【短編小説】囚われた患者
「うあ"ぁぁあぁぁぁああぁ」
穏やかな昼下がり。病棟の廊下に叫び声が響き渡った。
「またか。彼女は昨日からずっとあの調子だね。少し薬を強めようか」
ドクターは手元のファイルに新しい薬の名前を書き込み、主任の看護師へと渡した。
『一昨日は落ち着いた様子でしたが、一度囚われてしまうと抜け出すことは難しいのでしょうか』
気の毒そうに彼女を見つめながら、研修医が尋ねた。
「昔はね、仕事終わりにスーパーで1,000円のワインを買って飲むのが、毎日の幸せだったんだ。しかし収入が増え、一本50,000円のワインを買って飲んだ時には、こんなに美味しいのかと感動し、1,000円のワインには戻れなくなってしまった。さらに高級なワインを飲んでしまったらもうおしまいだ。今までのワインには戻れない。昨年からはね、自分でワインを作り始めたんだ。彼女の幸せへの執着は、私の、最高のワインを求める旅とよく似ている気がするよ」
『果てしない旅ということですね』
「S君はここに研修に来て二週間だったね。なにか困ったことはあるかい」
『いえ、ありません。しかし、ここにいる患者はみな、なにかに囚われ苦しんでいると聞いていましたが、想像を遥かに超えていました。彼らになにをしてあげられるのか、私にはまだ分かりません。先週入院してきた少年は、きっちりすることに囚われていて、毎朝必ず6時に起きるんです。必ず12時に昼食をとり、必ず9時には眠る。全てが決まっているんです。あんな生活をしていて、苦しくならいのでしょうか』
「彼の場合は、幼い頃の環境が影響しているだろうね。きっと両親からそのように育てられたんだろう。彼にしてみれば、長年守ってきたルールを崩す方が苦痛に感じるのだよ。ところがそれも限度を超えると社会との摩擦を生み、こうして治療が必要と判断されてしまう。私たちもどうにか治してあげたいが、とはいえ、蓄積によりできた囚われはそう簡単には改善しないから、彼の治療は少し長くなるかもしれないね」
ゆっくりと廊下を進むふたりの前に、ひとりの患者が現れた。ドクターは近づき、彼の背中を優しくさすった。
「Nさん、ここまで歩いて来られたのですか。すごいですね」
『いえいえ、なにもすごいことはありません。普通ですよ、普通』
患者はそう言うと、カラカラと点滴のスタンドを引きずりながら、外の広場へと向かった。
『あの方は、もう5年近くここにいると聞きました』
「あぁ。彼は努力することに囚われていてね。足が悪くなった今でも、ああして歩くことをやめないんだ。いや、やめることができないというのが正しい表現か」
『なぜ、努力することに囚われてしまったのでしょう』
「あなたのは努力とは言わない。私はもっと大変だ。そんな言葉が彼を追い詰めてしまったんだ。歩く人を見れば立ち上がり、不自由な右足を引きずりながらも、歩かないといけないと思うようになってしまった」
『なんだか、悲しいですね』
「まぁ、辛くなることもあるかもしれないが、少しずつ慣れていくさ。S君は、コーヒー、甘いのと無糖どちらがいい」
自動販売機の前で足を止め、ドクターはポケットから小銭を取り出した。
『私は無糖で』
「甘いものは体に悪いと」
『これも、囚われですかね』
「囚われているのは、患者さんだけじゃないさ。ナースまでも、何かに囚われているんだ。自分でも気づかないうちに、まるでロープで木に巻きつけられたように頑丈にね」
『まさか。でも、先生は正常じゃないですか。なににも囚われていないように感じます』
「私かい?そうだね‥‥。本当の幸せは、幸せとはなにかなんて考えずに過ごせることだと、私は思うんだ。人と会う時、物事を判断する時、散歩をする時ですら、私は囚われないようにと考えて過ごしている」
『はい‥‥』
「つまり、囚われてはいけないということに囚われている」
ドクターは、缶コーヒーを取り出し、研修医に差し出した。