小説 凛目線
朝、花束とプレゼントを抱えて、おばあちゃんが帰ってきた。
文字通りの“朝帰り”だ。
クリスマスを颯太さんと一緒に過ごすと聞いていたし、「身体は自由にしていいからね」と言ったのも私だ。
わかっている。
わかっているはずなのに、心は全くついていかなかった。
1人きりで過ごしたクリスマスの夜。
テレビを見ても、ケーキを食べても、ただ空虚な気持ちが胸に残った。
私史上最悪のクリスマスと言っても過言ではないだろう。
そして今、目の前で幸せそうに帰ってきたおばあちゃんの姿を見て、心の中で、言葉にならない感情が暴れ出した。
「寂しい」
「羨ましい」
「ズルい」
「気持ち悪い」
「来年は私が、おばあちゃんがこの感情を味わう」
「おばあちゃんは今の状況を楽しんでほしい」
「おばあちゃんは私のために頑張ってくれている」
「上手くいっているなら喜ぶべき」
「私はお金持ちになれる」
「なのに、なぜこんなに虚しい?」
「……東野優真君……」
感情の断片が、頭の中でグルグルと渦を巻く。
頭が変になりそう…。
こんな複雑な感情に名前なんてないだろう。
ただひとつ言えるのは、この日を境に、私はおばあちゃんに対して、再びよそよそしくなってしまったということだ。
あんなに姉妹みたいに仲良くしていたのに…。
おばあちゃんが抱えて帰ってきたのは、花束と一緒に、オレンジ色の箱に入ったエルメスの黒いバッグだった。
ブランド物なんて全く興味がないはずなのに、鏡の前に立ち、何度も肩にかけてポーズを決めるおばあちゃんは、本当に嬉しそうだった。
「似合うかしら?」
そう問いかける声に、私の胸はチクリと痛んだ。
すごく、似合っていたからだ。
おそらく、他人だったら「バックだけが浮いているね」とか心の中で毒づいていたはずだ。
私はブランド物が大好きだ。
エルメスのバッグなんて、ずっと憧れだった。
それを手にしているのは私じゃなくて、おばあちゃん。しかも“私の身体”で。
笑顔を見せるおばあちゃんの隣で、私はどうしても素直に喜んであげることができなかった。
心の奥で、小さな嫉妬がじわりと広がっていくのを止められなかった。
おばあちゃんは恋をしてから、明らかに綺麗になっていった。
肌の艶も増し、瞳は輝き、仕草まで若い女の子のように見える。
それが、私の身体だからこそ、余計に複雑なのだ。
身体を返してもらったとき、私はこんなに輝けるだろうか?
ふと、そんな疑念が胸をよぎる。
それ以前に身体を返してくれるのか?
もし取っ組み合いになったら、若くて身体の大きな“おばあちゃん”に適うわけがない。
いや、いくらなんでもそれはないか…。
颯太さんにとって魅力的なのは、“私自身”ではないだろう。“おばあちゃんの心を宿した私”なのだ。
そんな今の私は――おばあちゃんの背中を見て羨んでいるだけの存在だ。
「エルメスのバッグは凛も使っていいからね」
その何気ない言葉が、本当に癪に触った。
“こんなババア”がエルメスのバックなんて似合う訳がないと思ったからだ。
大好きなおばあちゃんに対して“こんなババア”なんて汚いワードが出てしまって自室で号泣してしまった。
おばあちゃんごめんなさい…。
本当は大好きだからね…。
* * *
次の日の朝も会話を交わせないまま、おばあちゃんは仕事に出掛けて行った。
昼過ぎに部屋でひとり、悶々としているとチャイムの音が鳴った。
ドアを開けると、優真君がいつものように柔らかな笑顔を浮かべて立っていた。
「こんにちは、今日もよろしくお願いします」
その声を聞いた瞬間、胸の奥の重たい塊がふっと和らいでいくのを感じた。
