普通の仕事 凛目線
自宅に帰り、自室で自分の荷物を片付けると、服類は自分とおばあちゃんの物は全て交換しなきゃいけない事に気がついた
本来の私の身長170㎝と160㎝に満たないおばあちゃんでは服のサイズも違う。
軽く引っ越しをしていると、当たり前の事に気がついた。
…趣味が全然違う…。
ババシャツはもちろんのこと、なんでみんな歳を取ると、判を押した様に変な服を着るのだろうか?
謎の模様のチュニックとか…。
最後の服をタンスにしまうと、どっと疲れがでてベッドで横になった。おばあちゃんの身体はすぐに疲れてしまうのだ。
オーディオでバッハの無伴奏チェロ組曲をかけると仕事の事に考えを巡らせた。
私はプログラマーとして、250万人都市、夕霧市のセキュリティの厳しいビルで働いている。社員証がなければフロアにも入れないし、本人確認の顔認証ゲートもある。
おばあちゃんの姿では、出社することさえできないのだ。
もう、仕事は……やめるしかないのかもしれない。
今まで何度も「辞めたい」と思った事はあった。
納期、クライアント、チーム内のギスギスした雰囲気。何をしても“もっと上”を求められ、心がすり減る毎日。そして、孤立気味ではいつも1人で食べていたランチ。
しかし、退職を実行に移すまでは至らなかった。
こんなふうに、何の準備もなく、突然すべてを失うなんて…。
涙がこぼれそうになるにを必死でこらえる。
泣いたところで、どうなるわけでもない。
明日が来るのは、止められないのだから。
おばあちゃんは私の事を心配して寄り添ってくれるが、今は正直鬱陶しいだけだ。仕事の心配なんてしなくていいし、若い私の身体で、毎日好きなことをしていればいいだけなのだから。本当に気楽なものだ。この不公平感はなんなのだろうか?
そう考えた途端、再び胸の奥からじわじわと怒りが湧いてきた。
とにかく、明日の月曜日の朝になったら、おばあちゃんに会社へ電話してもらうしかない。
「体調不良で、しばらくすら出社できない」と伝えてもらうのだ。声が違うせいで、私は自分で電話すらできないのだから。
* * *
次の日の朝、おばあちゃんに電話をしてもらった。
「腰が痛くて起き上がれない、と言えばいいのね?」
おばあちゃんは、私、凛の声で落ち着いた調子のままそ短く状況を伝えてくれた。
ボロが出ないように、とにかく簡潔に。
幸い、腰が痛いというのは本当のことだから、完全な嘘ではない。
全然“幸い”ではないけど。
とりあえず、今日は休むことができた。
けれど明日も同じように嘘をつかなくてはいけない。そして辞めなければならないのだと思うと、本当に心が痛み、憂鬱になった。
「休職」という手も頭をよぎったが、現実的ではない。医師の診断書を取り寄せたり、会社に足を運んで煩雑な手続きや仕事の引き継ぎをしたり…。
そんなことをおばあちゃんに任せるわけにはいかないのだ。
そして今日はデイサービスの日だった。
おばあちゃんはまだ78歳だが、足腰が弱ってきていて、週に2回――月曜と木曜にリハビリ目的で通っていた。
けれど今朝の私は、そんな気分にはとてもなれなかった。身体の重さだけじゃない。心までずしりと沈んでいたのだ。
送迎のワゴン車が来る時間が近づく。
テーブルの上の受話器を見つめたまま、しばらく迷った末、私は受話器を取り上げた。
「……今日は風邪をひいて……みんなにうつしたら悪いからお休みさせていただきますね」
おばあちゃんの柔らかい喋り方を、できる限り真似しつつ、風邪も引いたふりして断りの電話を入れた。
西洋のおばあちゃんの言葉を、日本語で吹き替えした様な不自然な話し方になってしまった。
それにしても、なんでこんな事をしなければならないのだろう……。
今日はデイサービスをサボった。けれど、1年後には、この身体をおばあちゃんに返さなければならない。リハビリをサボって、前より悪い状態にしてしまうわけにはいかない。
むしろ、今より元気な身体にして返したい……そんな思いが、胸の奥に小さく灯った。
気を取り直してとりあえず、当面の目標を3立てた。
・仕事をきちんとやめる事。
・リハビリを頑張る事。
・おばあちゃんに八つ当たりしない
その3つを心に刻んで、私は深く息を吐いた。
* * *
あれから1週間が経ち、私たちはどうにか落ち着きを取り戻していた。
仕事のことは、激しい腰痛と気分の落ち込みが長引きそうだと伝え、退職の意思を上司にメールした。
本当のことだ。
そう思うことで、必死に罪悪感を打ち消そうとしていた。
男性上司の鈴木さんは、突然の連絡に驚き、引き留められたが了承してもらえた。
同僚からも、メールや電話がきたが、声が違うので電話だけは絶対に出る訳にはいかない。
メールでは急に辞めてしまったことを必死に詫び、引き継ぎもリモートできちんと対応した。
しかし5日もすると、引き継ぎは完全に終わり、メールも電話もパタリと途絶えた。
仲の良かったさっちゃんに確認すると、当初は少しバタついたが、今は問題なく回っているらしい。
迷惑をかけてしまったのは心苦しかったが、「問題なく回っている」って聞くのも非常に複雑な心境だ。
私って本当面倒くさい人間だな…。
「心身ともに不調」という理由で、送別会の話もすぐに立ち消えになった。あとは、退職の手続きをするだけだ。
こうして、5年間勤めた会社を辞めた。
あんなに必死で働いてきたのに。
私はもう必要ない。
なんてあっけない幕切れなのだろう……。
辛くて、何度も辞めてしまいたいと思ったことはあった。けれど、いざ本当に辞めてしまうと、残るのは寂しさばかりだった。
身体が元に戻ったときに、またプログラマーに復帰するのか?
