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2. 

よろしくお願いいたします。


草壁陽比古(くさかべあきひこ)です。よろしく」


一行がダイニングルームへ移動するとすぐに、玄関から入ってきた人物が口を開いた。

娘は、もっと年配の男が、今日話す相手だと思っていた。

草壁陽比古と名乗った怜悧そうな男は、整った顔立ちに柔和な微笑みを浮かべている。

娘の隣にいる、背の高いがっしりした男とは対照的に、やや線が細く、恐らく彼より若い。


「それでは、私はこれでお暇いたします」


恰幅のいい男が、鍵を陽比古に手渡し、丁寧に頭を下げた。

陽比古は頷き、去ろうとする男に労いの言葉をかける。


「ここまでの案内、有難うございます」


恰幅のいい男は振り返り、陽比古にもう一度軽く頭を下げて部屋をあとにした。

部屋の中の一同は男を見送り、娘は思い出したように陽比古に向けて慌てて喋り出した。


「今日はお時間を下さって有難うございます。早瀬璃羅(はやせりら)といいます。こちらは、後見としてご一緒くださった、浅桐惣一郎(あさぎりそういちろう)さんです」

「浅桐惣一郎です」


璃羅はぺこりと頭を下げる。

紹介された背の高い男は、軽く頭を下げて短く名乗った。


「坐っていてください。今、お茶を淹れましょう」

「あ、お茶なら私が…」


そう璃羅が云いかけるのを、陽比古は手で制す。


「ここには通いで、掃除に来てもらっているだけなので、あとは何でも自分でやります。気にせず、坐っていてください」

「住んでらっしゃるのですか?ここに?」


声のトーンが高くなった璃羅に、陽比古は片側だけ口の端を上げた。


「たまに、ですよ」


キッチンへ消えていく陽比古の背中を見送って、惣一郎と璃羅は顔を見合わせた。


「彼がそう云うのだから、坐っていよう」

「はい」


惣一郎が云うのに璃羅は素直に頷いて、二人は並んで椅子に腰を落とした。

璃羅が二階へ行っている間に窓が開けられたらしく、心地よい風が吹き込んでくる。

家の中は風の通りが良いらしく、少し涼しくなった璃羅は、鞄からお気に入りの白いカーディガンを出して羽織った。



暫くすると、お茶のカップとポットを乗せたお盆を持って、陽比古が部屋に入ってきた。

坐っている二人の前にカップを置き、自分のマグを手に取ると彼も向かい側に腰かけた。

陽比古が口を開く。


「それで…この家を買いたいということでしたね」


前置きもなく、いきなり本題に入った陽比古の言葉に、璃羅が大きく頷いた。


「ぜひ。お願いします」

「失礼ですが、あなたのような若いお嬢さんが———」

「若くありません!もう十八です」


璃羅は必死に声をあげた。

若いと思われることは判っていた。

けれど、この機会を逃したくはない。

陽比古の冷静な声が続く。


「でも、まだ未成年ですよね」

「だから、惣一郎さんに一緒に来ていただいたんです。お金だって、ちゃんと用意できます」

「ほう?」


テーブルに両肘をつき、身を少し乗り出した陽比古は、興味深げに璃羅を見つめた。

やはり、そうか。

璃羅は、自分のような若い娘が一番心配される点はそこだろうと思っていた。

けれど、伊達や酔狂でここまで来ている訳ではない。

姉や惣一郎とも散々話し合って決めたことだ。


「父の遺産を、叔母が管理して増やしてくれていました。姉と私のお嫁入りと、その後の資金として。でも姉と話し合って、それよりも、この家の購入に充てたいということになったんです」