おばあちゃんや颯太さんのことを考えて、乱れていた心が、彼の穏やかな雰囲気に包まれるだけで、不思議と静けさを取り戻していく。
いつもの様にピアノレッスンの授業料はケーキだ。
今日は真っ赤ないちごのが乗ったショートケーキ、
見た目がかわいいな…。
レッスンはどうしても基礎の反復練習が多くなってしまう。
つまらなくて、やめてしまわないか心配になるけど、終始楽しそうで、安心する。
これは毎回の事だ。
最後に「もう少し頑張れば絶対に楽しくなるから、頑張ってね」と声をかける。
料理の修行を、半分放り出した自分がよく言うよな…笑…。
思わず苦笑する。
ピアノのレッスンが静かに終わると、彼はクリアファイルから数枚の書類を取り出し、少し照れた様子で私に差し出した。
今日は優真君の小説を読ませてもらう事になっていたのだ。
「これ……差し上げます。ショートショートなので今読んで感想をいただけると嬉しいのですが…」
自分の書いた物語を人に読ませるのが、きっと恥ずかしいのだろう。
その控えめな笑顔が、胸の奥を優しくくすぐった。
手渡された原稿は、パソコンで丁寧に印刷されていて、文字は大きく調整されていた。
老眼の私でも読みやすいように。
こう言う気遣いが本当にたまらないなぁ。
私はショートケーキを食べながら、彼のショートショートに目を通した。
Swan Lake
1960年、ニューヨーク郊外。デイヴィッド(20)は黒人という理由だけで、夢見ていた大学には進めず、街の小さな病院で清掃の仕事に就いていた。
真夜中の廊下にモップの音だけが響く。
消毒液の匂いと、チカチカと鈍く光る蛍光灯。
その下で彼は、息をひそめるように働いていた。
そのとき、扉の向こうから小さなため息が聞こえた。
白衣のポケットに手を突っ込んだまま、若い看護師見習いの白人女性が廊下に立ち尽くしていた。
ジェニファー(20)は研修で来たばかりの新米で、慣れない夜勤に疲れきっていた。彼女はデイヴィッドに気づくと、微笑みながら話しかけた。
「…あなた、いつも頑張っているわね。おかげ様でこの病院はいつも綺麗…」
デイヴィッドは驚いて立ち止まった。
白人の看護師に、こんなふうに気さくに声をかけられたことは1度もなかったからだ。
「そう言っていただけたると嬉しいです。更にやる気が湧いてきます」
嬉しそうにそう答える声は、どこか慎重だった。
ジェニファーはそんな彼の態度に気づいたのか、小さく肩をすくめた。
黒人男性と白人女性が仲良く話す事すら、はばかれる時代だったからだ。
「頑張ってね!」
ジェニファーの優しい笑顔にデイヴィッドは心が温かくなった。
「うん」
それはジェニファーも同じだった。
* * *
それから2人は、夜勤の合間に少しずつ言葉を交わすようになり、デイヴィットが休憩所として使っている古い倉庫にジェニファーが空き時間にやってくる様になった。
「誰かに見られたら大変だよ」
デイヴィッドは何度もそう言った。
誰かに知られたら2人は何もかもを失う恐れがあったからだ。
だがジェニファーは、真っ直ぐに彼を見つめて小さく笑った。
「うん…ごめんね…仕事が辛くてさ…。でも、デイヴィッドと一緒にいると凄く元気が出るんだ…」
「…それは僕もだよ…」
倉庫の隅に並んだ古びた木箱の上で、2人は紙コップのコーヒーを分け合った。
いつしか、2人の間には愛が芽生えていた。
しかし、触れることも、抱きしめることもできない。
言葉にするのもはばかられる。
そんな時代だった。
だから“合言葉”のようにそっと手を掲げ、2人でハートの形を作った。
それが2人の「愛してる」のサインだった。
夜勤が終わると2人は早朝のセントラルパークでデートする様になった。
