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初訪問 凛目線

過剰なトレーニングの歪みは、すぐに身体にあらわれた。


朝、目を覚ました瞬間、背中から首にかけて鈍い痛みが走り、起き上がることさえ困難になっていたのだ。


「……っ……」


声にならない声が漏れる。


筋肉が軋むように硬直し、首、背中、腰にまで鈍い痛みが広がっていた。


昨日のストレッチや筋トレは“自分なりの努力”のつもりだったけれど、この身体にはただの拷問でしかなかったようだ。


布団の中で呼吸を整え、私は頭を抱えた。


「やばい……完全に失敗した……」


額には嫌な汗がにじむ。


デイサービス「ひまわり」に行くどころか、トイレに立つことすらままならない。


唇を噛みしめ、努力の方向を完全に間違えた自分を責める。


「身体を強くして返す」なんて言っておきながら、これでは真逆だ――。


這うようにしてなんとかトイレには行けたが、あまりの激痛に思わず泣いてしまった。


ベッドに戻ると、のたうち回るように痛みに耐えた。


おばあちゃんが優しく背中をさすってくれるが、そこにいるだけで苛立ちが募る。


「もう仕事に行く時間でしょ!!早く出てって!!」


私は半泣き状態で、怒鳴ってしまった。


おばあちゃんもオロオロして出かけていった。


私、ホント最低だ…。


おばあちゃんが出かけた後の静けさが重苦しかった。必死に手を伸ばしてスマホを掴み、ひまわりに電話をかける。その行為だけで背筋がビリリと痛む。


「もしもし、ひまわりです。どうされましたか?」


「今日……行けません。腰と背中が動かなくて……すみません、すみません」


少し間があったあと、事務の女性の落ち着いた声が返ってきた。


「状況を詳しく教えてください。歩けますか?熱はありますか?」


症状を説明すると、彼女は手早く段取りを整えた。


「分かりました。今から理学療法士の東野さんがそちらへ向かいます」


「お願いします……」


こんなに早く来てくれるなんて。本当にありがたい。以前「税金の無駄遣い」だなんて思った自分が本当に恥ずかしい。


ピンポーン


呼び鈴が鳴った。玄関まで這う様に行きドアを開けると、笑顔の東野さんが立っていた。


フルネームは東野優真さん、歳も同じくらいで、身長は175㎝くらい、穏やかで優しい人という感じだ。


「一条さん、こんにちは。様子を見に来ました。中に入って大丈夫ですか?」


「はい」


「一条さんの家に上がるのは初めてですね」


声はやわらかく、それだけで少しほっとした。恥ずかしさと痛みで顔を背けたくなるが、彼の視線には無理に力を入れる必要がない優しさがあった。


ベッドがある私の部屋まで一緒にいく。


「……あ、はい。お願いします」


彼は、私の部屋に入るなり少し驚いたようだった。

家そのものは古い木造住宅だが、私の部屋だけは現代風にリフォームしてある。


フランフランで揃えた家具や雑貨が並ぶその空間は、いかにも若い女性の部屋、といった雰囲気だ。


ちなみに男性を家に入れたのは初めてだった。以前の元カレは「訳あり」で部屋に上げるまでには至らなかった。


だから、最初に部屋に入れた男性が東野さんという事になる。状況はかなり特殊だが、少しだけ胸が高鳴った。


「すいません、ここは孫の部屋なんです」


「あ、やはり」


彼はすぐ納得した様子で、患部の触診を始めた。

優しく的確でなぜか安心する。


そして少しだけ、ドキドキした。


「無理をしすぎて筋がつっていますね。明らかな神経症状はなさそうですけど、安静第一です。今は無理に動かそうとせず、まずは姿勢保持と冷却を。温めるよりは冷やす方がいいです」


バッグから保冷剤やテーピング、体位支持用のクッションを取り出し、手際よく処置をしてくれると、痛みが少し和らいだ。


「ご自宅でのセルフケアをお教えします。短い関節可動域訓練と、痛みの出ない範囲での呼吸法。痛みがぶり返すようなら外来を受診して頂くことになるかと思います。その時は一緒にいきましょう」