「お姉さん…」


陽比古が呟いた。

今まで表情を消して二人のやりとりを見守っていた惣一郎は、静かに陽比古に視線を移した。


「本当は、姉も来ることになっていたんです。でも、妊娠していることが判って…」

「妊娠…。結婚されたのですか?」

「はい、昨年の秋に」


嬉しげに頷いた璃羅は、惣一郎を見上げた。

表情は変わらないものの惣一郎も璃羅を見下ろし、二人は何事か目で会話したように見える。

不自然に会話が途切れたところで、陽比古が口を開いた。


「それはおめでとうございます」

「有難うございます」


それまで無表情に近かった陽比古が、微かに微笑んでいるように見えて、璃羅は不思議に思いながら礼を述べた。


「お幸せなのですか?」


陽比古の問いに、璃羅は軽く目を瞠った。

なぜそんなことを聞くのだろう…と訝しみながら、璃羅は答えた。


「はい、もちろん」


大好きな人と結婚した姉は、子どもの宿るお腹を愛しげにさすり、愛情のこもった目で夫を見ていることを璃羅は知っている。


「それは良かった」

「はい」


しかし、それまで微笑んでいるように見えた陽比古からすっと表情が消え、平坦な声で彼は告げた。


「ところで、まず云っておかねばなりませんね。この家は売りませんよ」




「それは…!」


叫びに近いような声をあげた璃羅の肩に、惣一郎の手が軽く置かれる。

宥めるように二、三度璃羅の肩を叩くと、眉を寄せた璃羅の顔が惣一郎に向けられた。

二人の様子を見守っていた陽比古は、静かに続けた。


「僕も、この家はとても気に入っているのです」


璃羅の口が引き結ばれた。

ひたと真剣な瞳が陽比古を見つめる。


「どうしても駄目ですか?」

「何故、そこまでこの家が欲しいのです?」


質問を質問で返され、璃羅ははぐらかされたように思った。

けれど、何故…と聞かれたら答えは一つだ。


「私たち家族は…この家に以前住んでいたんです」


驚くだろうと思っていた相手は、軽く目を瞠っただけだった。

璃羅は続けた。


「十年前まで、この家は私たちの家でした。父が死んで、この家を手放さなければならなくなるまでは。叔母が———父の妹です、私たちを引き取ってくれることになって、叔母の住む街へ移り住むことになったのです。でもこの家には、私たち家族の幸せだった時間が詰まっているんです」


切々と訴える璃羅に、陽比古の静かな声が返される。


「あなたがこの家に住んでいたことは伺っていました。だから会う気になったのです」

「…え?」


陽比古の言葉の意図が判らずに、璃羅は聞き返した。


「この家を購入したいというお話は年に何回かありますが、全部すぐにお断りしています。でも今回は、以前にお住まいだったという話をお聞きして興味が湧いたのです。とはいえ、お売りするという話はしていないでしょう?」

