1年間 凛目線
去年間違えた別れ道に差し掛かると、緊張で胸が高鳴ってきた。
思わず音楽も消す。
深呼吸して息を整えると、それに呼応するかの様に、登り坂に差し掛かったミニのエンジンも低く唸りをあげた。
時刻は17時を少し過ぎていたが、まだ空には淡い光が残っている。
あと数百メートル。
この坂を登りきれば———きっと、見える。
あと、少し。
登りきった。
……けれど、そこには何もなかった。
「あれ……? ……ない……」
———沈黙。
「もうちょっと先じゃない?」
「…………」
「凛?」
「…うん、そうかも…」
心臓がバクバクと大きな音で鳴る。
指先が震えて、ハンドルを握る手に力が入らない。
少し走るともう1度坂があり、震えるつま先でアクセルを踏み込む。
「今度こそ……どうか、神様。あってください…」
私は普段からおばあちゃんと同じく、神様は信じないタチだ。
けれどこの時ばかりは、すがらずにはいられなかった。
息を呑みむ。
オレンジと紺色の空のグラデーション。
坂の頂上を越える。
そして……。
「あった!!!!!」
どうやら先程は手前の坂と、勘違いしていただけの様だ。
間違いなくこの風景、このロケーションだ。
暮れゆく星空を背に、尖塔をもつ石造りの建物が静かに佇んでいた。
屋根には小さなドーマー窓がいくつも並び、まるでおとぎ話に出てくる小さなお城のよう。
塀には建物と同じ石材で作られたプレートが埋め込まれ、その上には「星屑のホテル」という文字が、淡い光を受けて静かに浮かび上がっていた。
去年と同じだ。
ハンドルを握る手が震える。
涙で視界が滲む。
おばあちゃんは特に泣いてはいない。
「当然あるよね?」――そんな顔だった。
この違いはいったい何なのだろう……。
私は本当に心配性で、そして泣き虫だ。
もう28歳なのに。
駐車場にバックで入れる。重ステのハンドルが、老体には少々こたえる。
他にも5〜6台の車が止まっていた。
ふと見ると、すべて見事なクラシックカーだった。従業員の車なのか、他の宿泊者達の車なのかはわからなかったが、従業員の車だったら、雰囲気を壊さない様に?
宿泊者の車だったら、クラシックカー仲間なのかもしれない。
私はゆっくりと車を降り、重い木の扉を押し開けた。
シャンデリアの灯りが淡く揺れる小さなロビー。
紺色のふかふかした絨毯の上には、アンティークの肘掛け椅子が並び、奥のカウンターにはあの老紳士のコンシェルジュが立っていた。
まるで昨日のことのように、記憶が鮮やかに蘇る。
けれど、あれからもう1年が経ったのだ。
スーツケースから丁寧に封筒を取り出し、予約票を差し出す。
「こんばんは、予約していた一条と申します」
「一条絹代様、凛様お待ちしておりました。1年間いかがでしたか?」
辛いことの方が多かったけれど、それでも、この1年は確かに、私を変えた時間だった。
もう28歳。少し“大人”になれた気がする。
「私は、最高の1年間でしたよ。まるで夢のようでした」
おばあちゃんはそう答えた。
「それは……よかったです」
コンシェルジュは静かに微笑んだ。
その目には、どこか“すべてを知っている人”のような優しさが宿っていた。
カードで支払いを終えて、前回と同じように、私は宿泊約款にサインする。
けれど今回は目を皿のようにして、文字の1つひとつを追った。
そこには、確かにこう記されていた。
「2人の身体が、再び入れ替わります。」
その下には、もう一文。
「尚、本予約をもちまして、お客様の当館でのご宿泊は最終とさせていただきます。」
手が震えた。
インクが紙に滲み、サインの線がわずかに歪む。
つまり、これが最後。
このホテルに泊まることも、身体の入れ替えを経験することも、もう2度とないということだ。
コンシェルジュはスーツケースを手に取ると、部屋に案内してくれた。
以前と同じ部屋だ。
深い藍色の絨毯。
クラシカルな装飾が施されたアンティークの家具。
壁にはゴッホの《星月夜》。
やわらかなシャンデリアの光が、淡く部屋を包み込む。
すべてが1年前と変わらない。
ただひとつ違うのは、あのとき、私の身体は“凛”で、おばあちゃんは“絹代”だったということだけ。
時の流れが、円を描く惑星のように、私たちを再び星屑のホテルへと導いたのだ。
なるほど……「1年後の予約」と言うのは太陽を1周する地球と同じサイクルだったと言う事か。
「夕食は19時から、ロビー横のレストラン『アンドロメダ』でご用意しております。あと1時間ほどでございますので、それまで時間、ごゆっくりおくつろぎくださいませ」