淡々とした言葉なのに、説明は丁寧で、患者の気持ちに寄り添う温かさがある。


「ありがとうございます……本当に助かりました」


「いいえ。一条さん、最近何かありましたか? 皆ともあまりお喋りもせず、思い詰めた様子でリハビリに励んでいましたから…」


身体の入れ替わりの事など、口が裂けても言えない。


「いえ、いえ、何も……ただ急に、このまま悪化して車椅子生活になってしまうのではないか、と急に不安になってしまって…」


私はとっさに取り繕った。


「大丈夫です。またゆっくり一緒にリハビリを頑張りましょう。僕はいつでも一条さんの味方ですからね!」


満面の笑顔で言ったその言葉は、社交辞令なんかではない優しさにあふれていた。


「それにしても、お孫さんの部屋、すごく女子的ですね。なんかいい香りがするし。こういう部屋に入るとちょっとドキドキしますよ。ははは」


「ありがとうございます。孫に言っておきます」


グレーと黒を基調とし、差し色にくすんだピンクを使ったこだわりの部屋だ。大体のものはフランフランで揃えた。


それから、彼はシルバーのフォトフレームに目を向けた。そこに収められているのは私のローバー・ミニと格好つけてモデル風のポーズをとっている私のモノクロ写真だった。


普通は自分だけが写っている写真を自室には飾らないだろう。


しかも、モノクロ写真なんて…。


そう、私はかなりのナルシストなのだ。


「こちらがお孫さんですか?」


「はい」


「かっこいいですね、と言うかすごく綺麗だ…」


「…そうですかね?」


「ええ」


嬉しいけれど、口下手な私は何と返せばいいかわからなかった。


「まずは安静に。お大事になさってください。明日また伺います」


優しい笑顔で東野さんはそう告げると玄関を開け、次の仕事へと向かった。


その背中を見送ると、なぜか途端に寂しさが襲った。


こんな気持ちは久しぶりだ。


いや、初めてかもしれない。


元カレの時の会えない時に焦がれる様な感覚とは全く違う。


なんと言うか…考えたが、上手く言語化ができなかった。


ドアを閉め、部屋に戻ると私は枕に顔を埋めてしばらくじっとしていた。痛みは残るが、さっきよりはに気持ちだけは明らかに軽くなっていた。


「また伺います」


東野さんの言葉が、静かに胸の奥で響いていた。

     

        * * *       


夕方、ピンポンが鳴ったので、再び這うように玄関へ向かうと、そこに立っていたのは東野さんだった。思わず胸が高鳴る。


「近くに寄ったから、つい来ちゃいました」


穏やかな笑顔で言うその声に、胸の奥がじんわり温まる。


もちろん、おばあちゃんの身体の私に対して、下心なんてあるはずはない。


これは――業務外、100%純粋な善意の訪問だ。


すごい!こんな優しい人いるんだ…。


私はいたく感動した。


この人は天使だ。


あれ?天使って男なんだっけ?女だっけ?


ふと、そんな疑問が浮かんだ。


手にぶら下げていたのは小さな白い紙袋。


中から見えるのはケーキの箱だ。


「これ食べれば元気出るかなって思って」


東野さんは袋を少し上げて微笑んだ。


「ありがとうございます」


動くのが辛いので、私の指示で台所からお皿とフォークを出してくれる。


せっかくだから、ティーカップに紅茶も入れてもらった。


食べるのは私の部屋だ。


箱を開けると、赤や紫のベリーが宝石のように散りばめられたタルトが現れた。


「……可愛い」


思わず声に出てしまった。


その瞬間、東野さん視線と目が合い、私は慌てて咳払いをした。


「えっと……お気遣いありがとうございます。お金は後で払いますから」


「いえいえ、僕が勝手に買ってきたんですからいいですよ」


「いやだめですよ、今出しますからね」


「いいって言っているじゃないですか」


「……ありがとうございます……」


これ以上の問答は不毛だ。ありがたくいただくことにした。


「一条さん、なんか喋り方変わりましたよね?もっと砕けた感じの話し方でしたよね?」


「ああ、そうよね…」


指摘され慌てて話し方を変えた。


“おつむ”の方まで心配されてしまった様でかなり焦る。


自宅まで来て頂いて、タメ口で話すなんて私にはできない。


おばあちゃんにとっては自然な事なのだろうが…。


思わず考え込んでしまった。


「一条さん、そろそろ食べましょうか?」


「あっ、はい、いただきます」


また敬語になってしまった。


う〜ん、難しい…。


「美味しいよ!」


やっぱりなんか変だ。


違和感がすごい。


やっぱり敬語に戻そう。


まだその方がマシだ。


「よかったです」


そう言うと、東野さんも満足そうに微笑んだ。


アールグレイの香りが部屋に立ち込め、2人の間に穏やかな沈黙が流れる。


「ところでなぜ、お孫さんの部屋で過ごしているのですか?」


「えっと…それは……」


いきなりの質問に答えに詰まる。


「ははは…無理に答えなくていいですよ」


「ふふっ…この部屋が好きなんですよ。なんか若返った気がするでしょ?孫がいない時は『自由に使っていいよ』って言うものですから」


「ああ…なるほど」


何となく納得してもらえた感じだ。


「確かに、この部屋で過ごしていると、何か若いエネルギーが湧いてくる気がしますね。普段からこの部屋でお過ごしなんですか?」


「ええ…孫がいない時だけですけどね」


「すごくいいと思います」


「電子ピアノありますけど…どちらが?」


「えっと…両方です。私も結構弾けますよ」


「それは初耳でした。一条さんピアノ弾けるのですね」


やばい。口が滑った。身体を戻した時に辻褄が合わなくなる。


「僕はピアノ弾く事はできないですけど、聴くのは大好きなんです。身体が良くなったら是非何か聞かせてください」


「ええ、よくなったら是非…」


おばあちゃんの身体でも、指の動きは鈍いがピアノは弾く事ができる。


まあ、この際いいか…。


早く良くなって、東野さんに何か聴かせたい。


そんな気持ちがふつふつと湧き上がってきた。


食べ終わると、東野さんはお皿やカップを洗ってくれた。


それからしばらく、世間話をして東野さんは帰って言った。


それと入れ替わりで、おばあちゃんが帰ってきた。


手にはケーキが入った袋をぶら下げて。


「凛大好きでしょ?」


「…まあね…」


朝あんな態度をとってしまったので、さすがに食べない訳にいかない。


こうして、私はまたケーキを食べる事になってしまった。


自分の身体ならいざしれず、おばあちゃんの身体でケーキ2個はきつい。


その後、胸焼けして、気持ち悪くなってしまった事は言うまでもないだろう。





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