「それは、まあ……ええ」


渋々、といったように璃羅は頷いた。

確かに、家を売るとは云われていない。

ただ、まずはお会いしましょう、と云われただけだ。

けれど、そんな悪くない感触を返されれば、期待するなというのも無理な話だった。


「さっき、二階を見せていただきました」


璃羅の言葉に、陽比古が頷く。


「驚いたのです。父の書斎が()()()()でした。そこにある何もかもが十年前と同じ…時間が止まってしまったみたいに」

「かつてのこの家の主人は、翻訳の仕事をしていたと聞きました。興味深い異国の本が並んでいて、僕も時々読ませてもらっていますよ」


確かに、璃羅の父親は翻訳を生業としていた。

子どもの頃、外交官をしていたという祖父について幾つかの国に住んでいた父は、語学の才があったようで、そちらの学問の方面へ進んだ。

大学の講師などもしていたそうだが性に合わず、大学の恩師の紹介で出版社に書物の翻訳の仕事をもらいながら生活していた。

…と、これは父の死後、璃羅と姉の菫を育ててくれた叔母の蘭子から聞いた話だ。


璃羅には母親の記憶がほとんどない。

璃羅が二歳の時に病で亡くなった、と聞いたのはずっとあとのことだ。

「お母さん」はいなかったけど、父と姉の菫と通いで来てくれていた「美代さん」がいて、璃羅は寂しいと感じたことはなかった。

姉が学校に行っている間は、一人で庭で遊んだり、父の時間がある時には本を読んでもらったり、美代さんが炊事や掃除をするあとをついて歩いていた。

父の書斎はいつでも色んなものがある、不思議でワクワクする空間だった。


「父と姉と私の三人で過ごした幸せだった時が、この家にそのまま残っているんです。どうしても駄目でしょうか?」


縋るような表情で身を乗り出した璃羅の背に、そっと惣一郎の手が触れる。

璃羅の勢いに、一瞬だけ目を見開いた陽比古は、すぐに表情を戻して冷静な目で璃羅を見つめた。

ハッと我に返ったように椅子に坐り直した璃羅は、睨むようにテーブルにかけられたゴブラン織に目を落とした。


こちらは単に、お願いしている身なのだ。

この家に対して人一倍思い入れはあっても、何の権利もない。

判ってる。

判ってるけど———


その時。

開いていた窓からザァーと風が入ってきた。


風に誘われるように、璃羅は窓へと視線を向けた。

視線をそのままに、呟くように言葉が溢れる。


「庭を……」

「え?」


勢いよく視線を陽比古へ向け、璃羅は言葉を続けた。


「庭を見せていただいても構いませんか?」


何を思ったか、陽比古は目元を緩めて口の端を上げた。


「いいですよ。どうぞ」


ガタンッと音を立てて立ち上がり、歩き出した璃羅は、何かに気がついたように振り返って惣一郎を見た。

惣一郎は無言のまま首を振る。

しかし彼の浮かべた微笑みに、璃羅も微笑んで返すと、そのまま部屋を後にした。




扉から一歩出ると、西に傾いた陽射しは柔らかくなっており、時折、心地良い風が吹いていく。

よく手入れされた庭は、芍薬やテッセン、原種に近いバラが今を盛りと咲いていた。

その向こうに、さっき二階の窓から見た銀杏の木が見えた。

恐らく昔より高くなっているのだろうが、小さかった璃羅にとっては銀杏はすでに巨木だった。

青々とした葉をつけた銀杏が、秋になると美しく黄色く輝くことを璃羅は知っている。


あの木の根元だった。

璃羅の思考は過去へと飛んだ。



◆◆◆


初めて()を見つけたのは璃羅だった。

隠れる風でもなく、木の根元に腰をおろして前を見つめ、拳をギュッと握りしめていたっけ。

家の外では男の子たちの声がした。

周りを走っているような音と共に。


「お〜い、どこだ!」

「隠れたって無駄だぞ」

「出てこいよ、卑怯者!」

「そうだぞ、貰われっ子のハル!」


それが合図のように、男の子たちの声が重なる。


「貰われっ子のハ〜ル!」


節をつけて揶揄うように連呼する声は、家の側を通り過ぎていく。

彼は微動だにせず、じっと前を見つめたままだ。

その彼の口の端が切れて、血が滲んでいることに璃羅は気がついた。

着ているシャツも破れたところがあり、擦り傷が痛々しい。

璃羅は急いで家の中へ入り、消毒薬を探し始めた。

璃羅もしょっちゅう怪我をするので、絆創膏のありかは知っている。


璃羅の気配に気がついた菫に事情を話し、二人して銀杏の木へ戻った時、その少年の姿は消えていた。

あの時、璃羅は声をかけていれば良かったと後悔した。


しかし、それから時々、その少年は姿を見せるようになった。

大体が同じような状況で、家の周りでは揶揄うような男の子たちの声が響いていく。

最初の時は、璃羅がいたことに気がついていたのかも判らなかったが、二度目以降はばっちり視線が合ったので、彼も璃羅がいたことは判ったはず。

それでも、その少年は黙ったまま、じっと坐っていた。

璃羅が消毒薬と絆創膏を取りに家へ入ると、いつの間にか少年は姿を消していた。


無言のままの少年に、不思議と恐い感じはしなかった。

ただいつも、どこか怪我をしてる様子の少年が気になって、ついに何度目か姿を現した時に璃羅は声をかけた。


「ここで待ってて」


初めて生きている人間を見た、とでもいう風に、彼は驚いたような顔をして璃羅を見つめた。

そのまま璃羅も彼を見つめ返し、彼女は彼が返事をするまで動く気がないことが判ると、ゆっくりと一つ頷いた。

璃羅は急いで家に入り、もうどこにあるのかすっかり把握している消毒薬と絆創膏を持って彼のところへとって返そうとすると、菫が声をかけてきた。

彼女もずっと気にかかっていたらしい。

菫は学校から帰ると、璃羅と入れ替わるようにして美代さんを手伝い、家のことをやっていたのだ。


二人して外へ出ると、果たして銀杏の木の下に彼はいた。

二人に増えた人間に僅かに目を見張り、少年はすぐに無表情に戻った。

菫と璃羅は顔を見合わせて頷くと、彼に近づいていく。

璃羅の手には消毒薬と絆創膏が、菫の手には水筒に入ったお茶と茶菓子の乗ったトレーが握られていた。


「っつ…」


無言のまま怪我の消毒を始めた璃羅に、少年から声が漏れる。

今日は腕に擦り傷があった。

転んだ…いや、転ばされたのだろうか。

しかし少年は、怪我した腕を隠すことなくされるがままになっている。

菫は立ったまま、二人の様子を見守っていた。


「わたしは璃羅。ハルっていうの?」


物怖じしない様子で少年を見上げた璃羅に、彼は璃羅の目を見つめ返し、ちらりと視線をあげて菫に目を遣った。

そのまま視線を璃羅に戻し、小さく頷く。


「ああ」


それが始まりだった。

ハルが璃羅の家の庭に姿を現すと、璃羅が怪我の手当をしたり、3人でお茶と茶菓子を分け合ったり、庭の奥に続く道を探検したりした。

実はハルと菫は同じ学年だということを璃羅が知ったのは、だいぶ後になってからだった。

けれど学校では男子と女子とでは組が違うので、お互いにそれほど知っている訳ではないらしい。


「ハルの瞳、キレイね」


ある時、璃羅はしっかりとハルの瞳を覗き込んで云ったことがある。

本当に綺麗だったのだ。

姉の菫や自分のように濃い茶色の虹彩ではなく、ハルは薄い茶色とグリーンを合わせたような虹彩に金茶色が浮いている。

照れ臭かったのか、ハルは「別に」と呟いてプイッと横を向いた。


その瞳の色は「榛色」というのだと、璃羅が知ったのは少し後になってからだった。


お読みくださり、有難うございました。


書く機会のない、設定について少し説明します。

この世界では、学校に通い始めるのは10歳から。

小学校と中学校が合わさったような初等学校へは4年、経済力と学力がある者はさらに3年学びます。

入学時の生徒のレベルはばらばらで、読み書きから始める者、ある程度の知識があってさらにそれを深く学んでいく者と色々です。

璃羅がハルに会ったのは、璃羅が8歳の時。

まだ学校へは行っておらず、父親が時間のある時に少しずつ基礎的な知識を与えました。

計7年の学校生活を終えた璃羅は、さらに上の学校へは行かず、叔母の会社で仕事を手伝い始めた…ということです。



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