第２話 音楽室のウツロ
「うわー……」
真田龍子が三階の音楽室に到着したとき、ごった返した野次馬の群れが目に入ってきて、ひどくうんざりした。
女子たちはこぞって、噂の美少年と揶揄されるウツロを見ようと、わいわいがやがや騒いでいる。
「あれが佐伯悠亮くん？」
「春の終わりころ、二年部に編入してきたんだって」
「クールイケメンで、ピアノもうまいなんてね」
「頭脳も明晰らしいよ。アメリカ帰りで英語もペラペラらしいし」
「すごいチートスペックじゃん！」
「あ、でも、いるらしいよ、お相手」
「えーっ、マジでー！？」
「そりゃ、あんな完璧超人、フリーなわけないって」
「女子なの？」
「は？」
「いや、ああいうタイプって、意外にこっちとか」
「うーん、言われてみれば、なきにしもあらず……」
こんな調子で取り巻きたちは、好き勝手にかしましくしていた。
「うーん、うーむ……」
彼女たちの背中が壁になって、どうにも前には進めない。
真田龍子はやきもきして唸っていた。
「龍子、こっちだよ！」
「瑞希！」
『壁』の上から手が上がって、クラスメイト・長谷川瑞希の声が聞こえた。
「こっちこっち、早く！」
「わ、わあっ！」
『壁』の中心を貫いて、少女の腕がにゅっと差し出された。
「ひゃあっ！」
驚いている取り巻きたちを尻目に、その手は真田龍子の胸ぐらを掴むと、勢いをつけて手前に引き込んだ。
「はい、いっちょあがりー」
「もう、瑞希！ はは、すみません……」
白い目を向けられて、真田龍子はしかたなく、申し訳なさそうにふるまってみせた。
長谷川瑞希は黄色いカチューシャをカリカリといじっている。
彼女はバレー部に所属していて、同じ体育会系の真田龍子とは、奇妙なくらい馬が合う。
肩口にのぞいたストレートヘアーをさらりと返して、長谷川瑞希は遅れてきた親友に、小憎らしい顔を向けた。
「ったく、遅刻なんてしてんじゃあないよー、このこの。ねえ、先輩？」
「長谷川さんの言うとおりね」
「あ、日下部先輩……」
バッハの肖像画の前に陣取っていた三年部の先輩・日下部百合香が、眼鏡のメタルフレームをくいっと直して、真田龍子をじろりとにらんだ。
「真田さん、この演奏会に遅刻とは、あなたらしくないわね」
「すみません、先輩。わたしったら、そそっかしいから……」
「言い訳なんて聞くたくないわね。聴きたいのは音楽よ？」
「はあ、あはは……」
本人はハイセンスな表現だと思っているのだが、実際はただのダジャレである。
日下部百合香は音楽部の部長で、実質的にこの音楽室の主だ。
真田龍子の所属している弁論部にも、客員と称してかけもちをしているから、彼女のことは目にかけて、よくしている。
日下部百合香はまたメタルフレームを直すと、真田龍子の視線を『音源』のほうへと誘導した。
「ほら、前をごらん。あれを見に来たんでしょう？」
「……」
真田龍子は体を翻して、それにしたがった。
ウツロ、ウツロだ。
ウツロが、いる。
ピアノを、弾いている。
ボリュームのある黒髪、けっこうクセがあるんだよね。
黒帝の制服、黒いブレザーとズボン、似合ってるよ。
桜色のネクタイだって、素敵だよ。
ああ、ウツロ……
好き、愛してる……
こんなふうに彼女は、自分の気持ちを想い描いた。
しかしいっぽうで、ウツロが自分以外の存在から注目されることに嫉妬した。
どうして？
わたしとウツロは愛しあっているのに……
どうしてわたしだけのものじゃないの……？
ウツロを独り占めにしたい……
わたしとウツロだけがいればいい……
それがかなうなら、こんな世界なんて、いっそ、壊れてしまえばいい……
真田龍子の愛の深さは、そのまま彼女の闇の深さなのかもしれない。
それは誰よりも彼女自身が、いちばんよく理解していた。
それでもなお、愛することをやめられない。
やめられるわけがない。
いつかこの気持ちが悪いほうへ向かうのではないかという不安を胸に抱きながら、さらに彼女はウツロのことを強く想った。
そしてそんな真田龍子の心をなだめるように、ピアノの調べはいよいよやさしく、音楽室に響きわたった――
（『第３話 氷潟夕真と刀子朱利』へ続く）
