28 分岐
そのさなか、不意に胸が熱くなった。
抱きしめられ、奥を突かれる感覚と共に胸いっぱいに広がる幸福感。
それはいつもの絶頂とは違った至高の愉悦と満足。
自分の中で果てて気絶するように眠りに落ちた彼を見る。
帰ろう…離れたくないけど、今は、離れよう…
彼女は頭の芯が痺れている。
胸の鼓動はこれでもかと早くなっている。
けれど全身余すところなく包まれた高揚を抑えて、自分自身を引き剝がすように彼の隣から起き上がった。
縋って、このままもっと一緒に溶けてゆきたい…
本能的ともいえる感情の侵食を理性で押し止め、汗を流して身支度を整える。
これくらい良いよね…
彼との待ち合わせ場所に急ぐ途上で、衝動的に買った小さなチャームをベッドサイドに置いた。
小一時間程、彼の住むマンションの入り口が見えるコンビニにいた彼女。
彼がどこか頼りない感じで出てくるのを見つけた。
そっと後をつける。
ざわっと木立の葉が騒めいた。
蜘蛛道を歩く彼が、分かれ道で一瞬二重になり、右へ行った片方は消えた。
追いかける自分も二重になったように感じ、もう一人の自分はどこかへ消えた。
気を付けて行ってきてね
会えるまで、待ってるわ…
ちょ!勝手に何言ってんの?
貴女、誰?
後で話し合いましょ
返してよ!
アタシの身体、返してよっ!
ごめんなさい
ともかく、後で話し合いましょ
貴女の、美玖の部屋で、ね
彼女はスマホを出して何か話し出す。
『はい、もしもし?』
彼の声が聞こえる。
「勇者さま?」
『え?』
明らかに戸惑った答えが返ってくる。
「早く助けてください!」
『なんだ?君、誰だ?』
「早く!剣を持ってわたし達を助けてっ!」
『剣だぁ?』
彼女がスマホを離すと会話が切れた。
さ、帰りましょ
ちょっ!どうなってんのよ!
後で説明するわ
脳内での問答。
― そして、卓は失踪した。
美玖は自分の中にいる、もうひとりの人格と向き合っていた。
一人住まいがある意味恨めしい。
もうひとり―ミュ・クー―と名乗った人格。
彼女が眠った隙に仕事場や卓への電話、メールを送信した。
しかしミュ・クーは美玖が起きているときにしかコンタクトは取らなかった。
「ねぇ、どういうことなの?なんで私なの?」
「彼…」
「卓のこと?」
「そう」
「卓がどうしたっていうの?大体、卓はどこに消えたの?貴女、知ってるんでしょ?」
「そう、ね。知っているわ」
「帰ってくるの?」
「帰っては来ると思うわ」
「な~んか含みがあるような言い回しね」
「いつ帰ってくるかがわからないから」
「ちょっ!」
「それは本当よ。でも、きっと貴女の許に帰ってくるわ。それまでふたりで待ちましょ」
「なにそれ、私、行き遅れ確定なの?」
「結婚したいの?」
「それは…いい人がいれば、ね」
「卓限定ではない、ということかしら?」
「今は卓が彼氏なの!」
「ということは、未来は違う可能性があるということ?」
「だって、卓はおぢさんで、今はいなくなってて」
「今、目の前にいないのは確かだけれど、年齢は関係ないんじゃない?」
「関係するわよ!」
「そうなの?」
「そうでしょ!両親に紹介したりするときに、きっと反対されるし」
「反対されるから、やめるの?」
「んなことない!」
「待てるの?こっちで何年経つか分からないわよ?」
「意地悪ね。何を私に言わせたいのよ」
「自分で答えは分かってるでしょ?」
「ああ、もう!そうよ!私は卓が好きよ!待つつもりだわ!」
「健気ねぇ」
「ちょっと、喧嘩売ってる?」
「いいえ、嬉しいわ」
「ねぇ、なんで私なの?」
「最初に戻ったわね」
「だ~か~ら~」
「はいはい。その答えは今夜から見せてあげるわ」
「今夜から?」
「ええ、嘘は言わない。今夜から、美玖が眠ったら夢で全部見せてあげる」
「夢で?そんなことできるの?」
「正確には、美玖の睡眠中に私の記憶を見せるのよ」
「そんなメンドクサイこと…今、見せてくれたら良いじゃない」
「それじゃ、貴女の脳が容量超過で焼ききれちゃうわ」
「え、マジ?」
「マジよ」
「それは困る」
「私も困る。だから夢のように睡眠中に記憶を再生させるの。こちらの時間で半年から一年くらいかかるから」
「そんなに?」
「私の一生分だもの。それでもその位まで短縮するんだから、ね」
「は~い」
「貴女、素直ね」
「馬鹿にしてる?」
「してないしてない。ありがとう」
「普段の生活に戻っても?」
「貴女が意外に冷静で助かるわ。勿論、戻っても問題ないわ。貴女の生活に戻るときは、私は奥に引っ込むから」
「そーして頂けると助かる」
「私は貴女を乗っ取ろうとは思ってないのよ」
「うん、不思議だけどその点では貴女を信用できるんだ…なんでだろ」
「うふふ、おそらく魂同士で同調しているから、私のホントの所を感じられるんだと思うわ」
「なるほど」
「納得しちゃう?」
「しちゃうしちゃう!…と、ところで今更なんだけど」
「な~に」
「卓は何処へ行ったの?」
「勇者になる為に、私の未来の世界に行ったの」
「は?」
「そこも私の記憶を見てくれればわかると思うわ」
「端的に、ざっくりで良いから教えて」
「ん~、異世界、ね」
「厨二?」
「みたいだけど、ホントの事よ」
「まぁ、こんなことが起こってるんだもんね…異世界に勇者になりに行った…あのおぢさんが…勇者に年齢制限ないの?」
「ないわね。ま、帰ってきたらわかると思うわ」
「りょーかい」
その夜から美玖はミュ・クーの記憶を追って行くことになった。
【続】
なかなか描写が難しい…