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フレンチ 絹代目線

朝の客室清掃は、チェックアウトされた部屋から順に始められる。丁寧さを求められる一方で、時間との戦いでもある。


「おはようございます。いってらっしゃいませ!」


高級ホテルらしく、すれ違うお客様には笑顔で挨拶を欠かさない。


常連のお客様とは少し会話を交わすこともある。

凛の身体の私は、よく話しかけられるのだ。


「おはようございます。一条さん!」


振り返ると、スーツ姿がよく似合う常連客の男性が立っていた。名前はまだ聞いていないが、実業家で、このホテルを出張のたびに利用していると聞いている。


背も高く、顔もよく、物腰も柔らかい。


まさに“凛の理想のスペック”を地でいくような人だ。私の苗字は名札を見て知っているのだろう。


「おはようございます。もう朝ごはんは食べたのかしら?」


「はい、朝7時に食べました。タンパク質いっぱい

摂りましたよ。その後ジムでトレーニングもして、シャワーも浴びましたよ。ハハハハ」


「まあ、朝からすごい!お仕事頑張ってくださいね」


私が頭を下げると、彼は一瞬ためらった後、にこやかに切り出してきた。


「以前もお願いしたのですが……よろしければ、連絡先交換して頂けませんか?一条さんの事がどうしても気になってしまって。今回ダメなら諦めます!」


前にお願いされたときは、丁重にお断りした。

清掃員としての立場もあるし、何より凛に無断でそんなことはできないと思ったからだ。


けれど、この前「もし条件を満たしていそうな人がいたら、連絡先交換する」と約束をしていた。


スマホは規約上持ち歩けないので、私の電話番号を口頭で伝えた。


仕組みはよくわからないが、凛が言うにはこれで凛の名で私のスマホでLINE交換できる様になるらしい。そう設定してくれたのだ。


「ありがとうございます。一条さんと連絡先交換できてすごく嬉しいです。あと…こちらが私の名刺です」


「ありがとうございます」


名刺を受け取り、目を通した。


フラワーリンク株式会社 

代表取締役 神谷颯太


爽やかな名前の響きに、代表取締役という肩書き。

これは、凛にとって願ってもない一歩だろう。


今の私は凛の身体。かなり気をつけてはいるが、内面はやっぱり“おばあちゃん”なのだ。


そのせいか、男性に対する余計な駆け引きも警戒心も持たずに自然体で接していた。きっと、それが彼の心に響いたのだと思う。


……でも同時に思った。


大切な凛の身体を預かっている以上、これからはかなり警戒心も持たなければならない。


どんなに誠実そうに見えても、相手は若い男性。

油断は禁物だ。



        * * *



勤務を終えてスマホを開くと――早速、神谷颯太さんからLINEが届いていた。


仕事が早く片づいたので「東京に戻る前に夕方一緒に食事をしたい」という内容だった。


あまりにも急な展開に、正直戸惑ったが、これで断ったら次はないかもしれない。


「OKです。よろしくお願いします」と返信した。


待ち合わせ場所は、このホテルのロビーだと言う。


毎日の通勤の服は自由なのだが、凛はすごくオシャレなので、いつもコーディネートしてもらっている。


今日も青いワンピースに黒のカーディガン、足元は黒の細身のヒールブーツだ。何処のレストランに行っても恥ずかしくない格好だと思った。


ロビーのソファに腰掛けて待っていると、神谷さんがちょうど時間通りに現れた。


黒のスーツに淡いブルーのネクタイ――整った姿は、このホテルに驚く程似合っていた。


「お疲れさまです!……私服姿の一条さんも素敵ですね!LINEで見て初めて知りましたが、下の名前“凛”さんって言うのですね」


「はい」


「素敵な名前ですね。凛として美しい。ハハハ」


「神谷颯太さんも、爽やかで素敵なお名前ですよ」


「ありがとうございます。このまま2人でずっと褒め合っているのもいいですね。ハハハハ。

それは冗談で、このホテルのフレンチを予約したので、ぜひご一緒に…」


その言葉を聞いた瞬間、私は思わず顔を歪めてしまった。


実は――私はコース料理が大の苦手なのだ。


マナーもイマイチわからないし、次から次へと料理が運ばれてきて、自分で食べる量を調整できない。


しかも、ギャルソンの方に常に“見張られている”気がして全く落ち着かない。


「……嫌そうですね?」


顔に出ていたのだろう。


「いいえ。せっかくだから行きましょう。でも――次からはコース料理はねちょっとね…」


微笑みながら言うと、神谷さんは目を丸くしたあと、大きく笑った。


「あはは、そういうところも……なんかいいなぁ」


入った店は最上階のフレンチレストラン「エトワール」。


神谷さんに恥をかかせない様に、私も背筋を伸ばして、格好つけて店に入った。


サマになっている自信はなかったが…。


こんな高級なレストランに足を踏み入れるのは初めてだった。


