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翼の心音  作者: 松岡織


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第二章-3 迷いと決意


 試験が終わると下期に切り替わる。三年間の高校生活の、ここがちょうど折り返し地点だ。進路を修正するならタイムリミットだと理解していたが、私は美大を目指す進路希望を変更しなかった。だが迷いは未だ残っている。夏期講習の散々な結果や、愛がわからないことからも、私の人生をアートに賭けても大丈夫なのかと、どうしても考えてしまう。まだ結論を出すには早いと判断しただけの選択だった。

 迷う気持ちはクラス選択にも表れていて、美大受験に向けた学科のみを選んでいるかと言えばそうではない。この下期も、高校の必修科目ですらない数学Ⅱと数学B、そして物理のクラスを受けている。数学は純粋に美しく、そして楽しい。だが同時に、進路の逃げ道を残しておきたい迷いでもあると自覚していた。

 理系科目を選ぶ生徒は少なく、大抵三人から五人の超少人数クラスだ。顔ぶれもほぼ同じで、私以外は全員が男子。午後イチの数学Ⅱのクラスに参加するために早めに教室に入ると、一組の男子二人が話をしている。聞くつもりがなくても、静かな教室の中で彼らの会話は耳に届く。一般大学志望に切り替えるべきかの相談しているようだった。

「美大の倍率見ると、さすがに一般大学も受けておこうかと思えてきた。それにさ、やっぱ美大を出ても、なかなか仕事に結びつかないじゃん」

 名前を把握していない彼が言うことは尤もだ。私は心の中で『ものすごくよくわかるよ』と同意している。そして、もう一人の声が続いた。

「俺は一般大学だけ受験しようかとすら考えてんだよね。中学の先輩がここのOBで話を聞いたんだけどさ。高三になると、結構多くの生徒が一般大学に進路変更したり、併願を目指すんだって。でもそこから対策を始めても間に合わなくて、結局どっちも受からないってのが、この学校あるあるだってよ」

 その『あるある』にも納得だ。バディである岡倉が、迷うことなく『東京藝大一本』の姿勢を貫いている中、他の生徒の話はとても参考になる。これが多数派の意見なのかもしれない。

「美術ってさ……」

 美大受験を諦めると話していた男子の声が続く。

「野球やサッカーと同じだよな。地元のエースで四番ってあちこちに居るじゃん。そこでは皆、自分は将来プロ野球選手になれるって思っててさ。でも野球エリート高校に入ったら、レギュラーどころかベンチ入りすらできないって厳しい現実が待ってるんだよ。そこからまたプロに入れるのはどれだけの確率よって話だよなぁ。俺、ここに入るまでは、自分は絵の天才だと思ってたよ」

「俺もだよ。タイムマシンで中学時代に戻って、お前の才能は大したことないから、普通科の高校を受験しろって説得したいね」

 ははは、と笑う声に呼ばれて視線を向けたが、彼の顔には不安がこびり着いている。彼らの悩みと迷いは私と同じだ。無事に美大に合格できるのか。そしてその先の、将来の仕事に何を選べばいいのか。この厳しい世界で生きていくことができるのか ―― きっと大人になれば思い出しもしなくなるであろうそんな悩みも、今の私たちにとっては大問題だ。

 岡倉は一年の初めからデザインクラスのトップを走っているようなサラブレッドだ。一方の私は、まだ基礎も足りず、私でないと創れない作品なんてものは存在しない。美大に現役で受かる実力には程遠いだろうと、己の立ち位置を客観視していた。


 その日の放課後、気持ちを整理したいと思った私は、バッティングセンターへと向かう。岡倉も観たいと言ってついて来た。

「バッティングセンターとか来るんだ。俺、初めて」

「小学生の間は地元で時々通ってたけど、それ以来。四年半ぶりか」

 話しながら券売機でカードを買う。数学の授業の前に野球の例え話を聞いた時から、放課後になったら打ちに来ようと決めていた。

 ゲージの球速をチェックしながら歩く。私は空いている中では最速の、120kmと大きく書かれたゲージのドアを開けた。

「そこって速いところじゃないの? 危なくない?」

 岡倉は慌てた声を上げる。プロが165kmを出していると言うのに120kmごときで軟弱すぎだろと、返事はせずに置かれている金属バットの中から、一番しっくり来る重さの一本を選ぶ。突然来たのでバッティンググローブがなく素手だが、なんとかなるだろう。

 数回素振りをしてから開始ボタンを押す。アームの動きをピッチャーに見立ててタイミングを測った。

 初球。目を慣らすために見送る。

 小学生の投げる球とは比べ物にならない速さだ。高揚感が湧き上がるのを感じた。

 二球目。下がった位置でタイミングを取ろうと振ってみる。

 完全に振り遅れた。

 三球目。バッターボックスに入って、フルスイングする。

 掠りもしないで空振りした。

 ダメすぎて、ここで完全に闘志に火が着く。スイングの軌道、タイミングの取り方を修正しながら喰らいつく。少しずつバットに当たるようになったが、その全てがファウルかゴロだ。一ゲームの二十球が終わっても、ヒット性の当たりは一本もない。迷わず次の二十球を求めてボタンを押した。

