第6話 教室までの十分間
音楽室をあとにしたウツロと真田龍子は、教室までの道のりを並んで歩いていた。
会話は、ない。
さきほど受けた辱め――唇を奪われたウツロと、それを目の前で見せつけられた真田龍子――
そのショックは、小さくはなかった。
ウツロは真田龍子のことを、真田龍子はウツロのことを気づかうからこそ、言葉を捻り出すことができないのだ。
もどかしい……
二人の心には、ただその思いだけがあった。
音楽室のある校舎の二階へ下り、教室棟になっている隣の校舎へ行くには、渡り廊下を通る必要がある。
二人がその中ほどにさしかかったとき、ウツロは思い立つことがあり、ふと足を止めた。
「ウツロ……?」
何かと思った真田龍子が、彼の顔をのぞく。
「俺は、毒虫だ」
「……っ」
ウツロはやにわに、そんなことを口走った。
「ウツロ、まさか、また……」
「いや、違うんだ龍子」
よくないことを考えているのかと、心配した真田龍子。
それに対してウツロは、凛とした眼差しで応えた。
「少し前のことを、思い出していたんだ……あのときのことを……父さんと、兄さんが、俺に託してくれた想いを……」
「ウツロ……」
真田龍子は引き裂かれそうになる胸を抑えた。
「正直に言って、いま……少しだけ、心が……また、よどみそうになったんだ……でも、思い出した……父さんと兄さんのことを……だから、俺は……俺はもう、平気だ、龍子……」
「……」
平気?
平気だって?
嘘だ、そんなの……
ウツロのことだ、また、無理をしているんだろう。
自分だけが、苦しめばいいと思って……
「俺よりも、君のことが心配だよ、龍子。あんなものを見せられて、きっと、傷ついているだろう?」
やっぱりだ、やっぱり、無理をしている……
どうして?
どうして自分だけが、傷つこうとするの?
彼女はたまらなくなって、思い口を開いた。
「ウツロ、わたしも正直、そうだったんだ……ウツロが、もしかして、あの女に、刀子朱利に、奪われてしまうんじゃないかって……それを考えると、わたし……わたし、ハラワタが、煮えくり返りそうになって……」
「龍子……」
ウツロは真田龍子の手を握った。
「侮辱を受けるのは、慣れっこさ。俺は、大丈夫だから……」
彼女にはわかった。
掴んでいるその手が、震えているのを――
真田龍子は迷ったが、思いのたけを主張することを選んだ。
「あのあと……特性対の本部に、送られたあと……ウツロが、何をされたのか……雅から、ぜんぶ聞いたんだ……」
「……」
「いえ、違う。わたしが無理やり、雅に頼んで、調べてもらったんだよ……」
ウツロは彼女が何を言わんとしているのかを悟った。
「どんな気持ちだと思う? 愛する人が、わたしの愛するあなたが……冷たい機械の中に、閉じこめられたり……体中を、コードでつながれたり……そんなひどいことをされる、気持ちが……!?」
過去に受けた体験がウツロの頭をよぎった。
だがそれ以上に、真田龍子が置かれているいまの状態が心配でならなかった。
「もう、嫌なんだ……ウツロが、周りに傷つけられるのは……ウツロは、虫じゃないのに……人間、なのに……う、ううっ……」
「龍子……っ!」
嗚咽してむせび泣く彼女の手を、ウツロはギュッと強く握りしめた。
「いいんだ、俺は、いいんだ……!」
「なんでよ!? そんなことをされて、悔しくないの!? あなたは虫じゃない! 人間なんだ――」
ウツロは真田龍子を抱きしめた。
人がいたらどうしよう?
いや、そんなことは関係ない。
そんなことは、どうでもいい……
「ん……」
彼の温もりが伝わってくる。
温度はしだいに、熱さへと。
のぼってくる高揚、たぎってくる衝動――
止まらない、我慢できない……
歯車のように噛みあう若者の、その内側に眠っていたものが、目を覚ました。
この獣たちを縛りあげる枷も鎖も、ズタズタに引きちぎろうとする。
いっそ、このまま――
「龍子――」
「……」
ウツロは手を緩めて、真田龍子を顔を見つめた。
その双眸に、くもりなど、ない。
「こういうことなんだ……」
彼は間を置きながら、眼前の少女に語りかける。
「俺だって、許されるなら……でも、言いたいのは、それなんだ、龍子……」
ウツロはひとつの決意を、彼女へ伝えようとした。
「龍子がいるから……どんな屈辱にも、たとえそれが……俺という存在そのものを、蹂躙するような行為であったとしも……龍子が、龍子がいるから、耐えられる……それだけなんだ、龍子……どうか、わかってくれないだろうか……?」
ウツロは真田龍子の体を放し、もう一度、手を握った。
二人は再び、歩き出す。
「俺は、毒虫だ」
「……」
「でも、這いつづける毒虫……そうだろ、龍子?」
完全には理解できないけれど、真田龍子はウツロの考えを、その心のありようを、のみ込むことにした。
ウツロがそう、言うのなら。
そんな気持ちだった。
「うん、ウツロ……」
ウツロは微笑んでいた。
とても穏やかな顔だ。
真田龍子は思い出した。
あのときのことを――
いっしょに生きていこう。
そう、言ってくれたときの、あの笑顔を――
真田龍子は両手を、胸の上に組んだ。
なんだか、すっきりしてきた。
やっぱり、ウツロだ。
これが、ウツロなんだ。
わたしの知っている、わたしの愛している、ウツロ……
彼女はうれしくなって、顔を赤らめた。
「行こう、龍子」
「うん、ウツロ……」
彼はさわやかに、教室のドアを開けた。
音楽室を出てから二人がここへたどり着くまで、かかった時間は十分。
その十分間は、あっという間に過ぎ去った。
(『第7話 保健室の狂気』へ続く)