老紳士は、あの日と同じ口調でそう言い残し、静かにドアを閉めた。
部屋の中に残ったのは、山の中らしい“完全なる静寂”。
しかし、窓を開けると秋らしい虫達のオーケストラがかすかに聞こえてくる。
「リーン リーン リーン」と言うスズムシ声が「凛 凛 凛」と私を呼んでいる様で思わず笑顔になる。
窓の外では、黄昏に包まれたイングリッシュガーデンが、1日の終わりを静かに受け止めている。
ランタンの灯りがひとつ、またひとつと灯され、
その上には、先程より増えた星が瞬いている。
私たちは並んで椅子に腰を下ろし、
言葉少なに、その光景を眺めていた。
何かを語るよりも、ただ同じ空気を吸い、
同じ夜を感じていたかった。
19時になると、私たちはレストラン「アンドロメダ」へ向かった。
平日の夜だからか、客は私達だけだった。
とすると、あのクラシックカーたちは、やはり従業員たちのものなのだろう。本当にこだわりの強いホテルだ。
レストランのテーブルは、シルクのテーブルクロスのがひかれ、その上にキャンドルの炎が揺らめいている。
こう言うのすごくいいな…。
私も家で夕食時にやってみようと思った。
料理はフレンチのフルコースだった。
私はコース料理を食べ慣れている方ではなかったけど、おばあちゃんは、どこか落ち着いた様子でフォークとナイフを優雅に扱っていた。
きっと、颯太さんとのデートで何度もこういう場所を訪れていたのだろう。
私はそんなおばあちゃんを横目で見ながら、胸の奥に小さな誇らしさを感じた。
料理はすべて絶品だった。
メインの牛のソテーには赤ワインのソースが添えられ、口に運ぶたびに笑顔になった。
食後のデザートは、小さな星形のクッキーが添えられたレアチーズケーキ。
まるで“星屑のホテル”という名前そのもののようで、私たちは顔を見合わせ、同時に微笑んだ。
「おばあちゃん、おいしいね」
「うん」
感傷的になっている為か、私たちは言葉少なめだ。
いつものおばあちゃんなら、本当によく喋るのに。
私たちは、食後のコーヒーを静かに飲み干した。
その苦味が、かすかな酸味と甘味とともに、しばらく鼻の奥に残った。
部屋に戻ると、歯を磨き、お風呂に入った。
湯上がりの肌に、窓を開けると冷たくて心地いい風が入ってきた。
私もおばあちゃんも、それぞれ本を開いた。
私は最近、優真くんと小説を書くようになってから、“読むこと”も新しい楽しみになった。
以前は完全にゲーム派だったけど….
電子書籍も便利だけど、やっぱり紙は読後感が違う気がする。電子書籍は内容だけが頭に残るのに対し、紙の本は“手触り”や“重み”までも記憶に残る気がするからだ。
ページを閉じたあと、指先に残る感覚やインクの匂いが、物語の余韻になるのはやはり紙の小説だろう。
私は恋愛小説派だけど、おばあちゃんは相変わらずエッセイ派。お互いのページをめくる音が心地よい。
22時になり窓の外はすっかり星の世界に変わっていた。
遠くでフクロウの声がして、まるでこのホテル全体が深呼吸をしているみたいだった。
この部屋にいると、“もし身体が入れ替わらなかったら”なんて野暮な考えは浮かばない。
不思議と、この場所には“信じられる空気”があるのだ。
さて、そろそろ寝る時間だ。
「おやすみ、おばあちゃん、電気消すよ」
「うん、おやすみ、凛」
ナイトランプが「カチッ」と音を立てて消えた。
そっと瞼をとじると、静かに1年間の回想を始めた。
起きたらおばあちゃんになっていた朝。
仕事を辞めなきゃいけなかったこと。
独自で考案したメニューでリハビリを頑張りすぎて、動けなくなったこと。
優真君との出会い。私の部屋でのティータイム。
ピアノのレッスン、小説を書き始めた日々。
ピアノのおかげでひまわりに溶け込めたこと。
おばあちゃんが私の為に、颯太さんと付きあいだしたと聞いた日。
颯太さんのタワーマンションに行ったこと。
知らないうちに優真君を好きになっていたこと。
優真の双子の既婚のお兄さんを優真君と勘違いしたこと。
星屑のホテルの予約票を破り捨てたこと。
鬱病になり、本気で死を考えた夜。
それがコピーだったと知った時の安堵。
もう一度、東京に出向き、颯太さんとおばあちゃんに別れを迫ったこと。
別れ話が円満に進んだ上、私の就職先まで決まったこと。
仮想現実の可能性に怯えた夜。
そして、最高に楽しかった今日。
思い出は尽きない——
気がつくと頬に涙が伝っていた。
多分、おばあちゃんも、泣いているのではないかな?
そんな気がした。
やがて、意識は静寂と闇に溶けていった。
星屑のホテルの夜は、静かに、優しく、私たちを包みこんでいた。




