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鬱病 凛目線

梅雨も明け、日本の長くて暑い夏が到来した。


ちょっと外に出るのだけでも億劫になる程だ。


予約票を破り捨てたことは、おばあちゃんには言っていない。


言えるわけがなかった。


これから私は、“一条絹代”として生きていく。


そう決めたのは自分なのだ。


もう後戻りはできない。


それにしても、どうしてこんなことになってしまったのだろう?


私は自分の性格が好きではなかった。


プライドが高く、すました顔をしているくせに、内面はウジウジしていてる。


私が他人だったら、こんな人間とは絶対に友達になりたくない。


それでも、自分の顔や身体は気に入っていた。


それを失うということが、こんなにも苦しいなんて思ってもみなかった。


あれ以来「完全に慣れた」と思っていたこの身体も、鏡を見ると、なぜが吐き気がしてくる。


この先の人生がそんなに長くない事だけが、せめてもの救いだと感じてしまう。


自分の身体が本当に恋しくてたまらない。


せっかく颯太さんや優真くんに出会えたのに、どちらの恋も、まるで幻のように指の間からこぼれ落ちていった。


元カレと付き合い出したのは8年前の19歳、大学1生の頃。


人生初の彼氏だった。


彼との出会いは大学のプログラミングサークルの飲み会だった。彼はサークルの協賛スポンサー企業の担当者だった。


真面目で優秀な学生が多いサークルでは、人材発掘や採用パイプの構築を目的に、企業がスポンサーとして関わることも珍しくない。


彼は、外資系企業で働く31歳のエリートサラリーマン。背が高く、端正な顔立ち。落ち着いた物腰と、知的な笑顔が印象的だった。


連絡先を聞かれ、何度か食事へ行く度、彼の方から猛烈にアプローチしてきた。


歳が離れていて不安だったので、数日考えてから、OKの返事を出した。


当時の私は、将来への不安と焦りの中で、“ちゃんとした大人”に惹かれていたのかもしれない。


彼の話す仕事のこと、海外出張の話、知らない世界の話を聞くだけで、胸が高鳴った。


しかし、会うのは、いつも平日の夜だけ。

待ち合わせは、洒落たレストラン。


ディナーのあとにはホテルで愛し合った。


誕生日にはブランドのバッグや香水をプレゼントしてくれた。スマートで、よく笑って、私の話を静かに聞いてくれるその姿に、“本物の恋”だと信じて疑わなかった。


ある日、思い切って問い詰めた。


「どうして休日は1度も会ってくれないの?」


彼は一瞬だけ目を伏せてから、あっけないほど素直に言った。


「……妻も、子どももいるんだ」


わかっていたけど、頭が真っ白になった。


彼は続けた。


「でも、もう関係は冷え切ってる。いつか別れるつもりだ。信じて待っていてほしい」


その言葉を、私は信じた。信じたかった。


その後も、食事をし、ホテルに行くだけのデートは続いた。


彼の仕事帰りのスーツ姿はいつでもかっこよく、ウッディ系の香水のいい匂いがした。


そして優しく、スマートだった。どんな話をしても穏やかに笑い、私の未熟さを受け止めてくれた。


私達はベッドで本気で愛し合った。


他人から見たら“遊ばれているだけ”だった、と思われるだろう。


でも、彼の目も態度もいつだって誠実で本気だったのだ。


そんな関係が、気づけば3年近くも続いていた。


しかし、ある日何の前触れもなく「もう終わりにしよう」とだけ告げられ、それきり連絡が途絶えた。


悔しさと、どうしようもない喪失感で、私は彼の会社の前で出待ちした。


外資系のその会社の警備はとても厳しく、外で待つのも酷く緊張した。エントランスで私を見つけた彼は、驚いた顔をしたあと、警備員に何かを伝えた。


それでも怯まずに待っていると数分後、パトカーが来て私は警察に連行された。


まるで、犯罪者のように———。


警察官も小娘の言う事なんかより外資系エリートの言うことを信じたのだろう。


「会社にも彼にも2度と近づかない様に」と強く言われ、その日は釈放された。


完全にストーカー扱いだった。


“遊ばれて捨てられた”と思えた方がよっぽど楽だっただろう。


しかし、彼のことを悪く思いたくなかった。


私達の愛が本気だったと信じていたから。


けれど、彼はそれを“なかったこと”にして去っていった。


私はいまだに、あの日のあの場所に取り残されて立ち尽くしているのかも知れない。


その恋は、知らぬ間に私の男性に対する価値観をいびつなまでにゆがめてしまったからだ。。


恋人は背が高く、イケメンでおしゃれで仕事ができて高年収の“ハイスペックな男性じゃないと満足できない”そう強く思い込むようになってしまったのだ。


そのくらい彼の事が好きだったのだろう。


けれど同時に、その様な男性に惹かれる自分が怖くてたまらなかった。


これが颯太さんを拒絶してしまった原因の1つかもしれない。


颯太さんは元彼とは桁違いな程ステータスもあり、紳士で優しかった。


その振り幅が大きいほど、恐怖心も大きくなっていたのだろう。


元カレの事も颯太さんの事も優真君の事も、思い出すと息が苦しくなる。


私の精神は蝕まれズタボロだった。


もう何もやる気がしない。


ピアノのレッスンも小説を書くことも、「ひまわり」に行く事もできなかった。


病院に行ったら判で押したように、鬱病と診断され、薬を処方された。



         * * *



1ヶ月以上薬を飲み続けたが、全く効かなかった。


薬を変えても無駄だった。


根本的な原因を解決しない事には、症状はよくはならないと言う事なのだろう。


もう何をしても全く楽しくない。


全てのものがフィルターがかかった様に暗く見える。


こうなると、お風呂に入る事さえ億劫になり、入る頻度も減った。


そんな、私にも優真君は繰り返し訪問してくれた。


ケーキを持ってきて、部屋では私が作曲したピアノを静かに弾いてくれた。


小説も読ませてくれた。


嬉しくて、涙を堪えるのに苦労した。


こんな“ババア”になんて優しいのだろうか?


でも、今はその優しさがとても辛かった。


この身体では寄り添って甘える事なんて絶対にできないから…。


つらい、つらい、本当につらい。


つらすぎる…もう死にたい…。

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