解雇 絹代目線
まさに晴天の霹靂だった。
忙しい颯太さんとのデート待ち合わせはグラン・カールトンのロビーでの待ち合わせが多くなってしまう。
豪奢なソファに腰を下ろし、行き交う人々を眺めながら彼を待つ。
そんな時間も、私にとって幸福の一部だった。けれどそのささやかな楽しみが、突然奪われてしまった。
フロントから「今後はご遠慮ください」とクレームが入ったのだ。
清掃員であっても、制服を着ているわけじゃない。
服装さえきちんとしていれば、ロビーを利用するのは禁止されていないはずだった。それに颯太さんはこのホテルを常宿にしているお客様だ。
納得できず、上司に理由を尋ねてみた。
すると彼は困った顔をしながら、こう言った。
「…たぶんだけどね、一条さん。フロントのお姉さんから見たら、神谷颯太さんとつきあっている一条さんの存在自体が気に入らないだよ」
胸の奥に、じわりと苦いものが広がった。
社会のルールではなく、人の感情によって追い出される。そんな理不尽さを、久しぶりに味わった気がした。
なので、待ち合わせ場所はホテル内の有料のカフェに変えざるを得なかった。コーヒー1杯2000円もする、時給をはるかに上回る高価なカフェだ。
しかし、その選択が、かえってフロントのお姉さんの逆鱗に触れてしまったらしい…。
結局、私は事実上“出禁”となり、派遣先を変えられることになった。
その知らせを颯太さんに伝えると、声を荒げて怒っていた。温厚な彼が起こるのを初めて見た。
その姿に、私は胸がじんと熱くなった。
神谷颯太さんという、貴重な常連客を失ってまでして、ホテルはいったい何をしたいのだろう?
けれど、嫉妬というものは、理屈では計れないのだ。女の嫉妬は恐ろしく理不尽で、時に人を追い出すほどの力を持つ。
颯太さんは、その話題の流れでふと口にした。
「でも、本当に怖いのは男の嫉妬の方ですよ?」
その声音には妙な重みがあった。
「女性の嫉妬は火がつきやすく感情的ですけど、実は男性の方が恐ろしいのです。1度火がつくと計画的にネットで悪評を流したり、法律の穴をついて裁判を起こしたり、徹底して社会的に抹殺してくるんです。女性は裁判までは起こしません。歴史を紐解いてみても、暗殺を企てるのは男性でしょ?」
詳しくは語らなかったけれど、颯太さん自身、そういう案件を抱えているらしいかった。今思うと、それも彼が眠れなかった要因の1つだったのだろう。
派遣会社から次に紹介されたのは「アース・夕霧ビル」。
偶然にも、以前凛が勤めていた会社が入っているビルだった。
凛に相談すると、すぐに首を横に振った。
「絶対にダメ。体調不良で辞めたのに、同じビルで清掃してたらおかしいでしょ。バレたら恥ずかしいし、それに専門的なこと話しかけられたら絶対に対応できないでしょ?」
言われてみれば、当然だ。
聞くまでもなく、即答すべき話だった。
断りを入れると「残念ながら今入れる現場はありません」とあっさり言われた。
つまり、それは「辞める」ということを意味していた。
25年ぶりに働けた職場をもう離れないといけないなんて本当に悲しかった。
……次は何の仕事をしようかしら……?
颯太さんにその事を相談すると「僕のマンションで一緒に同棲してくれませんか?」と言われた。
すごく嬉しかったが、凛に相談しなきゃいけないので少し考えさせてもらう事にした。
颯太さんとの関係を“本物”にするには、同棲という一歩は避けて通れないだろう。
その夜、私は恐る恐る凛に相談した。
彼女は少し驚いた顔をしたあと、思いがけないほどあっさりと笑った。
「すごい! いいじゃない! 私は全然大丈夫だよ。
優真君のところでリハビリ頑張ってるし、最近、足腰も調子いいの。話を進める意味でも、いいと思う」
この決断は、きっと凛自身の未来にもつながっていく。
彼女がそう言ってくれるのなら、これはきっと“前へ進むための一歩”なのだろう。
しかし、凛がひどく寂しがり屋なのを、私はよく知っている。
1人でいることが好きなくせに、本当の意味で1人になることは、誰よりも苦手な子なのだ。
これからは、お互いに寂しくなるかもしれない。
でも、それは“離れる”ための寂しさではなく、“成長する”ための痛みなのだと思いたい。
同棲する前に颯太さんが「おばあ様とご両親に直接会って挨拶したい」と言ってきた。
その真剣な口調に、胸の奥が温かくなった。
「やはり、この人は誠実だ」そう感じた。
まずはうちにきて、ある凛と、その後シンガポールへ行き、美香と直樹さんに挨拶するのだと言う。
凛も1度とは言わず、何度か颯太さんに会っておいた方がいいだろう。
未来の旦那さんになるかもしれないのだから。
もっと早い段階で会わせたかったのだが、なかなか都合がつかず、ここまできてしまった。
しかし、凛が颯太さんを気に入ってくれなかったら、全てが終わってしまう。
お互いに気に入ってくれればいいな…。




