ビリビリ 凛目線
こちらに帰ってきてからも、自室でのピアノのレッスンは、穏やかな空気に包まれていた。
優真くんは決まって授業料の代わりに、小さなケーキの箱を手にやって来る。
そして、レッスンの合間に、私たちはそれを紅茶と一緒に楽しむのが習慣になっていた。
優真君は、私の作曲した曲を一生懸命に練習してくれている。その姿を見ているだけでも胸があたたかくなるのに、私がネットで連載を始めた恋愛小説まで、毎回楽しみに読んでくれて、しっかり感想をくれるのだ。
ネットでは読んでくれる人は多少いても、感想をくれる人は誰もいなかったのだ。
最近では、私の写真をよく見ているのも嬉しいポイントだ。シルバーの縁に入れてある、写真を眺めては「お孫さん綺麗だよなぁ」と1人ごとの様につぶやいているのだ。
もう完全に“脈あり”だろう。
身体が戻ったら優真君を“落とす”自信はある。
優真君には孫の凛はしばらく東京に行っていると伝えているが、当然はおばあちゃんと颯太さんの事など言っていない。身体が戻った時の為だ。
私にはもう、これからのプランは決まっていた。
まず、おばあちゃんに正直に気持ちを打ち明け、颯太さんと別れてもらうのだ。
はっきり言ってこれは死ぬほど、辛い作業だけど…。
全財産を差し出すから誰かにやってほしいくらい、と言ったら伝わるだろうか?
おばあちゃんは本気で颯太さんの事が好きで、颯太さんも同じ気持ちだ。
そこに、いきなり「別れてください」などと言ったらどうなるのだろう?
正直想像もつかない。
でも、この前颯太さんの会ってから、恋愛感情のない人とは絶対に一緒になれないと言う、当たり前過ぎる事に気がついたのだ。
* * *
そんな矢先に事件は起こった。
私が近所のスーパーで買い物を終えてミニに乗り込んで一息ついていると、優真君が前を通ったのだ。
キャップを目深にかぶった奥さんと3歳くらいのかわいらしい女の子を連れて。
幸せそうな笑みを浮かべながら…。
完全に時間が止まった。
私は盛大に勘違いをしていたのだ。
「彼女はいるの?」
「えっ…彼女なんて…」
あのやり取りは「妻子がいるのに、彼女なんて…」と言う意味だったのだ。
おしゃべりが好きな、おばあちゃんは間違いなく、優真君の妻子持ちだった事は知っていたに違いない。
だから優真君もあえて言わなかったのだ。
ショックで言葉が出なかった。
こうして私が描いていたプランは音を立てて崩れていった。
自室に帰り、気がついたら泣いていた。
これからどうしよう…。
颯太さんとの関係を引き継いでも、上手くいくはずがない事はわかっていた。
なので、いずれにしろ、おばあちゃんと颯太さんを別れさせなきゃいけない。
それが死ぬほど辛い。
その時に———恐ろしい考えが頭をよぎった。
私がこのまま、おばあちゃんのままなら、全てが問題なく進むのではないか?
おばあちゃんは私の身体で、颯太さんとずっと一緒に過ごす事ができる。
結婚して子供を産む事だってできるだろう。
私も今まで通り、優真君にピアノを教えてたり、一緒にケーキを食べたり、小説を書いたり、見せ合ったりを続ける事も可能なのだ。
もし、私がおばあちゃんに「その様にしよう」なんて言ったら反対されるのは目に見えていた。
いつだって私の事を、1番に考えてくれるおばあちゃんなのだから…。
私はおばあちゃんの、箪笥の引き出しを開け、クリアファイルに入っている予約票を手に取った。
気が変わらないうちに思い切ってやってしまおう…。
ご宿泊予約票
ご宿泊者名 一条絹代様 凛様
ご宿泊日:2025年9月22日(月)~2025年9月23日(火)
ご宿泊施設:星屑のホテル
ジュニアスイート
朝食、夕食プラン
ご注意事項
本予約票は、ご宿泊当日に必ずご提示ください。
本予約票を紛失された場合、予約は無効となります。
尚、本予約をもちまして、お客様の当館でのご宿泊は最終とさせていただきます。
再発行はいたしかねますので、大切に保管してください。
本予約票の譲渡・転売は禁止されております。
チェックインは15時以降、チェックアウトは12時までにお願いいたします。
発行日:2024年9月22日
発行元:星屑のホテル
予約票は再発行もできないし、予約も今後2度と出来ないと言う事だ。
眺めていた予約票が、大粒の涙で濡れる。
2人を引き離すのと言う選択肢が辛すぎるから…。
だから、このままでいい…。
許して…おばあちゃん。
そして幸せになってね。
おばあちゃん、颯太さん。
さよなら…そしてありがとう、私の身体。
そう言い終わると私は予約票をビリビリに破り捨てた。




