表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

26/41

タワマン 絹代目線

ここは東京・江東区の東雲(しののめ)


運河沿いに高層ビルが立ち並ぶ湾岸の街だ。


颯太さんの部屋はその中でもひときわ高いタワーマンションの38階の南側の部屋だ。


電動カーテンを開けるたびに息をのむ。


朝の光が窓いっぱいに差し込むと、ガラス越しに見える東京湾が黄金ように輝く。


巨大なゲートブリッジとたくさんの船、羽田空港も近いので多くの飛行機も見る事ができる。


眼下にはまっすぐな片側4車線の首都高速湾岸線、国道357号線、りんかい線が並行して走る。


バルコニーに出ると海からの心地よい風が入ってくる。


風景にびっくりしたが、颯太さんが言うには、ここは全然都心ではないらしい。


オフィスまでも遠く、交通の便も悪く、周りも特に何かがあるわけではないとの事だ。


ただ、颯太さんは栃木の山あいの町の出身なので、この様な海の見える都会の風景に憧れて、ここを借りて住んでいるらしい。


飽きたら何処かに引っ越すのもいいし、ゲームに負けたら、貧乏暮らしに戻るのも悪くはないって、語っていた。


颯太さんは、この眺めに完全に溶け込んでいる。

朝、ネイビーのシャツの袖をまくり、グラスに注いだミネラルウォーターを一口。その仕草さえ、絵になる。


私はキッチンでほうじ茶を入れ、甘納豆と茎ワカメを食べていた。


本当は、コーヒーとチョコレートの方がこの部屋の雰囲気には似合うのだろう。


けれど、私の中身はおばあちゃんなのだ。


無理をして背伸びをするより、落ち着くものを選んでしまう。


颯太さんの隣に立つ以上、少しは“格好つけて”このタワーマンションに馴染まなければいけないのだろう。


けれど、彼はそんなことを全く望んでいない。

むしろ、飾らない私を好んでくれているのだ。


ただ、この暮らしには、どうしても慣れなかった。若い人なら、この高層の景色に心を躍らせるのだろう。


でも私は、見下ろす東京の街のきらめきよりも、地面の土の匂いのほうに安らぎを感じてしまう。


外に出るにもエレベーターを長く待たなければならず、颯太さんが仕事に出かけている間は、凛も、マリーもいない。近所に知り合いもいないこの場所で、私はひとり、静かな孤独に包まれていた。


だからこそ、颯太さんが帰ってくると、思いきり甘えてしまう。その甘えさえも、彼は愛おしそうに受け止めてくれる。そんな日々の中で、私たち2人は確かに“幸せ”だった。


ただ、日中の空白があまりにも長くて、スーパーの惣菜売り場でパートを始めることにした。颯太さんも笑顔で「その方がいい、働いている凛さんが好きなんです」と言ってくれた。



         * * *



2か月が経ちタワーマンションにもパートにもだいぶ慣れ、季節も5月の後半になった。


今までの家は古く、毎日掃除はしていたのだが、年寄りの部屋らしくものが多くごちゃごちゃしていた。


でも、颯太さんは生活感を出さないシンプルな生活を心がけていて、全てが整っていた。


家具の配置も、色のトーンも、まるでモデルルームのように無駄がない。テーブルの上に余計なものは置かず、壁にはアートが1枚だけ。


けれど不思議と冷たさはなく、照明の明るさや観葉植物の配置が絶妙で、心地よい静けさに包まれていた。


朝、ガラスのティーカップでほうじ茶を飲みながら、東京湾を行き交う船をぼんやりと眺めていると、「凛」という名前が、まるで本当の自分のようにしっくりくる。


前の家では、凛がいつも私を「おばあちゃん」と呼んでいたから、このの身体でも「私は絹代だ」と実感できた。


けれど、ここではそれが全くない。


颯太さんからは当然のように「凛さん」と呼ばれ、パート先でもなぜか皆が親しげに「凛ちゃん」と呼んでくれる。


その響きが心地よく、身体に馴染んでいくたびに、“おばあちゃん”“絹代さん”と呼ばれていた記憶が、霞のように遠のいていく……。


思えば、絹代としての人生は、あの人や、娘の美香にまで、軽んじられてきたような人生だった。


それに、人生で初めて本気の恋をしている。


あの人とはお見合い結婚で、最初から“好き”という感情はまるでなかった。


そのうち好きになるかも、なんて淡い期待を抱いていたが、結局幻想に終わった。


絹代として生きた何十年もの時間よりも、ここに越してからの“凛としての生活”のほうが、鮮やかに、まるで当然のことのように感じられてしまう。


もしかしたら、引っ越しとともに、心が勝手に“リセットボタン”を押してしまったのかもしれない。


颯太さんと毎日一緒に、このタワーマンションから朝日に照らされた、東京の街を見下ろしていると、私の人生も夜から、朝へと塗り替えられていく様に感じていたのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