初出勤 絹代目線
グラン・カールトン・夕霧で、私は客室清掃を任されることになった。
てっきり、どこかの作業着のような制服が支給されるのだろうと思っていたが、それは勘違いだった。
スタッフ専用のバックヤードに案内されると、まずは更衣室へ通された。
白いロッカーがずらりと並ぶ空間は、ホテルらしい上品な香りが漂っている。鏡の前には、清潔なコームやリネンのタオルまで用意されていた。
制服のグレーのシャツは、襟と袖だけが白く縁取られたデザイン。スカートも同じくグレーで、腰から下には清潔な白いエプロンがかかっている。
足元には、黒光りした新品の革靴…ブランドには疎いがおそらく、かなり高価なものなのだろう。
鏡に映る凛の身体の私は、それを完璧に着こなしていた。私、本来の身体だったら、この制服は全く似合わなかっただろう。
「最初は私とペアでお部屋に入っていただきますね」
穏やかな声でそう説明してくれたのは、教育係の先輩スタッフ江藤さんだった。40歳くらいの優しそうな女性だ。
「丁寧さが第一ですから、焦らずに。重要なのは前の宿泊者様の痕跡を完全に消すことですからね。失敗は絶対に許されませんよ」
「はい!わかりました」
「頑張ってね!」
「はい、頑張ります!」
「一条さん、すごい綺麗ね」
「ありがとうございます」
こんな感じで、凛はしょっちゅう褒めらていたのだろうか?
仕事をするのは25年ぶりだ。覚える事は多そうだが、楽しみでしょうがない。こんな素晴らしい環境と身体で働けるなんて、本当に幸せだ。思わず笑みがこぼれる。
「なんか楽しそうね?」
「はい!」
江藤さんは、ルームリストのボードを手に取りながら私に微笑んだ。
「じゃあ、今日はいくつかのお部屋を一緒に回りましょう。最初は“ターンダウン”のお部屋からね」
「はい!」
廊下に出ると、昼の光を取り込んだふかふかのカーペットの上に、足音がふわりと吸い込まれていった。
スーツケースを転がすお客様と挨拶するたびに、自分の顔に視線が注がれるのを感じる。中身はおばあちゃんなのだと思うと、少しだけ可笑しくなった。
江藤さんがカードキーを差し込むと、扉が開く。
シンプルだけど、全てのものが上質だと一目見てわかる。ホコリひとつ無いその部屋は、今まで誰も使用した者がいないのかと思うほど、清潔感で溢れていた。
洗面所の大きな鏡は一点の曇りもないほど磨かれている。ミニバーやアメニティの置き方も、まさに完全無欠、1ミリのズレも許されないと一目見て感じた。
「うわぁ〜」
思わず感嘆の息をもらす。
江藤さんがボタンを押してスクリーンを開けた。この部屋にはバルコニーまで備えられ、夕霧城が間近に眺めることができる。遠くの山々の稜線も美しい。
「わあ!すごい眺めですね。綺麗…」
「本当ねよね。キャッスルビューのこの客室、お値段もすごく高いのよ。私達が10日働いてようやく泊まれるくらいよ」
「10日ですか、はぁ〜」
「はははっ!いいリアクションね。ここは、連泊のお客様のお部屋です。ベッドは軽く整えるだけ。タオルやアメニティを補充して、あとは細かい汚れを見逃さないようにね」
江藤さんの所作はゆったりしているのに、無駄がない。私はワゴンから新しいタオルを取り出し、ベッドの角を正しく折り込みながら、ひとつひとつの動きを頭に刻みつけた。
「一条さん、呑み込みが早いわね」
「いえ、江藤さんの説明がとても丁寧だからです!」
「そうかしら?」
それにしても――タオルを置く角度、枕のライン、グラスの位置まで完璧だ。“誰かが確かにここにいた”という痕跡を、丁寧に消していく作業は、まるで小さな魔法のようだった。
清掃のため、バルコニーに出るとお城の迫力に圧倒されてしまった。いつも下から眺めるだけのお城を、少し上から眺めると、まるでお城と対等か、もしくはそれ以上に感じてしまうから、不思議なものだ。
「業務だけど、この眺めを味わえるのがこの仕事の醍醐味の1つね」
江藤さんはバルコニーのソファに腰掛けながら、そう呟いた。
私も勧められ「いいのかな?」と思いつつも一緒に座ってしまった。
バルコニーから見える夕霧城の天守は、午後の光を受けて純白に輝いていた。
風が頬をなでるたび、前髪がさらりと揺れる。
なんて贅沢な景色だろう。
ここに座っていると、自分が誰か別の人間になったような気がする…。
そう思った3秒後に、実際に私はすでに“別の人間”になっている事に気がついた。
「この景色が毎日見られるなんて楽しみです」
思わず口から漏れた言葉に、江藤さんがにっこりと笑った。
「その気持ちを忘れないでね。一条さんなら、きっと一人前になれると思うわ」
「ありがとうございます」
胸の奥がじんわりと熱くなった。
25年ぶりに働く喜び。
凛の身体だからこそ与えられた新しいチャンス。
私は拳を握り締めながら、心の中で強く誓った。
絶対にこの仕事を一人前にこなせるようになってみせる。
そして、ここで過ごす1年を、私にとっても凛にとっても、最高のものにしてみせるのだ。