ホテルの清掃を通じて、さまざまな場所に立ち入るうちに“高級感”というものには多少慣れたはずなのに。ここはちょっと格が違う。


高い天井から降り注ぐ巨大なシャンデリアの光が、真っ白なテーブルクロスを柔らかな金色に染め上げている。


颯爽と立ち働くギャルソンたちの所作は洗練され、まるで王宮に迷い込んだかのようだった。


窓の向こうには、そびえる夕霧城を背景に、暮れゆく街の夜景が宝石のように輝いている。


あまりに煌びやかなレストランで、私はただ息をのむしかなかった。


「この雰囲気が気に入って、ここを指定したんです」


席に案内されると、ギャルソンが自然な所作で椅子を引いてくれた。


私は小さく「ありがとうございます」と微笑みながら腰を下ろす。


真っ白なクロスの上には磨き上げられたシルバーカトラリー、繊細な脚のワイングラス。キャンドルの灯りが揺らめき、神谷さんの横顔をやわらかく縁取っていた。


シャンパンが優雅な手つきで注がれ、泡がグラスの中で細かく立ちのぼる。


「緊張してますか?」


「ええ、かなり…」


「僕もですよ。凛さんとこうして食事できるなんて、夢みたいで…」


その言葉に胸の奥がじんわり熱を帯び、私は慌ててシャンパンを口に含み、気持ちを誤魔化した。


シャンパンも高級なのだろうが、私には全く味がわからなかった。凛の身体では、アルコールを飲む事ができるが、そもそも私は下戸なのだ。


「颯太さん、ひとつ聞いてもいいですか?」


「どうぞ?」


「なぜ、清掃員の私なんかを? こんな素敵な社長さんなら、もっと素晴らしい女性はいくらでもいるでしょうに」


「僕は、おばあちゃんっ子でしてね」


彼は少し照れたように笑った。


「凛さんと話していると、中身は美しい女性なのに……どこか“おばあちゃん”っぽさを感じるんです。そのギャップに、完全にやられました」


飲んでいたシャンパンを吹き出しそうになった。


完全にその通りなのだから。


鋭すぎる。「さすが若くして社長になった人だ」と思わず唸ってしまった。


でもさすがに中身も“本物のおばあちゃん”だとは気がついてはいないだろう。


しかし、同時に「背伸びしないで素の私でいいんだ」と思うと本当に気が楽だった。


颯太さんは、自分の経歴を軽く語ってくれた。


どうやら、いわゆる家柄のいいエリートとはかなり違うようだ。


実家は栃木の山あいにある小さな田舎町。


両親はふたりとも教師で、幼い頃から「神童」と呼ばれ、周囲の期待に応えるように東大理科一類工学部へ進学したらしい。


勉強はそこまで好きではなかったが、両親は厳しく、テストの出来が悪いと、蔵に閉じ込められたり、食事の量を減らされたりしたと言う。


その時にいつも庇ってくれたのが“おばあちゃん”だったと言う事だ。


なるほど、今の私の中に、その“おばあちゃん”を感じたのだろう。


その後、颯太さんは、在学中に友人と共に起業の道を選び、忙しくなり、大学2年生で中退してしまったらしい。


「大学の勉強そのものは、興味もないし正直あまり役に立たなかったですね。でも、人脈づくりの場としては大きかった。だから行ってよかったと思っています」


そう言う彼の目は、どこか遠くを見ているようだった。


大学を辞めた当時は、両親に激怒されて勘当同然だったらしい。けれど今では、しっかり成果を出し、認めてもらっているという。


颯太さんの会社は紆余曲折を経て、今は業界でも知られる存在となっているらしい。ここ夕霧には、支社を立ち上げた為に頻繁に来ているという事だ。


彼が開発した「strawberry」という1対1のチャットアプリは、世界中の人とランダムに繋がり、AIが翻訳と話題提供をしてくれる。


身分証による登録が必須で、年齢や国籍を偽ることはできない。素の自分でチャットしてほしいからだそうだ。


連絡先や画像の交換は禁止され、同じ相手と再び繋がることもできないと言う仕組み。シンプルだが、極めて高い安全性が担保されている為、世界中で流行っているらしい。


「業界ではちょっと有名」だと笑ったけれど、アプリも颯太さんの事もまるで知らなかった。おそらく凛なら知っているだろう。


「strawberry」は面白そうなので、凛に教えてもらい今度やってみようと思った。


「フラワーリンク」という社名の由来も教えてくれた。


「花が好きなんです。ただそれだけでつけた名前なんですよ」


そう言って照れくさそうに笑う姿に、胸の奥が温かくなった。


私のナイフとフォークはぎこちなく、ギャルソンが時折こちらを見ているのも気になって、最初はやっぱり落ち着かなかった。


けれど――ひと口ごとに驚くほど美味しい料理が運ばれてきて、気持ちが少しずつ変わっていった。


考えてみれば、フランス料理なんてほとんど食べたことがない。あの人なんて、1度も連れて行ってくれなかった事はなかった。


颯太さんの話は本当に面白くて、気づけば感心したり、笑ってばかりいた。


時間が経つにつれ、豪華な雰囲気にも少しずつ慣れてきて「高級フレンチも毛嫌いしていただけで、案外悪くないのかもしれない」なんて思えてきた。