今は、その未来を考える気力すらなかった。
ただ、ずっと実家住まいだったので貯金はたっぷりある。当面はお金の心配をしなくていいのが、唯一の救いだった。
一方で、おばあちゃんの方はと言うと…どうやら私に対してかなりの罪悪感を抱いているらしく、よそよそしい。
その原因は、きっと常にイライラしている私の態度のせいだろう。
こんな状況になったのは、決しておばあちゃんだけの責任じゃないのに……。
できるだけ優しく接しようと心がけてはいる。
けれど、思うように感情を抑えきれない自分がいるのも事実だった。
今は、無理に向き合おうとするより、少し距離を置いたほうがいいのかもしれない。
顔を合わせる時間を減らして、互いに落ち着くための間をつくる。それが、当面の“最適解”だと思った。
おばあちゃんの毎日は、愛猫のマリーと遊び、テレビを眺め、近所を軽く散歩するだけだった。
マリーとは5年前ウチの庭に住み着いたグレーの毛並みのメス猫だ。当時はまだ仔猫でおばあちゃんが世話をしているうちに情が湧き、飼うことになったのだ。
おばあちゃんも私の身体を使っているとはいえ、誰かと深く会話をすることもできない。違いすぎる性格のゆえ、色々と齟齬が生じるからだ。
私と違い「若い身体、しかも暇で気楽でいいな」なんて思っていたけれど、実際のおばあちゃんは、とても楽しそうには見えなかった。
本来は誰かと話す事が大好きな人なのだが、私の身体で今まで通りに、友達と喋るわけにはいかないのだ。
それを思うと、胸の奥に急に寂しさが込み上げてきた。
マリーがひざに乗って、ゴロゴロと喉を鳴らしている。その温かさに、少しだけ勇気をもらって、私はおばあちゃんに向き合った。
「ねぇ、おばあちゃん……このままだと、私たち2人ともダメになっちゃう」
「そうねぇ……私も、この1週間でだいぶ疲れちゃったわ」
「おばあちゃんのせいじゃないんだよ。私も、いろいろ抱え込みすぎてたから。本当にごめんね」
「いいえ。若い凛の身体になっても、私が好き勝手に動いて凛の作ってきた世界を壊す訳にいかないからね」
「気を使ってくれてありがとう。でももういいよ!
無事仕事辞めたし。私の作ってきた世界なんて大した事ないから、好きに動いて」
「そうは言ってもね…」
「このまま家に閉じこもって、くだらないテレビばかり見て、日がな一日過ごすなんて私が嫌だよ!」
「ありがとうね…凛」
「それで…今は何をしたい?」
「別にないわよ」
「遠慮しないでいいよ?やりたいこと、言ってごらん?」
「じゃあ…せっかく身体が自由に動く様になったのだからね、仕事がしたいわ。社会の歯車の一員になりたいって言うか…」
「歯車になりたい!?仕事なんてしなくていいんだよ。パパもママも働いているし、おじいちゃんの遺族年金や資産もそれなりにあるでしょう?私も貯金結構あるよ?」
「だからお金じゃないのよ。デイサービスや近所の人と喋るのではなく、もう1度社会に出て働いてみたいだけなの…許されるのならね」
「……うん……素敵だと思う」
少し考えてそう思った。
「有給消化が終わり正式に退職したら、自由にしていいからね。私もリハビリ頑張るから。1年後は絶対に今より良くなって身体を返すからね」
「……凛……ありがとう。いい孫を持って私は本当に幸せだよ」
そういうとおばあちゃんは涙をこぼした。
私の身体で「いい孫を持って幸せ」って言われてもなぁ…。
「…私もいいおばあちゃんを持って幸せだよ…」
私もおばあちゃんの声でそう呟いた。
う〜ん、いまだに違和感がすごい…。




