った後に私の腕に触れた。

「ね、立って。歩ける?」

「ううん……このままで」

「午前中に用務員さんの清掃があるから、ここにも来るよ。誰にも見つからない所に連れて行ってあげる」

 そんな場所が校舎の中にあるのだろうか。あるのならば、そここそが、今私が求めている場所だ。頷いてなんとか立ち上がった。


 案内に沿って階段を昇る。そして、ひとつ上の階にあるドアを、倫は慣れた様子で開く。ドアの先はスポットライトが置かれた下手(しもて)側の照明室で、人が二人も入れば一杯になる狭さだ。一面は講堂に対して開かれていて、高い位置からステージを見下ろせる。講堂の小さな窓から射し込む光が唯一の光源で、照明室の中は薄暗くてとても居心地良く感じられる。倫は壁に立て掛けられていたパイプ椅子を二つ開いて並べた。

「ここね、鍵が壊れてるんだ。前に独りになれる場所を探検した時に見つけたの。さ、座って。ようこそ、私の秘密基地へ」

 一年以上も会話をすることがなかったのに、以前と変わらぬ親しげな接し方だ。バックパックを床に置いて、勧められたパイプ椅子の一つに腰を下ろす。すると、並べた二つの中央に座るようにと指示される。なぜだろうと思いながらも、会話する気力すらない私は、素直に従って少し横に移動した。

 私の両肩に、正面に立つ倫の手が乗る。何をするつもりなのかと、ぼんやりした視線で見上げていると、微笑む顔が見える。この笑顔が私に向けられるのは久しぶりだ。倫は膝を片方ずつ、私の左右の座面に乗せて、跨いだ太腿の上に座ってしまった。

(え、なにこれ……)

 私たちは今、向かい合って身体を密着させている。倫の手が私の後頭部を抱いて、彼女の左胸に引き寄せる。体温とバニラの香水の匂い、そしてやわらかい胸の感触が五感に届いた。

「両手を私の背中に回して? そして目を閉じて、ゆっくり深呼吸をしよう」

 落ち着かせようとしてくれているのだろうか。それにしても、他人と身体を寄せ合うなど、一番古い記憶まで辿っても、家族も含めて経験がない。ぎこちない動きで、それでも言われた通り両腕を背中に回す。私の腕の中の倫は、驚くほど温かかった。

 心音が聞こえる。私は双眸を閉じて、暗くなった世界でその音だけを聞いている。手のひらから伝わる体温が、ささくれ立っていた神経を宥めてくれているのがわかる。なんてやわらかく、そして温かい身体なのだろうと、私の心はその心地良さに沈んで行く。

 倫がいつ死んでしまうのかと、ずっとストレスに感じていた。でも、今ここで身体を寄せ合っている倫は確かに生きていて、彼女の心臓は力強く脈打って私に安心を運ぶ。母だった人から受けたショックも全てまとめて置き去りにして、まるで胎児になって倫の中へと沈んで行くようだ。私の指先は、その温かい背中をきゅっと掴んだ。


 どのくらいの時間が経ったのだろうか。途中で意識が途切れてしまっていた。ハッと気づいた時には、落ち着きを取り戻し、顔の痙攣や冷たさも消えている。

「気絶してた。けど、もう大丈夫だと思う……ありがとう」

 ずっと私の頭を胸に抱いていた手が解かれる。心音に名残惜しさを感じながらも顔を上げると、穏やかな視線が私を見下ろしている。ピンクの唇が動いて微笑む形に変わり、倫の両手が私の頬を抱く。

「良かった。表情も戻って来てるね」

 何かあったのかとは聞かれない。私の本質を誰よりも知っているのだから、聞いても話さないとわかっているのだろう。全てを共有したがる岡倉とは正反対だ。

「でも、どうしてあそこに私が居るってわかって、来てくれたの?」

 動き始めた頭の中に最初に浮かんだ疑問を問い掛ける。倫は当たり前だと言いたげに微笑んでいる。

「毎朝必ず、改札に一番近い車両に乗るでしょ。私はその一つ後ろに乗ることにしてるんだ。だから後ろを歩いていたの。そしたら様子がおかしいから追い掛けて来たんだよ。具合が悪いのに保健室に行かずに隠れたがるなんて、キミは猫かなってツッコミを入れてたよ」

 よく動く表情と笑顔は、一年生だった時と何も変わらず可愛らしい。そろそろ『女性』に変化しつつある同級生も増えてきた中で、倫は今もまだ『少女』と(くく)るに相応(ふさわ)しい風貌だ。

「ねぇ、馨くんって、泣いたりできないんでしょ」

「え、うん。泣いたこと、ないかも」

 可愛げのない子どもだった私は、人と触れ合ったことがないのと同じく、物心ついてから泣いた記憶もない。悲しいと思う感情はとっくに捨ててしまったし、感動で泣くほど心が動くこともない。倫は両手で私の頬を抱いたまま、顔を寄せて互いの額を重ねる。顔同士が近づき過ぎて目の焦点が合わなくて、自然と瞼が閉じてしまった。

「また苦しくなったらいつでも呼んで。馨くんにはね、泣くことの代わりになる何かが必要なんだよ。私が与えてあげる」

 再び暗くなった世界の中で、芝居掛かった倫の声は私の心に真っ直ぐ降りてくる。さっきからリアリティが全く感じられないし、これは何か得体の知れない危険な誘惑だと、私の本能が警告している。他人には一切依存せず、独りで生きて行くと決めた心が、甘い声で揺さぶられているのだ。倫はまともじゃないと、私はもう知っている。魂を堕落させて地獄に誘う悪魔がいたなと、どこか遠い国の物語を思い出す。誘惑を振り切って距離を保つべきだと理性が告げる一方で、さっき沈んだ世界の、心が(とろ)けるような温かさがもっと欲しいと、感情が強く反論している。額を重ねたまま、私は『うん』と頷いて、この誘惑を受け入れた。

 そこで倫は満足げな声で小さく笑う。人間を堕落させることに成功した悪魔はこんな声を出すのではないか。そして悪魔に(なぞら)えている相手に、なぜ私は進んで魂を差し出してしまうのか。現実とは異なる世界に足を踏み入れてしまった感覚に陥っている。

 あの心音と温かさは、まるで中毒性のある麻薬のようではなかったか。一度覚えてしまった今、自力で抜け出すことは難しいとすら感じている。毒だとわかっているのに縋ろうとするなんて、なぜ私はいつも、賢さとは逆の選択をしてしまうのか。自ら危険に突っ込んでは傷を負う、お馴染みのパターンではないか。きっと、母だった人と同レベルにバカなんだろうなと考えていた。


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