私のこともいくつか聞かれたけれど、それはそのまま凛のことでもある。正直、どこまで話していいのか分からず、当たり障りのない簡潔な説明にとどめた。


けれど、颯太さんは深く掘り下げてこなかった。

むしろ、自分が語るほうが好きなタイプらしい。

それは私にとっても、好都合だった。

気がつけば、料理の緊張も忘れて、ただ彼の話に耳を傾けていた。


颯太さんの趣味はトライアスロンで、身体を動かすことが何より好きらしい。


「そんなに疲れることをして、仕事に支障は出ないのですか?」と聞いたら、彼は笑って首を振った。


「むしろ逆なんですよ。むしろやればやるほど、エネルギーが湧いてくるのです。」


その言葉に思わず感心してしまう。


さらに、この高級ホテルを常宿にしている理由についても教えてくれた。


「サービスが素晴らしいのはもちろんですが、ここのジムの機械とプールが何より最高なんです」


そこで少し間を置いてから、にこりと笑った。


「……それと、最近もう1つ理由ができまして…」


「何ですか?」


「凛さんに会えるからですよ」


「まあ」


あまりに真っ直ぐな言葉に、思わず苦笑してしまった。


あの人は、こんなこと1度も言ってくれなかったな、と。


コースの最後にデザートが運ばれ、芳醇なコーヒーの香りが漂う頃、颯太さんがスマートに手を挙げた。


「お会計をお願いします」


ギャルソンが伝票を差し出すと、颯太さんはごく自然にカードを取り出そうとする。


その瞬間、幾らなのかまるで見当がつかなかったが、私は慌ててハンドバッグを開けた。


「いえいえ、ここは私も払います!」


「えっ?いやいや、ここは僕に払わせてください」


「だめです。高級フレンチを馳走になるなんて。せめて割り勘で!」


颯太さんは少し目を丸くし、それからふっと笑った。


「凛さん、ここで割り勘って言う女性、いませんよ」


「ダメです。いけません!」


私はカードを差し出しながら、妙に意地っ張りな気持ちで言い返していた。


ギャルソンも明らかに困惑していた。こんな場面、きっと滅多にないのだろう。


それでも私は一歩も引かない。おばあさん(身体は凛だが)がこんな若い人に高いフレンチをご馳走になるなんてあってはならないと思ったからだ。


「……わかりました。じゃあ、今日は割り勘にしましょう」


颯太さんが少し降参したように微笑み、カードを差し出した。


「ただし、次は必ず僕に払わせてください。約束ですよ」


次と言う言葉に胸が高鳴る。


「ええ、それなら…」


こうして颯太さんは私に次の約束も取り付けた。なんてスマートなのだろう。


エレベーターでロビーに降りると、颯太さんは「ちょっと寄りたいところがあるんです」と私を促した。


向かった先は、隅にある小さな花屋さんだった。


「こんばんは」と店員に声をかけると、颯太さんは迷うことなく言った。


「この方に似合う花束をお願いします。できるだけ大きめで」


「えっ…!」


思わず声を上げてしまった。店員が微笑んでうなずき、手際よく花を選んでいく。


色とりどりの花が重なり合い、抱えるのがやっとの見事な大きな花束が出来上がった。


遠目でお会計の様子を見ていると、なんと3万円だった。


高級ホテルの花束、高すぎる…。


颯太さんは自然にそれを受け取ると、私の前に差し出した。


「出会えた記念に。受け取ってください!」


大きな花束を抱え込むようにして受け取った瞬間、胸の奥が熱くなり、言葉が出てこなかった。


それだけではない。外で客待ちしているタクシーに私を乗せてくれた。


大き過ぎる花束を傷つけない様に入れるのに苦労した。無事花束を入れると、颯太さんは私にタクシーチケットを手渡した。


しかし、そんなもの使った事はない——。


「いらないです!このチケットの使い方もよくわからないし」


「ハハハ。降りる時渡すだけでいいのですよ!では、運転手さん、この方をご自宅まで宜しくお願いします!」


そう言うとタクシーのドアは閉じられ、運転手さんに行き先を聞かれた。


私ホテルで働いているくせに、全く馴染んでいないな。


苦笑しながら住所を答えた。


タクシーが発車すると窓を開けて、颯太さんに手を振った。


颯太さんも楽しそうに手を振返してくれる。


ああ、でもなんかいいな、こう言うの。



* * *



運転手さんと道中、雑談を楽しんでいると、あっという間に自宅へ着いた。


降りる際に運転手さんに、頂いたタクシーチケットと、花束の中から、お花を数本を手渡した。


あまりにも数が多すぎて家には飾れないと思ったからだ。


「ありがとうございます。長く運転手やってますけどねえ、お客さんから花なんてもらったの初めてですよ」


「この花束…大きいすぎますもの。ねえ?」


「彼氏さんですか?」


「ふふふっ。お気をつけて!」


そこは、否定しないでおいた。


「はい、ありがとうございます」


今日は最高の日だ!


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