 二ゲーム目はもっと踏み込んでみる。自打球がモロに足に当たったが気にしない。少しずつ前に飛ぶ確率が上がってきても、なかなかヒット性の当たりは出ない。地面に当たって跳ね返った球が顔を直撃してよろめく。ネットの向こうで岡倉が叫び声を上げた。

「ちょっ! 大丈夫? もうやめなよ、危ないから!」

「いや、どこも折れてないから」

 勘を取り戻しつつあるこのタイミングで退くわけがない。そう思って振った次の球は、初めてバットの芯に当たってヒット性の当たりになった。

「よしっ」

 思わず声が出る。そして嬉しい。次の球も続けてヒットだ。バッティングの爽快感を思い出し、岡倉の存在を忘れて打ち続ける。頭の中に、さっき聞いた男子生徒たちの迷いが蘇っていた。

 彼らがより安全な選択をしたがる気持ちは理解できる。私たちはコスパとタイパを重視して、効率よく生きるのが賢いとされる世代だ。きっと私も理系の大学に入った方が、就職だって俄然有利だろう。彼らと同じ選択を私もすべきなのか、それとも敢えて効率という賢さは捨てるのか。バットを振りながら、私は自分の本当の気持ちを探している。

 得意なことを(こな)す人生は、果たして楽しいのだろうか。何度自打球が当たって痛い思いをしても、打つことを止めないのが私の本質ではないのか。さっきまでは前にすら飛ばなかったボールも、打ち続ければ、こうやってヒットになるではないか。むしろできなかったことを克服した時に得られる快感は、得意なことだけをやっていては、体験できないのではないのか。

 まだ戦いたい、戦おうと決めて、五ゲーム目のラストボールを振り抜く。ちょうど百球目のその打球は会心の当たりで、ネットの高い位置に取り付けられているホームランと書かれた的を直撃する。出来過ぎのエンディングに、私は『はははっ!』と笑い声を上げて、汗だくの顔で岡倉を振り返る。彼はドン引きした表情を浮かべながらも、それでも拍手をしてくれた。


 バッティングセンターを出て、駅前のハンバーガーショップに入る。ポテトのLサイズとコーラが、今の私にピッタリだ。

「ねぇ、顔が腫れてきてるよ。冷やさないと痣になるのでは」

 眉を寄せながら、岡倉が心配そうに声を掛ける。顔だけではなく、自打球が当たった身体のあちこちが痛いし、素手で百球も打った手だってヤバい感じだ。きっと明日には全身の筋肉痛も追加されるだろう。だがそれらの痛みは全て、爽快感の一部だった。

「顔なんてどうでもいいよ。それよりさ、一応報告すると、美大受験に迷いが出てたんだけど、完全に吹っ切れたので改めて頑張ります」

「えっ?」

 口に運ぼうとしていたポテトを宙で止めたまま、岡倉は固まっている。その手から、ポテトがトレイに落ちた。

「そんな話、今初めて聞いたんだけど」

「うん。初めて話したよ」

「や、そうじゃなくてさ。どうして迷っている段階で、俺に話してくれなかったのって意味だよ」

 コミュニケーション能力の低い私は、岡倉が何に不満を感じているのかわからない。

「進路は自分の責任で決めないとダメだろうと思ったから、途中では相談しなかった。そして今、決心がついたから報告した。この流れのどこに問題があったのか、私は理解してないから教えてほしい」

 正直に伝えると、岡倉は無言になって考えている。腕を組み、顔が下がって目を閉じる。再び上がった顔は、頑張って作ったであろう笑顔だ。

「問題はどこにもない。俺がね、寂しかっただけです」

 私が体験したことがない感情が告げられる。彼はきっと、私の知らない沢山の感情が漂う世界に住んでいるのだろう。そしていつも隠さずに(さら)け出す。全く違う生き方だが、そこは彼の良いところのひとつだと思う。

「……そうだったか。ごめん」

 きっとロジック的には謝る必要なんてない。それでも、こんな顔をさせたことを謝罪したいと感じた。岡倉のぎこちなかった表情は、やっといつもの笑みへと変化する。

「ねぇ、木暮さん。絶対に藝大も受けてね」

「うん、受けるよ」

 その理由は『父と約束したから』だったが、口には出さない。東京藝大に受かる実力などないし、岡倉が言外に込めた希望に応える未来もないだろう。それでも、私の迷いのせいで不安定になった彼を安心させるのが、バディの務めだと思って笑い掛けた。


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