もちろん誰かに見られないように、薄暗い時間の人がいないところで…。
出会うと2人はすぐに手を掲げてハートマークを作った。
しかし、幸せな時間は長くは続かなかった。
早朝にセントラルパークをランニングしていた院長に見つかり、デイヴィッドはクビになったのだ。
ジェニファーの親にも報告され、2人はこっ酷く叱られた。
命の危険さえ感じたデイヴィッドは、さすがにもう会う事はできないと悟った。
殺気立ったジェニファーの父親に、こめかみにピストルを突きつけられたからだ。
* * *
デイヴィッドはデトロイトの車工場で、住み込みの仕事が決まったので、ニューヨークを離れる事になった。
大きな荷物を抱えて長距離バスに乗り込む時に、偶然にも買い物帰りのジェニファーに会った。
2人は奇跡の再会を喜びあった。
「デイヴィッド…もう会えないかもしれないけど…元気でね…」
「…ジェニファーも…」
目に涙を浮かべたデイヴィッドはそう答えるのが精一杯だった。
ジェニファーは右手を出すとと、デイヴィッドもそれに合わせて最後のハートマークを作った。
「ねえ、デイヴィッド…次生まれ変わったら…絶対に一緒になれるよね?…愛してる…」
「うん、ジェニファー、生まれ変わったら絶対に一緒になろう…僕も愛してるよ…」
小声でそう言い終わるとデイヴィッドは、すぐにバスに乗り込んだ。
これ以上の会話は危険だと思ったからだ。
バスが発車するとジェニファーは泣きながら、両手を振り続けた。
バスが見えなくなってもずっと……。
* * *
日本の東北の山あいにある、静かな湖で不思議な光景が人々の目を引くようになった。
1羽の白鳥が、仲間と共に北に渡らずに湖へ残ったのだ。本来ならば、冬が終われば北のシベリアへ帰るはずだった。
理由はあきらかだった。
パートナーがいたのだ。
白鳥は1度つがいになると生涯を共にするのだが、その相手はなんと“黒鳥”だった。
黒鳥とは南半球のオーストラリアとニュージーランドに生息する、ハクチョウ属の水鳥だ。
サイズも白鳥と同じくらいで、赤いクチバシをもつのが特徴だ。ただし、白鳥と違い、留鳥で海を渡る習性はない。
動物園などでの飼育個体の逸出か、国内での繁殖個体を誰かが連れてきたのか…。
そのあたりの事は定かではなかった。
白と黒。対照的な羽を持つ2羽は、湖面で首を絡めると、美しいハートの形を幾度も描いた。
その姿を見た人々は、誰もが同じ想像をした。
——きっと、この2羽の前世は、かつて時代によって関係を引き裂かれた恋人同士なのだろう。
そして、生まれ変わり、一緒になる約束を果たしたのだろうと。
真実を知る者はいない。
だが湖面に浮かぶ白と黒のハートは、確かに「実際にあったであろう物語の続き」を描いているように見えた。
完
読み終えた瞬間、胸の奥から熱いものがこみあげてきて、気づけば涙が頬を伝っていた。
なんて切なくて、そして温かい物語なのだろう。
まるで1本の短編映画を見終えた後のような、深い余韻が心に残った。
ページを閉じて顔を上げると、優真くんが少し不安そうに私を見ていた。
「……すごく、よかった……」
声を絞り出すと、彼はほっとしたように笑った。
その笑顔がまた、胸を強く揺さぶった。
こんな物語を書けるのは、人間性が優しくて誠実な優真くんだからだ。
おばあちゃんのことで、荒れていた心が一気に浄化されていくようで、抱えていた嫉妬や苛立ちが、すっと消えていくのを感じた。
私も、小説を書いてみたい。
自分の心の中に渦巻いているものを、言葉にしてみたい。
優真くんに読んでもらいたい。
そして泣いてもらいたい。
だって、私だけ泣くなんてズルいでしょ?
そんな思いが、静かに芽生えていた。




